期待
リーフ・ヴァルグレンは、朝の鐘が鳴るよりも早く目を覚ました。
窓の外は、まだ薄暗い。
東の空がわずかに白み始めているだけで、屋敷の庭には夜の冷たさが残っていた。窓硝子には細かな水滴が浮かび、吐いた息が白くほどけていく。
今日は、リーフが十歳になる日だった。
そして、スキル鑑定の日でもある。
リーフはベッドから起き上がると、しばらく自分の両手を見つめていた。
小さな手。
指は細く、剣を握るには頼りない。手のひらには、昨日の稽古でできた赤い跡が残っている。
木剣を落としたときにできた傷だった。
「……痛くない」
誰に言うでもなく、リーフは呟いた。
本当は、痛かった。
けれど、痛いと認めてしまえば、昨日の稽古で何度も失敗したことまで認めるような気がした。
兄のように、一度で剣を振り下ろすことができない。
父に教えられた足運びを何度繰り返しても、途中でつまずいてしまう。
それでも、稽古を休んだことはなかった。
父が見ているからだ。
父に失望されたくなかった。
リーフは服を着替え、鏡の前に立った。
白いシャツに、深い紺色の上着。胸元には、ヴァルグレン男爵家の紋章が刺繍されている。
銀の盾と、その中央に描かれた一本の剣。
家の者は皆、この紋章を誇りにしていた。
ヴァルグレン家は、代々騎士を輩出してきた家系だ。
大きな領地を持つ家ではない。王都からも遠く、山と森に囲まれた小さな土地を治める男爵家である。
それでも、戦が起これば兵を出し、魔物が現れれば先頭に立って戦う。
剣を持つ者が領民を守る。
それが、ヴァルグレン家に受け継がれてきた誇りだった。
「強い者は、弱い者を守るために力を使う」
幼い頃に聞いた父の言葉を、リーフは思い出した。
「剣は人を傷つけるためだけのものではない。守ると決めたものの前に立つためのものだ」
リーフは、その言葉が好きだった。
だからこそ、剣をうまく扱えない自分が悔しかった。
鏡に映る自分の姿を見つめながら、リーフは胸元の紋章をそっと撫でた。
今日、どんなスキルを授かるのか。
剣士。
騎士。
あるいは、父や兄の役に立てる何か。
期待しようとすると、胸の奥が苦しくなった。
期待が大きいほど、失敗したときの痛みも大きくなる。
そのとき、扉の向こうから控えめなノックが聞こえた。
「リーフ様、お目覚めでしょうか」
「はい。今、出ます」
扉を開けると、年配の侍女が立っていた。
「おはようございます、リーフ様。本日はおめでとうございます」
「おはようございます。ありがとうございます、ミラさん」
リーフが頭を下げると、ミラは少し驚いたように目を瞬かせた。
「本当に、礼儀正しくなられましたね」
「父上から教えていただきました。家の者として、挨拶は大切だと」
「ええ。きっと旦那様もお喜びになります」
その言葉に、リーフの胸が温かくなった。
父が喜ぶ。
その想像だけで、早くなった心臓の鼓動がさらに強くなる。
廊下へ出ると、朝の屋敷は静まり返っていた。
壁には歴代当主の肖像画が並んでいる。
鎧をまとい、剣を携えた者たち。
初代当主は、魔物の群れから村を守った騎士。
二代目は、国境の戦いで敵将を討ち取った剣士。
三代目は、山道に巣食っていた飛竜を退けた英雄。
肖像画の下には、それぞれの功績を記した銘板が飾られている。
リーフはその前を通るたび、背筋を伸ばした。
いつか自分も、この家に恥じない人間にならなければならない。
そのとき、廊下の向こうから足音が聞こえた。
「おはよう、リーフ」
振り向くと、双子の兄であるレオンが立っていた。
リーフと同じ十歳だが、レオンの体つきは少しだけ大きい。短く整えた金色の髪と、父によく似た青い瞳。今日のために仕立てられた礼服を着ている。
「おはようございます、兄上」
「兄上はやめろよ。僕たちは双子なんだから」
「でも、兄上は兄上です」
リーフが答えると、レオンは困ったように笑った。
二人は同じ日に生まれた。
ほんの少しだけ先に生まれたレオンが兄で、あとから生まれたリーフが弟だった。
昔は何をするにも一緒だった。
庭を走り、木の枝を剣に見立てて遊び、母に叱られると二人で隠れて泣いた。
けれど、剣の稽古が始まってから、少しずつ違いが出てきた。
レオンは剣を振るのが上手だった。
父から教わった動きをすぐに覚え、木剣を握る姿には迷いがない。
昨日の稽古でも、父は何度も頷いていた。
一方、リーフは何度も転び、最後には木剣を落とした。
「緊張してるのか?」
レオンが尋ねる。
「少しだけ」
「大丈夫だよ。僕が一緒にいるから」
「兄上は、きっと剣士のスキルを授かりますね」
「リーフだってそうだろ」
レオンは、何でもないことのように言った。
「僕たちはヴァルグレン家の子供なんだから。父上も、リーフには剣の才能があるって言ってたじゃないか」
リーフは返事をしなかった。
父がそう言ったことは、確かにある。
幼い頃、リーフが初めて木剣を持った日、父はしゃがみ込んで彼の目を見た。
「リーフ、お前は私の息子だ。焦らなくていい。剣は必ず振れるようになる」
父の大きな手が、リーフの肩に置かれた。
「お前には、お前の役目がある」
その言葉を、リーフはずっと覚えていた。
自分にも役目がある。
そう思えば、転んでも立ち上がることができた。
二人が食堂へ入ると、すでに家族が揃っていた。
上座には父、ヴァルグレン男爵が座っている。
広い肩に黒い髪。年齢を重ねても衰えない鋭い眼差し。普段は領地の仕事に追われているが、騎士として鍛えた体は今も強靭だった。
その隣には母が座り、向かい側には長兄のグランがいる。
グランは十五歳。
すでにスキル鑑定を終えており、剣士スキルを授かっている。
王都の騎士団からも、将来を期待されているほどだった。
「おはようございます、父上。母上。兄上」
リーフとレオンは揃って頭を下げた。
「おはよう」
父が頷く。
朝食が運ばれてくる。
焼きたてのパン、香草を使った卵料理、温かなスープ。
普段より品数が多いのは、今日が特別な日だからだろう。
リーフは姿勢を正し、ナイフとフォークを手に取った。
食事中に大きな音を立てない。
口に物を入れたまま話さない。
食器は決められた順番で使う。
そうした作法は、母から何度も教えられてきた。
けれど、父が向かいにいると、いつも以上に緊張する。
「リーフ」
父に呼ばれ、リーフは顔を上げた。
「はい」
「今日の鑑定を、どう考えている」
喉が詰まりそうになる。
「……ヴァルグレン家の一員として、恥ずかしくない結果をいただきたいと思っています」
「それだけか?」
父の声は厳しかった。
怒っているわけではない。
だからこそ、リーフは余計に緊張した。
「はい。ですが、どのようなスキルであっても、授かった力を正しく使えるよう努力します」
母がわずかに目を細めた。
父はしばらく黙っていた。
それから、ほんの少しだけ口元を緩める。
「よく覚えていたな」
リーフの胸が跳ねた。
「力は、持つだけでは意味がない。鍛え、使い、誰かを守るために役立ててこそ価値がある」
「はい」
「お前には期待している」
その言葉は、重かった。
けれど、嬉しかった。
リーフは父の期待に応えたかった。
父のように強くなりたかった。
兄のように、迷いなく剣を振れるようになりたかった。
朝食を終えると、一行は屋敷の礼拝堂へ向かった。
廊下を歩くあいだ、リーフは何度も深呼吸をした。
礼拝堂の中央には、青白い光を宿した鑑定石が置かれている。
神官がその隣に立ち、家族が見守る中、まずレオンの名前を呼んだ。
「レオン・ヴァルグレン」
「はい」
レオンは背筋を伸ばして前へ進む。
父が静かに見つめている。
母が祈るように手を組んでいる。
リーフは、兄の背中を見つめた。
レオンなら大丈夫だ。
きっと、父の期待に応えられる。
レオンが鑑定石に両手を置く。
やがて、鑑定石が強い光を放った。
神官が読み上げる声が、礼拝堂に響く。
「剣士スキル。スキルレベル1」
父の顔に、誇らしげな笑みが浮かんだ。
家族から祝福の声が上がる。
レオンは父の前で深く頭を下げた。
「ありがとうございます。これからも精一杯、鍛錬します」
リーフは胸が熱くなるのを感じた。
次は、自分の番だ。
神官がこちらを向く。
「リーフ・ヴァルグレン」
「はい」
足が震えそうになる。
それでも、リーフは顔を上げた。
父の期待に応えるために。
家名に恥じない人間になるために。
ゆっくりと鑑定石の前へ歩く。
一歩進むたびに、床の音が大きく聞こえた。
両手を石の表面に置く。
ひやりとした感触が、指先から腕へ伝わってくる。
レオンのときは、触れた直後に強い光が生まれた。
けれど、リーフの手の下では、なかなか何も起こらなかった。
父の視線が、手の甲に突き刺さっている。
母の祈るような気配が伝わってくる。
隣では、レオンが固唾を呑んで見守っていた。
やはり、自分には何もないのだろうか。
そんな不安が胸をよぎった瞬間だった。
鑑定石の奥で、淡い光が生まれた。
青ではない。
レオンのときのような、強くまっすぐな光でもない。
淡い緑色の光が、石の中で静かに揺らめいている。
リーフは息をすることさえ忘れた。
何か特別なスキルかもしれない。
剣士ではなくても、家族の役に立てる力かもしれない。
そう思いたかった。
けれど、光を見つめていた神官の表情が、わずかに変わった。
ほんの一瞬だった。
驚きなのか、戸惑いなのか、リーフには分からない。
ただ、父の表情から笑みが消えたことだけは分かった。
鑑定石の中で、淡い緑色の光が揺らめいている。
神官が、浮かび上がった文字へ視線を落とした。
礼拝堂に、誰も言葉を発しない時間が流れる。
リーフは、祈るように目を閉じた。
どうか。
どうか、父に認めてもらえる力でありますように。
やがて、神官がゆっくりと口を開いた。
「――」
その声が響く直前、リーフはまだ知らなかった。
自分の誕生日が、家族に祝福される日ではなくなることを。
そして、この鑑定結果によって、十年間暮らしてきた屋敷を出ることになるなどということを。
鑑定石の奥で生まれた淡い緑色の光は、静かに揺らめいていた。
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読んでいただいたありがとうございました!
11/7〜11/9でストック分投稿予定です!




