橋の下で
四日目の深夜。廃橋の下に潜んでいた。
ロピとレーナは毛布に包まれて横になっており、リオールは橋脚に背を預けて外の気配を伺っていた。
変化が来たのは、深夜二時を過ぎた頃だった。
音ではなかった。神の臓器が、何かを捉えた。微弱な干渉波。ナノマシンへの命令信号が、ごく低い出力で発信されている。魔法を使う存在が近くにいる証拠だ。距離は──橋の上。二つ。
リオールはロピの肩に手を乗せた。揺さぶらずに、ただ置くだけで。ロピの呼吸が変わり、目が開いた。
「二体。橋の上から降りてきます。起きてください、声を出さないで」
ロピは言葉を飲み込んだ。頷いて、レーナの腕を引く。レーナはすでに半分起きていた。状況を把握するまでの時間が短い。長い間、こういう夜を繰り返してきた者の動き方だった。
三人は息を殺した。
橋桁の裏側を、それが来た。
八本の脚を持つ変異体だった。逆さに張り付いたまま、天井を這う虫と同じ動きで橋桁を進んでくる。脚の一本一本が、砂利の間から突き出た廃鉄骨の隙間に吸い付くように刺さっていた。関節が多すぎる。人間の脚なら四つの関節で動く動作を、この個体は十二以上の折れ曲がりで制御している。
それが、音を消していた。歩いているのに、音がしない。聞こえるのはわずかな鼻息だけ。鼻先が左右に揺れ、においを辿っている。嗅覚で感知するタイプだ。
もう一体はまだ橋の上にいる。欄干の陰に潜んで、動かない。こちらの出方を待っている。連携だ、とリオールは判断した。片方が降りて追い立て、逃げた先をもう片方が塞ぐ。単純だが、閉所では有効な戦術だ。
選択肢は二つ。先手を打つか、先手を打つか。
違いは、どちらを先に仕留めるかだ。
橋の上の個体は翼状の膜を持っている。飛翔する。飛翔されれば、ロピとレーナへの軌道が増える。問題はそちらだ。
しかし今、橋の裏側を降りてくる一体目がこちらに気づきかけている。あと三秒で鼻先がこちらを向く。
リオールは三秒で全部を終わらせることにした。
右手を相手の頭蓋に向け、魔法陣を展開した。できる限り小さく、手のひらで覆うように。爆砕点を頭蓋に密着させ、外への放射を最小にする。鼻先がこちらを向く一歩手前、一体目が臭いを捉えようとした瞬間を狙った。頭が正面を向く。標的が固定される。
起爆した。
骨が砕ける音と、脳髄が弾ける音が一つに重なった。一体目が崩れ落ちた。頭部だった場所から黒い液体が広がり、砂に染み込んでいく。
橋の上の個体が、反応した。
予測通りだ。翼状の膜が広がる音がした。欄干を蹴る音がした。リオールはすでに体の向きを変えていた。ロピとレーナの前に立つ。
二体目が飛んだ。急降下。速い。
翼を折りたたんで落下に近い角度で来る。これは囮だ、とリオールの演算が判断した。
羽ばたきがない。失速する気がない。つまりこれは体当たりを狙った突撃であり、止められなければ──後ろまで抜ける。
正面から受けるしかない。
左腕を前に出し、装甲板を盾にして踏ん張った。衝撃が全身に走った。壁際まで叩きつけられ、背中が橋脚の石材にぶつかる。左腕の装甲に亀裂が入る音がした。しかし止まった。ロピとレーナへの衝撃を、体で塞いだ。
二体目が体勢を立て直そうとした。その顔がこちらに迫る。歯の隙間から、腐った匂いの息が来た。胃の内容物と腐肉が混ざったような悪臭だった。八本の脚がリオールの腕と胴体に絡みつく。引き剥がそうとしている。
距離が近い。矢が使えない。
右手で相手の顎を掴んだ。骨が軋む音がするほど力を込め、頭部を固定する。そのまま魔法陣を展開しようとした。しかし八本の脚が肩口と左腕を締め上げ、体ごと揺さぶってきた。照準がぶれる。上半身が軋んだ。このまま展開しても精度が出ない。爆砕点がずれれば装甲の外で炸裂し、ロピとレーナへ爆風が届く。
どうする。計算が走った。
背後で、金属が地面を打つ音がした。
レーナだった。
干上がった川底に落ちていた鉄の管を両手で持って、ディヴォールの側頭部めがけて思い切り振り下ろした。ディヴォールの装甲のような外皮に当たって、パイプが大きくしなった。ダメージはない。それは分かっていた。そんなことは、レーナ自身も分かっていたはずだった。
それでも振り下ろした。
ディヴォールが0.2秒だけ、反応した。振り下ろしてきた方向に顔を向けた。
リオールの顎を掴む力が緩んだ。それだけではない。八本の脚の締め上げが、一瞬だけ緩んだ。上半身の揺れが止まった。
一瞬だけで十分だった。
リオールは右手で相手の頭部を押さえつけながら、魔法陣を頭蓋のすぐ内側へ展開させた。
超至近距離。
展開面積を最小に絞り込み、爆砕の圧力を一点に集中させる。外への放射はゼロに近い。全ての力が、内側へ向かう。
起爆した。
爆発は外に出なかった。ディヴォールの頭蓋が内側から裂けた。頭蓋骨が花弁のように広がり、内部の組織が霧状に飛散してリオールの顔と胸を覆った。黒い液体と白い骨の破片が混じり合ったものが、こげ茶のローブの胸元と白いシャツを黒く染めた。八本の脚が一斉に力を失い、腕の中でディヴォールの体が崩れ落ちた。
「血液黒化度:許容値の九十一パーセント」
しばらく、誰も動かなかった。橋の下に沈黙が戻る。遠くで風が吹いて、干上がった川底の砂が微かに鳴った。
「……終わった?」ロピが、震える声で聞いた。
「終わりました」
リオールはレーナを見た。レーナはパイプをまだ手に持っていた。両手が震えていた。顔は青白かった。しかし目は逸らさなかった。
「何をしていたんですか」リオールは静かに言った。
「助けようとした」レーナは真っすぐ答えた。「効かなかったけど」
「危険でした。素手で──」
「分かってる」レーナが遮った。「分かってて、やった。……役に立った?」
リオールは少しの間、答えを考えた。
「役に立ちました」。
正確な答えだった。0.2秒の隙があったから仕留められた。なければ、状況はもっと悪くなっていた可能性がある。
レーナは何も言わなかった。パイプを地面に置いた。それからリオールの左腕の亀裂を見て、何か言いかけて、口を閉じた。
それから、自分のジャケットの袖を引っ張った。端の縫い目に指を入れて、力を込める。布が裂ける音がして、幅十センチほどの帯が取れた。レーナはその布を、リオールの左腕の亀裂に押し当てた。ぎゅっと、巻きつける。
「……気休め程度だけど」
リオールはその手を見た。布を巻く指先が、まだ微かに震えていた。
「ありがとうございます」
「……さっきのお礼」
レーナは何も言わなかった。顔を横に向けたまま、前を見た。暗い中でも、耳が赤いのが分かった。
ロピがそれをじっと見ていた。
リオールと、レーナと、布を巻かれた腕を見て、何かを言いかけて、やめた。
代わりに小さく微笑んで、毛布を拾い上げた。
三人はボロボロに崩れ去った橋の下を出た。夜の廃野を歩きながら、リオールは左腕の布を時々確認した。気休め程度の布だ。構造上の補強にはならない。防御力も変わらない。ただの布が、亀裂の上に乗っているだけだ。しかしリオールは、その布を外さなかった。外す理由を、見つけられなかった。
あるいは──外したくないという答えが、考えるより先に出ていた。




