遅い朝と、市場の喧騒、それと赤いリボン
小鳥のさえずりと、カーテンの隙間から差し込む柔らかな光。
それが、俺の意識を浮上させた最初の感覚だった。
目を開けると、見慣れない天井がある。
一瞬、思考が止まる。
だが、すぐに背中の布団の感触と、部屋に漂う乾いた空気の匂いが、ここが領都の宿屋であることを思い出させた。
「……そうか」
身体を起こす。
隣のベッドでは、ロウェナが布団を蹴飛ばして大の字で眠っていた。
魔物の気配を警戒する必要も、焚き火の番をする必要もない。
ただただ静かで、平和な朝だ。
俺は大きく伸びをして、凝り固まった筋肉をほぐした。
旅の中では当たり前だった、常に張り詰めていた糸が、ようやく緩んだ気がした。
◇
身支度を整えて一階の食堂へ降りると、クリスが優雅に紅茶を飲んでいた。
「おはようございます。よく眠れましたか?」
「ああ。こんなに深く寝たのはいつぶりか分からんくらいだ。……昼になっちまったがな」
窓の外は既に太陽が高い。
俺とロウェナが席に着くと、クリスがメニューを差し出した。
遅めの朝食を摂りながら、俺は切り出した。
「さて、今後のことなんだが」
二人が俺を見る。
「しばらく、この街に腰を据えようと思う」
「腰を据える、といいますと?」
「旅は一旦休みだ。俺たちには休息が必要だし、何より……懐も温かいからな」
俺はニヤリと笑った。
王都の武道大会で優勝した時の賞金が、手つかずで残っている。
当分働かなくても、三人で暮らしていけるだけの蓄えは十分すぎるほどにあった。
「そこで相談なんだが、宿暮らしを続けるか、いっそ借家でも探すか。どう思う?」
「借家、ですか」
クリスは少し考え、そして頷いた。
「良い案だと思います。宿は便利ですが、プライバシーに欠けますし、何より『仮住まい』の域を出ません。腰を据えて生活を楽しむなら、家を借りる方が良いでしょう」
「わたしも! えどといっしょのおうちがいい!」
ロウェナもパンを頬張りながら、元気に手を挙げた。
宿だとどうしても部屋が手狭だ。
ロウェナも成長しているし、自分の部屋や、本を読めるスペースがあった方がいいだろう。
「よし、決まりだ。今日は買い出しがてら、良さそうな物件がないか見て回るぞ」
◇
「まずは服だな。この薄汚れた旅装束じゃ、街を歩くだけで浮いちまう」
俺たちは街の大通りへと繰り出した。
活気ある市場には、色とりどりの果物や野菜、日用品が所狭しと並べられている。
服屋に入り、それぞれの街着を見繕うことにした。
丈夫さ優先の革鎧や厚手の布服ではなく、肌触りの良いシャツや、動きやすいズボン。
ロウェナには、少し可愛らしいワンピースも買った。
両手いっぱいの荷物を抱えて店を出ると、市場の通りですれ違った親子連れに、ロウェナの視線が吸い寄せられた。
その女の子の髪には、綺麗な赤いリボンが結ばれていた。
「……」
ロウェナは目でその子を追い、ふと近くの露店に目を移した。
そこには、色とりどりのリボンや髪飾りが並べられている。
だが、彼女はすぐに視線を足元に落とし、俺の手を引こうとした。
「いこう、えど」
旅の間、俺は彼女に教えてきた。
「荷物になる無駄なものは持つな」「生きるのに必要なものを選べ」と。
リボンは腹の足しにもならないし、身を守る役にも立たない。
彼女なりに、それを理解して我慢したのだろう。
「おい、待て」
俺は足を止め、ロウェナを呼び止めた。
そして露店の前に連れて行き、並んだリボンを指差した。
「欲しいのか?」
「……ううん、大丈夫。これ、やくにたたないし……」
ロウェナは首を横に振ろうとした。
俺はしゃがみ込み、彼女の目線に合わせて言った。
「ロウェナ。俺たちはもう、食うものに困る旅をしてるわけじゃない。旅は今は終わりだ」
「……?」
「ここでは、『役に立つかどうか』なんて考えなくていい。お前が『欲しい』と思うかどうかが大事なんだ」
俺は彼女の瞳を見つめた。
「だから、自分の口で言え。……どうしたい?」
ロウェナは少し迷うように視線を泳がせ、それから露店の赤いリボンを見た。
そして、おずおずと口を開いた。
「……ほしい。あのあかいの、かわいいから……つけてみたい」
「よし。それでいい」
俺は満足して頷き、店主に銅貨を払った。
その場で彼女の髪にリボンを結んでやる。
「へへ……にあう?」
「ああ。旅人の顔から、すっかり街の女の子の顔になったな」
ロウェナは嬉しそうにリボンに触れ、満面の笑みを浮かべた。
◇
その後、俺たちはソフトクリームを食べながら、住宅街を散策した。
「あの家はどうですか? 庭も広いですし、日当たりも良さそうだ」
クリスがレンガ造りの小綺麗な家を指差す。
「悪くないが、少し通りから遠いな。買い物に不便かもしれん」
「あっちのは? やねのうえに、ねこがいるよ!」
「猫がいるからって理由で決めるのはなしだ、ロウェナ」
あーだこーだと言い合いながら、街を練り歩く。
すぐに決める必要はない。時間はたっぷりあるのだから。
夕暮れの風が、ロウェナの赤いリボンを揺らす。
特別な事件は何一つ起きない。
けれど、ただ家を探し、美味いものを食い、笑い合う。
そんな「当たり前の日常」が、今の俺たちには何よりも愛おしかった。




