三日目の朝と、冒険者の宣戦布告
領都の正門前には、朝霧が立ち込めていた。
薄暗い靄の中、ひときわ目を引く豪奢な馬車が停まっている。
車体に刻まれているのは、西方の有力貴族・ハイモア侯爵家の紋章だ。
馬車の周囲には、手入れの行き届いた甲冑に身を包んだ数名の護衛騎士たちが立ち並び、その中心で家令のセバスチャンが腕を組んで待機していた。
今日が、クリスに与えられた猶予の三日目である。
彼らは疑っていなかった。
責任感が強く、領民を見捨てることなどできないあの真面目な次男坊は、自ずと観念して一人でやって来るだろうと。
やがて、石畳を踏みしめる足音が霧の向こうから近づいてきた。
セバスチャンは満足げに口元を緩め、恭しく頭を下げる準備をした。
しかし、霧の中から姿を現した青年の出で立ちを見て、その表情はあからさまな戸惑いへと変わった。
「ウィリアム様……そのお姿は、一体」
現れたクリスは、セバスチャンが期待したような『貴族の身なり』ではなかった。
使い込まれた上質な革鎧に身を包み、足元には『青剛鉄』のすね当て。
そして背には、彼が己の意志で選び取った身の丈ほどの槍が背負われている。
それは紛れもなく、一人の『冒険者』としての正装であった。
さらにクリスの背後には、大きな背嚢を背負ったエドと、歴戦の凄みを漂わせる四人の初老の男たち——昨日ギルドで雇い入れたベテラン冒険者たちが、無言で付き従っている。
「それに、そちらの輩は……?」
眉をひそめるセバスチャンに対し、クリスは静かに、しかし毅然とした態度で告げた。
「僕は、その馬車には乗りません」
「……どういうおつもりですか。領地で不穏な動きを見せる弟君を放置し、家を見捨てるというのですか」
「いいえ。弟が家を乗っ取ろうとしているという言葉自体を、僕は信じていないと言っているんです」
クリスの冷ややかな声が、朝の空気を震わせた。
「倒れた父に代わって必死に領地を支えていた弟を、ウォルシュ子爵の陰謀で切り捨てるおつもりですね? 偽造された書状を使い、僕を大義名分として神輿に担ぎ上げ、弟を排除するために」
その言葉に、セバスチャンの目が驚愕に見開かれた。
三年間も家を空けていた世間知らずの若者が、なぜそこまで正確に現在の盤面を把握しているのか。
理解が追いつかず、セバスチャンは絶句した。
ギルドという巨大な情報網と、クリス自身の高い分析力に裏打ちされた事実の看破。
言い逃れができないと悟ったセバスチャンは、表情を険しくして片手を上げた。
「……やむを得ません。少々手荒になりますが、お連れしろ」
その合図と共に、四人の護衛騎士が一斉に剣を抜いた。
彼らは、かつて実家で剣の稽古を受けていた大人しい次男坊の姿しか知らない。
冒険者ごっこなど、訓練された暴力の前には無力だと侮っていた。
「怪我をさせたくなければ、大人しく剣を捨て——」
先頭の騎士が言い終わるより早く、クリスは一歩踏み込み、背の槍を流れるような動作で構えた。
そして、鋭い踏み込みと共に石突で騎士の足首を払い、体勢を崩したところへ、寸分違わぬ正確さで槍の柄を鳩尾に叩き込んだ。
「がはっ……!?」
甲冑越しでも伝わる重い衝撃に、騎士が白目を剥いて昏倒する。
残りの三人が顔色を変えて斬りかかってくるが、クリスは一歩も引かない。
長年の野営や泥沼の戦いでエドから叩き込まれた、泥臭くも圧倒的に実戦的な槍術。
リーチの差を完全に支配し、大振りな貴族の剣を的確に弾き飛ばしていく。
足元の砂を蹴り上げて目くらましにし、躊躇いなく急所を突く。
ほんの数十秒の間に、クリスは己に迫った二人の騎士の武器を弾き飛ばし、地面に這いつくばらせた。
「実戦を知らない貴族の剣術など、隙だらけです」
見下ろすクリスの冷徹な姿に、セバスチャンは息を呑んだ。
もはや彼の知る『温室育ちのウィリアム様』は、そこにはいなかった。
一方、クリスを迂回して背後のエドたちへ向かおうとした最後の一人の騎士は、最悪の相手と対峙することになった。
「俺の家族に、軽々しく刃を向けたな?」
エドが静かに一歩前に出た。
怒鳴り声を上げているわけではない。
ただ、歴戦の強者のみが放つ、物理的な重さすら感じさせる冷たくどす黒い殺気が、門前の空気を一瞬にして凍らせた。
騎士が本能的な恐怖に顔を引き攣らせ、後ずさろうとした瞬間。
エドの身体がブレた。
剣を抜くことすらしない。
エドは騎士の懐へ瞬時に潜り込むと、鎧の隙間である首筋へ正確無比な手刀を叩き込み、崩れ落ちる体を無造作に蹴り飛ばした。
一切の無駄がない、純粋な暴力の洗練。
背後で見守っていたベテラン冒険者たちも、その静かなる凄みに「相変わらず、底が知れねぇ男だ」と感嘆の息を漏らす。
地に伏し、呻き声を上げる騎士たち。
ただ一人取り残されたセバスチャンは、震える足で後ずさった。
「ハイモア家の次男『ウィリアム』として、あなたたちの思惑通りに戻るつもりはありません」
クリスは槍を収め、セバスチャンに向かって静かに言い放った。
「……ですが、西へは行きます」
「な、何を……」
クリスは懐から、一枚の公式な書類——ギルドの判が押された羊皮紙を取り出し、セバスチャンの目の前に突きつけた。
「これは僕が全財産を叩いて冒険者ギルドに発行した『指名依頼』の受理書です。依頼内容は『西の領地への冒険者クリスの護衛、および現地における正体不明の襲撃者からの親族の身辺警護』。……受注者は、Aランク冒険者エドウィンと、こちらのベテランパーティです」
クリスは、冷たい笑みを浮かべた。
「冒険者ギルドは、貴族の政治闘争には一切干渉しません。ですから僕たちは、あくまで弟の命を狙う『正体不明の賊や暗殺者』を、物理的に排除しに行くだけです。……これなら、何の問題もありませんよね?」
貴族の命令や義務という首輪を完全に破壊し、合法的な『護衛依頼』という建前を使って実家へカチコミに行く。
法と理屈の壁を前に、セバスチャンは完全に言葉を失った。
武力でも、知略でも、もはや彼らを押さえつけることは不可能だった。
「……首を洗って待っていろと、子爵にお伝えください」
クリスの冷ややかな宣告を受け、セバスチャンは逃げるように馬車へと乗り込み、気絶した騎士たちを無理やり引きずり上げて、領都から走り去っていった。
馬車が見えなくなった後、クリスはギルドから借り受けていた小さな鳥籠の扉を開けた。
中から飛び立ったのは、一羽の速達鳥だ。
その足には、王都の近衛副団長である長兄アルベルト宛ての密書が結びつけられている。
事の顛末とウォルシュ子爵の陰謀を記したその手紙が届けば、王都側からも子爵の退路を断つことができる算段だった。
大空へ消えていく鳥を見送ると、エドがニヤリと笑い、クリスの背中を力強く叩いた。
「さあ。身内の不始末をつけに行くぞ」
「……ええ。行きましょう、師匠」




