第二章【四】 笑って
そこは大きな野原になっていた。市が管理している場所なのか、自由に伸びた雑草もある程度の長さで切りそろえられている。
心地いい秋風が髪を揺らしていく。
「気持ちいいねー」
椎は目を細めてつぶやいた。
「夕方になるともっとすごい」
霞が椎の隣に座りこむ。椎も腰を下ろした。
眼下に見える街の景色がずいぶんとちっぽけに見えた。遠くには椎が住んでいる街の景色も見える。まるで雑多にちらかった物置のようだった。
このまま何もなかったことになればいいのにと思った。
霞は椎の母親が死刑にされた殺人犯なんてことは知らなくて、ましてや本当の真実である椎の母親は法に裁かれることなく何者かに殺されてしまったことなんて、思いつきもしない。そうなればいいのにと軽く現実逃避した。
「あ」
霞が小さく声を上げた。
「なにかいる」
しゃらん。鈴の音。
草むらの向こうから白い猫が一匹飛び出してきた。
人懐っこそうににゃーんと鳴くと、椎の足元にすりよってきた。
「かわいい」
椎は目を細めて猫の首筋をなでてやる。猫についた赤い首輪の鈴がしゃらんと音を立てて揺れる。
「飼い猫かな」
「飼い猫だったんだろう」
霞がつぶやいた。
「ノラの生活にだいぶ慣れてる。パートナーのオスも見つかって、飼い主のところに戻る気はなさそうだな」
椎は目を丸くして霞を見た。
霞が首をかしげる。
「なんでそんな目で見る」
「いや……だって。霞、猫の気持ちがわかるの?」
「あ」
霞が固まった。
表情は何を考えているかわからない無表情のまま、動作を完璧に止めた。
そのまま動かなくなる。
「……霞?」
椎の問いかけに、霞の体がぴくっと動いた。
それから深々と息を吐く。
「ああ、やってしまった」
首を左右にふる。
「ああもう、どうして」
しばらくの間ひとりでひとしきりわけのわからないことをつぶやいたあと、霞は椎に頭を下げた。
「すまない、忘れてくれ」
「は?」
わけがわからない。
「俺はいま何も言ってない。忘れてくれ」
しかし霞の勢いにおされてうなずいた。
「うん。そういうことにしておく」
「そういうことにしておいてくれ」
しばらく沈黙が続いた。
椎はくすっと笑う。
「なんで笑う」
霞の怪訝そうな声。
椎は思わず声に出して笑った。
「ははっ。だって霞、必死なんだもん」
「必死で何が悪い」
「ううん、なにも」
椎は草むらの上に寝転がった。
「あーあ、面白い」
風が頬をなでる。
首を少し動かして、霞の顔を下から見上げながら椎はきいた。
「ねえ、霞」
霞が椎の顔を見る。目が合う。
「霞はどうして笑わないの?笑えないわけじゃないんでしょ」
「……まあ」
目を合わせたまま、霞が尋ねた。
「……どうして椎は、そこまで笑うことにこだわる。笑わなくても、表情なんか作らなくても、社会では充分生きていけるのに」
「どうしてって……」
椎は返答に困って視線を泳がせた。
「どうしてもなにも、表情って無意識のうちに作っちゃうものじゃないの?」
そうなのか?という感じで霞が椎を見る。
霞の目線が椎の脇で寝ている白い猫に止まった。
「表情を作るのは意識的にやるものとばかり思っていた」
「意識なんてしてたらみんな面倒臭くなって霞みたいな無表情になるよ」
むしろそうだったからこそ、霞は無表情だったのだろうが。
それに、と椎はつぶやいた。
「誤解されちゃうよ?いつまでも無表情でいるとね。この人は自分のことをきらいなんじゃないかとか、人前に出るのが苦手なんだろうかとか」
霞はその言葉にしばらく黙っていた。
それから訊く。
「椎は、誤解していたのか?俺のこと」
椎は一瞬きょとんとなって、それから大きく首を振った。
「ううん、まったく」
霞は無言で街を見下ろした。
「……それならいい」
「なにそれ」
椎はふっと笑って寝返りを打つと、座っていた霞の肩に手を置いて押し倒した。
「霞って本当にわかりやすい」
「わかりにくいとはよく言われる」
「だって表情が声に出てるんだもん」
霞の顔が近くに見える。
「ねえ、霞」
椎はそっとつぶやいた。
「笑って」
霞が椎からゆっくりと視線を外した。
「誰かのために表情を作りたがるのは―――幸せに育てられたからだ」
「霞は違うの?」
霞が小さく首を振った。縦ではない、横に。
「俺にも俺のことを思ってくれる育ての親がいたよ」
「じゃあどうして」
「……いつまでも、とうの昔に変わってしまった人のために作り笑いを続けたり、やめてくれと泣き叫んだりするのには、もう疲れたんだ」
霞の横顔がさみしそうにゆがんだ気がした。
「そうしているうちにいつの間にか、表情を意識的に作るようになった。でもそうすると、自分がどこにいるのかわからなくなるんだ」
笑えないわけではない。笑わない。
笑わないんだ。
「霞」
椎は霞の体に覆いかぶさるように倒れ込んだ。
「霞は本当にわかりやすい」
「なんで」
「だって、今の霞、泣きそう」
霞があわてたように顔に手をやったのがわかった。
椎はクスッと笑った。
「作れるでしょ、表情」
「……うるさい」
不機嫌な声が返ってきた。
心地いい風が吹く。そういえば今日は本当にいろいろあった。まぶたがゆっくりと閉じていく。
「……椎、椎?」
すぐ耳元で、霞の呼びかける声。
肌に感じる霞の体温。
―――あったかい。
「椎?」
小さく呼びかけてみる。
スーと小さな寝息が聞こえてきた。
霞はわざとらしくため息をつくと、目を閉じた。
このまま何もなかったことになればいいのに。嫌なことなどすべて忘れて、なにもなかったことになれば。
でもそうなったら、いったいどれだけの思い出がこの中から消えてしまうのだろう。
きっとほとんど何も残らないに違いない。
「―――それはいやだな」
霞はぽつりとつぶやいて、それから小さく微笑んだ。
***
ツキフジがソウに初めて会ったのは、もう百年以上前のことだった。
不思議な子供だと思ったのが第一印象。強力な妖力を持ちながら、人間と一緒に暮らしている。人間もその子供を妖怪だと知っていて暮らしているようだった。
ソウを自分の下につけたいと思うのにたいした時間はかからなかった。
数か月後、ソウのいた村は滅ぼされた。
偶然だった。
ツキフジはソウの育ての親の魂を成仏させることを条件として、自分の下につくことを命じた。ソウはそれに承諾した。
「あんたはどうなりたい、ソウ」
「……べつにどうも」
「駄目だな、希望がないと何も見出せない」
ソウが顔を上げた。
ツキフジは唇の端を釣り上げた。
「希望がないと、絶望した顔もない。心ある者がそれじゃあおもしろくない」
こちらを見あげるソウの顔が、まるで汚物でも見るかのように歪んだのがわかった。そうか、彼はこういうやつが、自分のようなこういうやつが嫌いなのか。憎いのか。
人間に育てられた妖怪なのだから、仕方がないのかもしれない。
それでも、とツキフジはソウの顎に手をかけた。
「あんたは今日から俺の下につくんだ。しっかり働いてくれよ、ソウ」
ソウがツキフジから目をそらした。そらしてつぶやいた。
「わかっている、ツキフジ」
ずいぶんと昔のことを思い出してしまった。
ツキフジは小さく息を吐くと、パイプの煙草を思い切り吸い込んだ。
たっぷりと吐き出す。
「面倒くさい立場になったな……」
ぷかぷかとただよう煙を目で追いながら、ツキフジはつぶやく。
「まあいいか」目を閉じる。「いざとなればソウを使えばいいんだし」
目を開ける。「あ」
ため息をつく。
「ソウはソウでいろいろあるしなあ」
煙草を吸う。吐き出す。
「まあいいか。本当にピンチになれば、手はいくらでもある」