第二章【参】 とんかつと卵ごはん
「椎。お母さんはね、狂ってしまったの」
そうつぶやいて、頭をなでられる。
優しい母の声は、しかしどこかさみしそうだった。
「死ぬことが怖くて怖くてしかたがなくて……。やってはいけないことをしてしまった」
母がうつむく。
「馬鹿ね、本当に」
「……お母さん?」
椎は顔を上げた。
母の肩が小刻みに震えていた。母は泣いていた。
「馬鹿ね……本当に馬鹿。……誰にだって、大切な人はいるのに……私の都合で奪っていいものじゃ…なかったのに」
泣きぬれた顔で、母は椎のことを抱きしめた。
「椎、あなたはいい子だから。お母さんの気持ちなんかわかってはだめよ」
母の言葉が頭の中で響いている。
だめ?だめなの?
お母さんの気持ちをわかっちゃだめなの?
お母さんが何に恐怖しているか。
わかってしまったらいけないの?
言葉が渦を巻く。
どうして?
だって私も―――。
椎は母の背中にそっと触れた。
「わかるよ」
抱かれた体越しに、母の表情が固まったのがわかった。
「いま……なんて」
「わかるもん。私も怖かったもん。八十年後かそれとも明日か、いつ死ぬかわからないのがこわい。お母さんもそうでしょう?だから」
「椎」
母の瞳が椎をとらえた。もう泣いてはいなかった。
「……馬鹿ね、椎」
悲しそうに笑って。
「それでもあなたは私と同じにはなっちゃだめなの。心を強く持って踏みとどまれば、
誰よりも心の強い子になれるから」
そしてそっと、その唇に口づけする。
「愛してるわ、椎。私の大切な娘」
それが母の、最期の言葉だった。
***
帰りの道は無言だった。
結局買い物はできなかったので霞が叶重の携帯に電話をして事情を説明し、そのまま帰ってくることになった。
椎は何を話していいのかわからずに、ただただ沈黙を守った。それはきっと霞も同じだったと思う。それでも椎は顔を上げることができずに霞に手を引いてもらっていた。
気が付けば太陽は高いことろまで昇っていて、そういえばまだ一日は半分しか過ぎていないんだなとぼんやりとする頭の中で考えた。
「……昼ごはん」
霞がポツリとつぶやいた。
「どこで食べる?」
「え?」
椎は顔を上げた。その瞬間お腹がなる。
霞が椎の顔を見た。
「腹が減っているのか」
「べ、別にいまのはそのお腹の虫が起きて……その…えっと」
自分が何を言っているのかわからなくなって、椎は正直につぶやいた。
「……その、とってもお腹がすいています……」
霞が小さく息を吐いた。
「すぐそこに安くておいしい店があるんだが、どうする?」
「行く!」
椎は即答した。
霞が言っていた店は、本当にすぐ近くにあった。
昔ながらの小さい定食屋だった。
「霞って、よくこのあたりに来るの?」
「まあ」
店ののれんをくぐる。
「少し前までこのあたりに住んでいたんだ」
「へえ」
座敷の席を見て、霞が言った。
「あそこに座る」
「二人だけなのにちょっと広すぎだよ」
椎は反論したが、霞が無視してそのまま席に座ってしまったので椎も仕方なく霞の向かい側に座った。
「すいてるからいいんだ」
霞がそうつぶやいて、壁の張り紙を指した。
「メニュー、あそこから選んで」
「うん」
椎は壁に並んでいる料理名を端から端まで見渡した。
―――いっぱいある……。
その中のひとつに目が留まった。
―――あれにしよう。
「すいません、注文いいですか」
霞が手を挙げて店員を呼んだ。
この店の主人の奥さんなのか、器量のいい四十代くらいの女の人が出てきた。
「はいはい、注文ね」
そういいながら慣れた手つきで注文票を出す。
「俺はとんかつ定食。……椎は何にする」
霞が椎を見た。
「えっと……わたしは」
椎は壁のメニュー一覧を指さして言った。
「あれください」
「はいよ」
向かいの席で、霞が目を丸くしたのが見えた。
「卵ご飯なんて家でも食べれるだろう」
「いいの」
霞の前にはとんかつ定食、椎の前には卵ご飯と漬物、それに味噌汁が置いてあった。
「……わざわざこんなところ来なくても作れるものばかりだな」
霞の正直な感想。
椎はふんっと鼻を鳴らした。
「いいんだって。おいしいんだから」
「……なんかお前の前でとんかつ定食を食べてると、申し訳ない気分になる」
「人の勝手でしょ」
椎はそういいながら箸を進めていく。
霞もため息をつくととんかつを口に入れた。
「霞って、左利きなんだね」
「ん、ああ」
霞が箸を止めて、手を広げた。
「一応どちらも使えるんだが」
右手には大きくただれた火傷の跡がある。
椎はそっと目をそらした。
「……ごめん」
「なんでお前があやまる」
霞が首をかしげる。
「この火傷のことだったら、俺は別に気にしてない」
そして箸に挟んだとんかつを椎に差し出す。
「食べるか?」
「いいもん。卵ご飯だっておいしいんだから」
椎は見せつけるように卵ご飯を一気にあおった。瞬間むせる。
「落ち着いて食べろよ。べつに取って食おうとか思ってないから」
「わかってるもん」
味噌汁を飲んで喉を落ち着けると、椎は口を尖らせた。
「霞は卵ご飯の良さがわかってないんだよ」
「……家でも食べれるだろ」
***
「お母さん、卵ご飯なんか家でも食べれるでしょ。せっかくの外食なんだからもっとおいしいものを食べようよ」
「わかってないわね、椎は」
母は笑って卵ご飯をかき込んだ。
「おいしーい」
「貧乏みたいじゃん」
「いつか椎にもわかるよ」
母の言葉に椎はぷくっと頬をふくらませる。
「わかんないもん」
***
「外で食べるからおいしいんだよ」
椎は得意げに笑ってみせた。
「……俺にはわからない」
「いつかわかるんだって」
霞が最後のとんかつを口に入れるのと同時に椎も味噌汁を飲み終えた。
「ごちそうさま」
丁寧に手を合わせる。
「ごちそうさま」
霞もそういって手を合わせた。
「なあ、椎」
霞が帰りがけに呼びかけてきた。
「なに?」
椎は振り返る。霞が椎から目をそらした。
そして小さな声で、こう尋ねた。
「お前の母親は、誰に殺されたんだと思う?」
「……」
駅の前だった。
乗るはずだった電車が音を立てながらゆっくりと目の前を通り過ぎていく。
「……お母さんは誰にも殺されてない」
椎はしぼりだすようにつぶやいた。
「お母さんは法律に裁かれて死んだんだ」
「ニュースではそう報道されていたな」
「……」
霞は椎の母親のことを、なにも知らないのではなかったのか。
―――いや。
椎はうつむいた。知らず知らず手を握りしめていた。
椎の母親が殺人鬼だと知っていても、霞は椎と普通に接していた。
何も知らないふりをしていた。
「椎」
霞の声が霞の声ではないような気がした。
「……どうして、知ってるの。そんなこと」
そう聞き返すのがやっとだった。
だって。だって。
椎の母が死刑になる前に誰かに殺されたことは。
椎と警察の関係者以外。
誰も知らないことなのだから。
霞が椎に手を伸ばす。
椎は一歩下がった。
「椎」
「来ないで」
霞が首をかしげた。
「どうして」
「知ってたんでしょ、お母さんのこと」
「それがどうした」
風が吹いた。聞き間違いかと思った。
「今、なんて?」
「だから、それがどうしたって聞いているんだ」
霞が椎の手を握った。
「高台に行こう」
「え?」
「いい景色が見えるから。そこで話す」
霞がまっすぐに椎を見ている。
その目はやはり水面のように静かで、表情も普段と全く変わっていなかったけれど。
「嫌か?」
霞が尋ねる。
椎は首を振った。
「ぜんぜん」
霞はうなずくと、椎の手を引いて歩き出した。




