32 震える男
男の世界は、かつてないほどに震えていた。
震撼しているといってもよいほどに。
感じる揺れはさらに激しくなり、身体がぶれる。
目の前を、落盤のカケラが通り過ぎていった。
――この洞窟が崩壊するまで、それほど時間は残されていないでしょう。
一刻も早く、氷の橋に向かって飛んで、逃げないと……!
しかし、足がうごかない。
恐怖ですくんでいるわけではないのに。
――なにを迷っているのですか、迷う必要などなにもないというのに。
しゅるは、勇者様に仕えてきた尖兵の名門……ボンコス家の人間なのですから。
ボンクラーノ様を守るために命を落すのならともかく、ボンクラーノ様を置いて、先に死ぬわけにはいかないのです。
そしてつい、見てしまった。
足元に転がっている少女たちを。
それはもう、死体のように動かないというのに……。
見えない枷のように、男の心を掴んで離さなかった。
初めての感情。
命の瀬戸際だというのに、男は苦悩する。
――なぜ、なぜ彼女たちを捨て置いて逃げないのですか!?
ステンテッドがしゅるたちを置き去りにしたのとは、わけが違うのです!
見捨てたところで、誰もしゅるを責めたりはしない!
それに彼女たちはもう、死んだも同然……!
連れ戻ったところで、以前のように駒として使えるかもわからないのです!
だいいち、彼女たちをひとりでも抱えたら、氷の橋まで飛べなくなってしまいます……!
いわば、空になった酒瓶を気にしているだけのこと……!
飲んでいる最中はいい思いをしたとしても、空になった酒瓶を、かわいそうと思うものはいない……!
そう……!
そうなのですっ……!
男は禿げた頭をぶるんと振って、少女たちから視線を引き剥がす。
意を決したように、前だけを見据える。
――しゅるは、生き延びなくてはならない……!
そして、超えなくてはならいなのですっ……!
あの、オッサンを……!!
ならば、答えはひとつしかありませんっ……!!
男は、ウロコが走っているような細い両腕を広げる。
そして、小さな黒目をカッと見開くと、
……がばあっ……!
おもむろに少女たちを抱き上げ、肩に乗せたっ……!
巻き毛の少女が、「う……」と呻き、薄目を開ける。
その瞳は、信じられない様子であった。
言葉はないが、明らかに、
『わたくしたちを抱えて、この距離を飛べるわけがありませんわ!』
と訴えている。
男は、ゆっくりと頭を左右に振った。
「しゅるしゅる。あのオッサンが尖兵として同行した勇者パーティは、クエストの失敗こそ多くあったものの、死者をひとりも出さなかったそうです。あのオッサンがとても臆病な性格で、クエストを早めに中断していただけかもしれませんが……。それでも、このような状況は幾多もあったはずです」
少女たちを安心させるように、男は頬を緩める。
その顔は、いつも彼がしているような、うわべだけの笑顔ではなかった。
表情筋のない蛇が笑っているような、作りものの笑顔ではなく……。
まるで狼が乗り移ったかのような、力強く、あたたかい笑顔……!
「こんな時、きっとあのオッサンも、同じことをしていたでしょう」
男はそう言って、踵を返す。
揺れる道を戻って、氷の橋から離る。
もう、いつもの調子に戻っていた。
獲物を物理的に追い詰め、精神的にも追いつめていく蛇のように……。
内に秘めたるものは、残忍で狡猾でありながらも……。
それらを一切表には出さない、冷徹なる表情に。
そしてついに、蛇声を放つ……!
「……しゃっっ!!」
裂帛の気合いとともに、スタートを切った。
滑るようなスリ足で、崖っぷちギリギリまで助走をつける。
際の際、足を踏み外しそうなほどの縁を、土踏まずでガッと捉え……。
「しゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーーーーーーーーーっ!!!!」
身体をバネのように伸縮させて地を蹴り、高みから獲物に襲いかかるように……。
宙を、舞ったっ……!!
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
時間は少し戻る。
それは、ボンクラーノたちがモフモーフを殺し、洞窟が崩れ始め、騒然としていた頃。
ちょうどプリムラたちも、静かなる騒乱に包まれていた。
「こ……この子たちが、ユニコーンさん……?」
「あらあら、まあまあ、よく見たら、たしかに角が生えているわ!」
「っていうかマザー、ローブに思いっきり引っかかってるのに気付かないだなんて、ありえなくなくない!?」
「ふーん、そういうバーちゃんも、気付いてなかったじゃん」
「へぇぇ……! これがユニコーン!? よく見たら、いい面構えしてるじゃない!」
「伝説の聖獣というだけあって、寝ている姿もひと味違うな!」
「わうっ! 普通の馬さんではないと、わうは思っていたのです!」
「手のひらクルックルのん」
パインパックはなおも、子ユニコーンとスヤスヤ。
グラスパリーンは膝枕状態のまま、ショックで気絶していた。
そして、ランはというと……。
「ユニコーンってのは警戒心が強いモンスターだって聞いてたけど、まさかこんなにあっさり懐いてくれるとは思わなかったぜ。いずれにしても、またとないチャンスだ……!」
腰のナイフをそっと引き抜いていた。
このナイフは魔法練成がなされたもので、ユニコーンの角を切断するのに特化したもの。
今回のクエストにあたり、特別に作られた武器である。
もちろんクエスト成功の暁には、大々的に売り出す予定になっていた。
「みんなも、覚悟はいいか?」
ランは鋭い声で仲間たちを見回しながら、順番に命じる。
「おい、アタイが今から、膝で寝ているユニコーンの角を切り落としにかかる。スパッとはいかねぇから、途中で気付いて暴れるだろう。他のユニコーンが目を覚ましたときは、そこにいるチビのユニコーンを人質……いや、馬質に取るんだ」
仔ユニコーンのそばにいたシャルルンロットとクーララカは頷き返すと、腰の剣を抜いて、いつでも飛び出せるように身構える。
「グラスパリーンとミッドナイトシュガーは、シャルルンロットとクーララカにマナシールドをかけて援護するんだ。……って、グラスパリーンはまだ寝てやがるのかよ。まあいいや、ミッドナイトシュガーだけで頼む」
赤いずきんをわずかに前後に揺らすミッドナイトシュガー。
「ビッグバン・ラヴのふたりは、アタイが角を切り始めたと同時に、攻撃魔法の準備だ。ユニコーンどもが抵抗してくるとしたら、そこにいるデカいユニコーンが口火を切るだろう。おそらくヤツが群れのリーダーだろうから、ヤツにブチかましてやるんだ」
ビッグバン・ラヴはお互いの顔を見合わせながら、魔法触媒である杖を手に取る。
リーダーらしきユニコーンはちょうど、バーニング・ラヴの膝の上に寝ていた。
巨乳とむっちりした太ももで、馬面がサンドイッチになっている。
最後にランは、プリムラとマザーを……。
特に、プリムラを見据えた。
「マザーは戦闘になって負傷者が出たときのことに備え、癒しの準備をしてくれ。そしてガキんちょ、リーダーであるお前が合図をするんだ。お前の合図と同時に、アタイはユニコーンの角を切る」
仲間たちの真剣なまなざしが、ひとりの少女に集中した。





