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元衛兵は旅に出る〜衛兵だったけど解雇されたので気ままに旅に出たいと思います〜【1,500,000pv感謝】  作者: 水縒あわし
王都編

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卑劣な人質と、槍の間合い



 重厚なマホガニーの内扉が、凄まじい轟音と共に内側へ吹き飛んだ。



「ひぃっ!?」



 室内に響き渡ったのは、ひどく情けない悲鳴。



 舞い散る木片と土煙の向こう側、天蓋付きの豪奢なベッドの脇で、一人の男が腰を抜かして床にへたり込んでいた。



 上等な絹の衣服に身を包み、脂ぎった顔を恐怖に引きつらせている男。



 ハイモア領を食い物にしようと企む諸悪の根源、ウォルシュ子爵その人だった。



「な、何者だ貴様ら! 外の護衛はどうした!」



 子爵の震える喚き声は、土煙を裂いて踏み込んできたクリスの姿を見て、ピタリと止まった。



 クリスは無言のまま、頭に被っていた敵の兜を床へ脱ぎ捨てる。



 汗と泥にまみれた金糸の髪と、かつての気弱な次男坊とは似ても似つかない、鋭く冷たい双眸が露わになった。



「……久しぶりだな、ウォルシュ子爵」


「う、嘘だ……。ウィリアム、なのか……? なぜ生きている! いや、なぜここに!」



 混乱と恐怖で後ずさる子爵を意にも介さず、クリスの視線はベッドの上へと向けられた。



 そこに横たわっていたのは、骨と皮だけになったかのように痩せ細った、初老の男性。



 かつて病弱ながらも厳格で力強かった父の面影はどこにもなく、その顔色は蝋のように青白く、呼吸をしているのかどうかもわからないほど弱々しい。



 その右手には、無理やりインクのついたペンが握らされており、傍らのテーブルには領地譲渡の誓約書が広げられていた。



 ギリッ、とクリスの奥歯が鳴る。



「……よくも、父上を」


「く、来るな!」



 クリスの放つ濃密な殺気に当てられ、ウォルシュ子爵は半狂乱になりながら懐から護身用の短剣を引き抜いた。



 そして、意識のない侯爵の細い首筋に、力任せにその刃を押し当てる。



「一歩でも動いてみろ! この男の喉笛を掻き切るぞ!」



 分かりやすい、あまりにも卑劣な人質劇。



 だが、かつてのクリスなら絶望して歩みを止めていたであろうその光景を見ても、今の彼の心は氷のように透き通っていた。



(……浅ましい男だ)



 クリスは歩みを止めることなく、手にした愛用の槍を静かに下段に構えた。



 そして、冷酷なまでの事実を、ただ淡々と口にする。



「……その短い刃で、僕の槍の『間合い』に勝てると思っているのか」


「なっ――」



 子爵が短剣を握る手に力を込めようとした、その瞬間。



 クリスの身体が、音もなく前方へと滑った。



 氷の上を滑るかのような完璧な踏み込み。



 子爵の動体視力では、何が起きたのかすら理解できなかったはずだ。



 ――ガキンッ!!



「あぎゃあっ!?」



 下から跳ね上がった石突が、子爵の手首を正確に、そして容赦なく打ち据える。



 骨の砕ける鈍い音と共に、短剣が手から弾き飛ばされ、天井へと突き刺さった。



 手首を押さえて床をのたうち回る子爵の顔面を、背後から音もなく近づいていたエドが、分厚い手で無造作に鷲掴みにする。



「……大人しく寝てろ」


 エドがそのまま床の絨毯へ向けて子爵の後頭部を叩きつけると、醜い悲鳴は完全に途絶え、部屋に重苦しい静寂が戻った。



 脅威は、排除された。



「父上……!」



 クリスは槍を放り出し、すぐさまベッドの傍らへ膝をついた。



 震える手で、先ほど医師から奪った青い小瓶の蓋を開ける。



 ゆっくりと父の顎を持ち上げ、わずかに開いた唇の隙間から、解毒薬を慎重に流し込んだ。



 ごくり、と。



 微かな喉の動きと共に、薬液が父の体へと飲み込まれていく。



 クリスは祈るように両手を握りしめ、父の顔を見つめた。



 毒が消え、すぐに咳き込んで目を覚ましてくれるのではないか。



 あの頃のように、厳格な声で名前を呼んでくれるのではないか。



 だが。



「…………」



 静寂だけが、残酷に時間を刻んでいく。



 侯爵の顔色は、土気色のままだった。



 胸の上下も、今にも消え入りそうなほどに浅い。



 長期間にわたって少しずつ内臓を蝕み続けた毒が、薬を一口飲んだ程度で魔法のように消え去るわけがなかったのだ。



「……駄目なのか……?」



 クリスの声が、微かに震える。



 窓際で外の警戒にあたっていたエドが、振り返らずにぽつりと言った。



「焦るな。聖女の奇跡とは違う、ただの薬だ。……親父さんの生命力が、毒の残滓に勝つのを待つしかない」



 その言葉は冷たく聞こえるかもしれないが、紛れもない現実だった。



 やるべきことは、すべてやった。



 後は、父自身の生きる力を信じるしかない。



「……はい」



 クリスは泥と汗にまみれた自らの手で、氷のように冷たくなった父の右手を、そっと両手で包み込んだ。



 今はただ、この微かな脈動が途絶えないことだけを祈りながら。



 部屋の外からは、騒ぎを聞きつけた新たな猟犬たちの足音が、少しずつ、だが確実に近づいてきていた。



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