第一章【壱】 木の箱
「俺はこういう店が嫌いだと言わなかったか?ウメノ」
彼は男をみてつぶやく。
男―――ウメノは彼を鼻で笑うと、
「いいじゃねえか。こういう密談をするような場所は、遊郭か豪華なお屋敷だって昔から相場が決まってんだ」
狐の耳をつけた女がウメノに酒を注ぐ。
ウメノはその酒を一気にあおると、彼に向かって突き出した。
「頼むぞ、霞。あんた腕だけは立つんだから」
霞と呼ばれた彼は軽くうなずく。
「わかってるよ」
ウメノは狸のような姿をしていた。いや、ようなではない、実際に狸なのだ。
霞は心の中でため息をつく。しかし外から見れば、きっといつもの無表情にみえるだろう。表情を作れないのではない。彼は表情を作ることが面倒なのだ。
ウメノは霞の顔をまじまじと見つめた。酒のにおいが鼻につく。
「そんな無表情だと、何考えてるかわかんねえよ」
その言葉に、霞はため息をついた。
「俺はいつも、誰かに嫌われないように生きていくのに精一杯だよ」
「そりゃ違いねえやあ!」
ウメノは豪快に笑った。
それからふと真顔に戻る。
「頼むぜ。あの野郎、もう五年前に失踪してるんだ。早く見つけて始末してくれねえと、うちの組織の面子が立たねえ」
そしてスッと目を細める。
「なあ、霞。ウチに来ないか?あんたが来てくれたら、組織だってだいぶ楽になるだろうし、それにあんたも、なあ。楽になるだろう」
口元には、歪んだ笑み。
こんなときだけ、目の前の男は妙に鋭くなる。
霞は再びため息をついた。
「俺は誰の下にもつくつもりはない」
霞は、人間世界とは別の、しかし隣り合わせの、鮮やかな色の街を出た。
***
早足で過ぎていく人の影。
何十、何万といる人ごみの中の一人になる感覚。
すうっと息を胸に入れる。
同じだけ息を吐き出す。
深呼吸、深呼吸。
人ごみは動きづらくて嫌いだが、生活費のためだ。そんなことも言っていられない。
―――バイトの面接って、どこだっけ。
地図を片手にあたりを見渡す。
ここからはまだ距離がありそうだ。こんな人ごみでは、なかなか辿り着けそうにない。
ふふっと彼女は笑った。
―――時間に余裕を持って出てきたから、大丈夫だもんね。
いままでのアルバイトの面接では、ことごとく落ちてきた。
社会で働き始めてたった半年の自分が一発で受かると思うほど自惚れているつもりはなかったので、最初の五回ほどは落ち込むことはなかった。
しかし、その数が十を超え始めると、焦りを感じ始めた。
そして先週、彼女が預かってもらっていた施設から電話がかかってきたとき、彼女は決意した。
今度こそは落ちるわけにはいかない。
いつまでも施設に頼っているわけには行かないのだ。
そのとき。
「―――ッ」
勢いよく走ってきた誰かと正面から衝突した。
鞄の中身が飛び散る。
「った!ちょっと!」
思わずその服の裾とつかんだ。
「謝罪の一言くらい……ッ」
「……」
その瞳。
彼女は息を飲んだ。
振り返った彼が、あまりにも静かな目をしていたから。
まるで、雨上がりの湖のような。
深さのわからない、森のような。
こんな目をできる人間がいるだろうか。
少なくとも彼女は見たことがない。
「……」
彼女がなにも言わないのを見て、彼は小さくつぶやいた。
「……手」
「え?」
「離して」
「え、あ」
言われるままに離す。
彼女はハッと息をのんだ。
大きくただれた火傷の跡。
彼がそれを隠すように袖の中へしまったのを見てしまった。
「……あ」
彼女はなにかをつぶやきかける。しかしそれは言葉にならない。
彼女からついと目を離すと、彼は何事もなかったかのように早足で人ごみの中に消えてしまった。
彼女はただ呆然とその姿を見送っていた。
雨が、降り始めた。
いやな雨だな、と思う。
じめじめと暗い。心の中にじくじくと入り込んでいくような雨。
―――傘、持ってこればよかったな。
彼女は駆け足で人ごみの中を抜けていく。
時折人にぶつかるたび、うつむきながら謝った。
アルバイト先の面接会場が見える。会場といっても、店の事務室のようなところだが。
時間は十分に間に合っているはずだ。
扉を開けて、駆け込む。
雨音が遠ざかった。息を吐く。
「―――十分遅れ」
「え?」
彼女は顔を上げた、その先にキャスケット帽をかぶった男の人。
「じょーだん」
ぺろっと舌を出し、彼は笑った。
「今、かなりびびったでしょ」
「……あ、はい」
うなずく。
それと同時に疑問が浮かんできた。
―――誰?この人。
はっきりいうと、馴れ馴れしい。
「あ、僕ね」
彼は笑いながらこちらへ近づくと、四角い名刺を差し出した。
「ここの店長。よろしく」
「え、ええ?」
思わず声が裏返った。
「て、店長さんですか!」
「そ、店長。できれば名前で呼んでほしいな」
「あ、はい」
名刺を見る。
手書きとしか思えない質感の、綺麗な達筆の字で名前が書いてあった。
寺石 叶重
「てらいし……、かのう…違うな、えっと……」
「かなえって読むんだ、それ」
[叶重]のところを指で示して彼は言った。
「かなえさん、ですか」
「うん、そうそう。そうやって呼んでほしいな」
叶重が頭にかぶっていたキャスケット帽を取る。
「あと三人くるはずなんだけどなあ。……ところで君の名前は?」
「私ですか?」
「うん」
叶重が顔を覗き込んでくる。
彼女は居心地が悪くなって目を逸らした。
逸らした目線の先に、メモ帳を鉛筆が置いてあるのが見えた。
「あの、紙、貸してもらえますか?」
「どうぞどうぞ」
彼女はそこに座り込み、さらさらと紙に何かを書き付ける。
「読めますか、これ」
木暮 椎
そこに書かれた漢字を見て、駿が答える。
「こぐれ、しい」
「はい」
椎はうなずく。
「あたりです」
「……クイズ番組じゃあないんだけどな」
そのとき、入口の扉が開いて、人が入ってきた。
うつむいているので顔は見えない。
傘を持っていなかったのか、髪も服も濡れて水浸しになっている。
―――面接を受けに来た人かな。
そうだとしたらライバルだ。
椎はこぶしを握りしめた。
その肩に、叶重が手を置く。
「うちのバイトだよ。ちょっと前から来てくれてる」
そして片手を上げる。
「やあ、霞君。手伝いかい?」
「……別に」
霞と呼ばれた彼は、相変わらず顔を上げない。
それどころか椎をちらりと見ると、逃げ出すように店の奥へ入っていってしまった。
―――……あれ、あの目……って。
椎は叶重を見上げる。
叶重は肩でため息をつくと、椎を見た。
「あの、今のは」
「霞君って言ってね、本名かどうかは僕も知らないんだけど。君のことを見たことがあるみたい」
なんとなく心当たりがあるして気がして、椎は顔を上げると霞が消えた店の奥を睨んだ。
しかし霞が出てくる気配はない。
叶重は壁に掛けられたアナログ時計に顔を向けると、立ち上がった。
「じゃあ、ちょっと早いけど、始めるかな。面接」
「あの、でも他の人がまだ……」
椎は告げると、叶重はなんでもないことのように言った。
「もう来てるよ」
「え」
椎が顔を上げる。
叶重は申し訳なさそうに笑った。
「あのね、面接会場の入口、ここじゃないんだ」
椎は自分の顔がすごい勢いで赤くなるのを感じた。
***
「あーあ」
公園のベンチに座って、コーラを一気に飲み干す。
面接は無事に終了した。あとは数日後の結果をきくだけだ。
やれるだけのことはした。
やれるだけのことは。
椎はため息をつく。
―――それにしてもあの店長さん、変わった人だったな。
「……かなえさん、だっけ」
秋も深まってきたのか、長袖を着ていても肌からさす空気が冷たい。
五時を知らせる音楽が響き、公園で遊んでいた子ども達が帰っていく。
「そろそろ帰るか」
つぶやいて立ち上がったとき。
「………あ」
椎は声を漏らした。
目の前に、今日面接に行くときにぶつかった彼が立っていた。
顔を見たのは一瞬だったが、袖からのぞく火傷の跡と、あの静かな瞳が目の前の彼と同じ色をたたえていたので、同一人物だと思ったのだ。
ふいに思い出したことがあった。
「あ、あのさ」
つぶやきに近い声を掛ける。
その声が聞こえていたのかはわからないが、彼は二、三歩こちらに歩み寄ると、ポケットからなにかを取り出した。
「え?」
それは、木で出来た小さな箱。
飾り気のない、古ぼけた箱。
「落ちてた」
彼はそう言って彼女に箱を渡す。
「余計な世話だったかもしれないけど……」
「あのさ!」
椎は彼の顔を覗き込む。
―――やっぱり。
椎は笑う。
「君、霞君でしょ!」
「……」
帰ってきたのは沈黙だった。
「……っとぉ、あれ?」
なんとなくいやな予感がして、椎は彼を見る。
彼は、椎から目を逸らした。
「………そうだ」
「え?」
椎は思わず聞き返す。
彼が大きなため息をついた。
「俺が霞だって言ってる」
「やっぱり!」
さきほどの不安はどこかへ吹き飛んで、椎はぱっと笑顔になった。
「やっぱり霞君だった!」
霞は頭を押さえると、椎に言った。
「その霞君っていうの、やめてくれ。むずむずするから呼び捨てでいい」
「うん」
椎は素直にうなずいた。
「ありがと、霞」
「え?」
戸惑った声。
声ではお礼を言われたことに戸惑っているのに、表情がまったく戸惑っていない。というより、無表情のまま動かないのだ。
―――変なの。
椎は笑った。
そして霞が拾ってくれた小さな木の箱を持ち上げる。
「これね、大切なモノだから」
その静かな瞳を見つめ、椎は霞と改めて向き合った。
「ありがとう。本当にありがとう」
霞は軽くうなずいただけで無表情だった。
そういう表情しか作れない人なのかもしれない。
太陽の燐片が、西の空へ消えていく。
世界が茜色に染まっていく。
霞がそれを見て目を細めた。
「俺、もう行かないと」
「あ、うん」
霞が背を向けて去っていく。
「……あれ?」
さきほどまで霞がいた、そこに落ちていたのは、黒い羽。
―――カラスかな。
さっきまでは落ちてなかったのに。
羽を拾う。
闇を溶かしたような、深い色をしていた。
椎はそれを綺麗だと思った。
―――でも、これ、どこかで……。
思い出せない。
椎はため息をつくと、霞が拾ってくれた木の箱をにぎった。