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第1話

 王が国を治め、貴族が領地を持ち、騎士が剣を下げて歩く。


 そんなことは、オレにとって特別でも何でもない。


 魔道具だって存在する。


 便利なものほど高価で、平民のオレには簡単に手が届かないというだけだ。


 オレが暮らしているのは、そんな世界の片隅にある小さな町。


 町の中心から少し離れた場所に、小さな平屋を借りて一人で暮らしている。


 名前はセナ・ロウ。


 十八歳。


 家族はいない。


 仕事は、町の人間から頼まれて動物の世話をすること。

 別に珍しい仕事じゃない。


 少し変わっているとすれば――たぶん、オレ自身のほうだ。


 朝、家の扉を開けると、今日も猫がいた。


「……また来てる」


 黒と白のまだら模様の野良猫が、当然のような顔をして玄関脇に座っている。


 オレを見た途端、のそりと立ち上がった。


 そのまま近づいてきて、足首に身体を擦りつける。


「餌はないぞ」


 言っても離れない。


 しゃがんで頭を撫でると、喉を鳴らし始めた。


 少し離れた家の柵の向こうでは、近所で飼われている犬がこっちを見て尻尾を振っている。


 朝から元気だな。


 頭上では小鳥が一羽、屋根から地面へ降りてきた。


 人間が近づけばすぐ逃げるくせに、オレがいても気にする様子はない。


 珍しいことじゃない。


 昔からこうだった。


「おはよう、セナ」


 道の向こうから声をかけられて顔を上げる。


 近所に住んでいるおばさんだった。


「おはようございます」


 普通に返す。


 向こうもそれ以上近づいてこない。


 オレも近づかない。


 道を挟んで数歩分。


 話すなら、このくらいがちょうどいい。


「今日も仕事かい?」


「はい」


「頑張るねえ」


「どうも」


 おばさんは軽く手を振ると、そのまま歩いていった。


 オレも家へ戻る。


 足元では、まだ猫がついてきていた。


「だから何もないって」


 言いながら扉を閉める。


 窓の向こうに猫の顔が見えた。


 諦めが悪い。


 朝飯は昨日買ったパンと野菜、それとミルク。


 いつも大体こんなものだ。


 肉も魚も食べない。


 卵も買わない。


 特別な信条があるわけじゃない。


 窓の外でこちらを覗いている猫を見ながら、パンをちぎる。


「お前らみたいなのが寄ってくるから、食う気にならないんだよな」


 猫に言っても分かるはずがない。


 それでも、あれだけ無防備に寄ってくる生き物と同じものを食卓に並べる気にはならなかった。


 別に困ってもいない。


 野菜も穀物もある。


 ミルクも飲める。


 食えるものを食えばいい。


 それだけだ。


 食事を終えて仕事へ出る。


 町外れの家から中心部までは少し歩く。


 今日も暑い。


 しかもオレは、周囲の人間より明らかに厚着だった。


 薄い服を何枚か重ねている。


 身体から出る匂いを少しでも外へ漏らさないためだ。


 おかげで暑い。


 でも仕方ない。


 暑いのは我慢できる。


 人にくしゃみを連発されるよりはましだ。


 今日の仕事先は、町の中でも比較的大きな家だった。


 裏庭へ回ると、大型犬が一頭、伏せていた。


 オレを見た瞬間、耳がぴんと立つ。


「待ちなさい!」


 飼い主が止めるより早く、犬が走ってきた。


「うわっ」


 前脚を上げて飛びついてくる。


 受け止めたものの、結構重い。


「待て。落ち着けって」


 首の周りを撫でると、大きな尻尾が左右に激しく振られた。


 飼い主が苦笑する。


「本当に君にはよく懐くね。私が呼んでも、そこまで喜ばないよ」


「よく一緒にいるからじゃないですか」


「それなら私のほうが一緒にいる時間は長いんだけどねえ」


 言われても、オレにはどうしようもない。


 動物には昔から好かれる。


 理由も分かっている。


 オレの匂いだ。


 人間には嫌がられるこの匂いを、なぜか動物は好む。


「それで、食欲がないんですよね」


「ああ。ここ数日、残すようになってね」


 オレは犬の前にしゃがんだ。


 喜んで顔を舐めようとしてくるのを押し返しながら、身体を見る。


「いつもと同じ餌ですか?」


「同じだよ」


「量は?」


「変えてない」


 口を開けさせ、歯や歯茎を確認する。


 嫌がる様子はない。


 次に立たせて少し歩かせた。


 脚をかばっている感じもない。


「吐いたりは?」


「してない」


「便は?」


「少し柔らかかったかな」


「最近、餌以外のもの食べませんでした?」


「ああ……そういえば、息子が菓子をやっていたかもしれない」


「どのくらい?」


「そこまでは」


 オレは犬の腹を軽く触った。


 嫌がらない。


 そのうち餌の入った器を持ってきてもらう。


 犬はオレの近くに置かれた途端、残っていた餌を食べ始めた。


 飼い主がほっと息を吐く。


「やっぱり君がいれば食べるんだな」


「それで安心しないでください」


「え?」


「オレがいると食べるからって、治ったわけじゃないです。明日も食欲が戻らないとか、便がおかしいのが続くなら獣医に見せたほうがいいです」


「ああ。分かった」


「あと、菓子はやめさせてください。何をどれだけ食べたかも息子さんに聞いといたほうがいいです」


 オレは獣医じゃない。


 病気を治すことはできない。


 でも毎日いろんな動物を見ていれば、いつもと違うことくらいは分かる。


 動物が寄ってくるから世話がしやすい。


 だから仕事にしている。


 ただそれだけだ。


 仕事を終え、飼い主が代金を渡そうと近づいてきた。


 オレは無意識に一歩下がる。


「ああ、そうだった」


 飼い主も思い出したように足を止めた。


 手を伸ばせば届くぎりぎりの距離で金を受け取る。


「悪いね」


「別に」


 慣れている。


 オレの身体から出る匂いは、人間には不快らしい。


 近くにいればいるほど強く感じる。


 人によっては、くしゃみが止まらなくなったり、鼻水が出たり、涙目になったり、喉がいがらっぽくなったりする。


 だから人と話すときは離れる。


 それで解決する。


 相手も楽だし、オレも余計なことを言われなくて済む。


 小さいころからずっとそうしてきた。


 今さら気にするようなことじゃない。


 帰り道、いつもの魔道具店の前を通った。


 足が少しだけ止まる。


 店の奥に、目当てのものがある。


 身体から出る匂いを抑える魔道具。


 服の下につけておけば、ほとんど外へ漏れなくなるらしい。


 値段も知っている。


 高い。


 今の稼ぎでは、まだ全然足りない。


 今日もらった金を頭の中で貯金に足してみる。


「……まだ遠いな」


 でも昨日よりは近い。


 それでいい。


 ないものは仕方がない。


 今は服を重ねれば、多少は抑えられる。


 欲しいなら、買えるまで金を貯めればいい。


 それだけの話だ。


 店の前から歩き出す。


 日が傾き始めたころ、ようやく家が見えてきた。


 町外れまで来れば、歩く人もほとんどいない。


 普段なら静かな道だ。


 なのに今日は、家の前に人がいた。


「……なんだ、あれ」


 一人じゃない。


 数人いる。


 揃った装備。


 腰には剣。


 どう見ても旅人ではなかった。


 騎士か?


 その中心に、一人だけ明らかに雰囲気の違う男が立っている。


 短い黒髪。


 服も仕立てがいい。


 立ち姿にも妙な隙がない。


 貴族か?


 そんな連中が、どうしてオレの家の前にいる?


 引き返したところでどうにもならないので、そのまま近づいた。


 向こうもすぐにオレに気づく。


 黒髪の男がこちらを向いた。


「セナ・ロウ殿で間違いないだろうか」


「……そうですけど」


 殿なんてつけられたことはない。


 ますます怪しい。


 男は胸元へ軽く手を当てた。


「突然の訪問を詫びる。私はカイル・ヴァレン。ルヴェリア王国より参った」


「ルヴェリア……?」


 外国だ。


 名前くらいは聞いたことがある。


 でも、オレには何の縁もない。


「オレに何か?」


「少し話をしたい。中へ入っても?」


「外でいいです」


 即答すると、カイルという男がわずかに目を瞬いた。


「構わないのか?」


「中のほうが困るんで」


 家の中は匂いがこもる。


 この人数を入れたら、たぶんすぐ誰かがくしゃみを始める。


 外なら風がある。


 そのほうが楽だ。


 男は理由を尋ねなかった。


「分かった」


 それだけ言った。


 話すため、オレはいつものように数歩離れて立つ。


 このくらいなら問題ない。


 そう思った。


 ところが、


 カイルと名乗った男が一歩近づいてきた。


 オレは慌てて一歩下がる。


 また一歩近づくから、


 もう一歩下がる。


 さらに来る。


 また下がる。


「……なんで近づくんですか?」


 さすがに聞いた。


「話がしたいからだ」


「話はできてるだろ」


 普通に聞こえている。


 カイルはオレと自分の間を見た。


「話をする距離にしては遠い」


 なんだこいつ。


 これまで、この距離を遠いなんて言った奴はいなかった。


 むしろ逆だ。


 もう少し離れてくれと言われることはあっても、わざわざ近づいてくる人間なんていない。


「それ以上来ると、あんたがきついと思いますけど」


「何がだ?」


 本当に分からないらしい。


「オレ、臭いですよ」


 横にいた騎士の一人が少しだけ表情を動かした。


 カイルは誤魔化さなかった。


「匂いはする」


 ほら。


 やっぱりするんじゃないか。


 そう思ったのに、男は平然と続けた。


「だが、話せないほどじゃない」


「……」


 一瞬、何を返せばいいのか分からなかった。


 臭くないと言われたなら、嘘つけと言えた。


 気にならないと言われても、強がるなと思えた。


 でもこいつは、匂いがすること自体は認めた。


 そのうえで、ここに立っている。


 ただ、ここから先へは近づかなかった。


 オレが嫌がっているのを見て、それ以上距離を詰める気はないらしい。


 変な奴だ。


「それで、話って?」


 カイルの顔が少しだけ仕事のものに戻ったように見えた。


「君に、ルヴェリア王国で、ある動物の世話をしてもらいたい」


「動物?」


 思わず聞き返した。


「ああ」


「何の?」


「大型の動物だ。現在、少々扱いが難しい状態にある」


「それで、なんでオレ?」


「君について調べさせてもらった。動物が非常によく懐く体質だということ。そして、実際に動物の世話を仕事にしていることも」


 いつの間に。


 少し気味が悪い。


 でも外国からわざわざ騎士がくるぐらいだ。


 その程度は調べるか。


「君の体質が、その動物を落ち着かせる助けになる可能性がある」


「可能性?」


「確実とは言えない」


 そこは正直なんだな。


「雇用は王国が正式に行う。滞在中の住居と食事はこちらで用意する。状況次第では長期になる」


「外国に住むってことですか」


「そうなる可能性が高い」


「報酬は?」


 カイルが条件を告げた。


「……今、いくらって?」


 思わず聞き返した。


 聞き間違いだと思った。


 けれどカイルは、さっきと同じ額をもう一度口にした。

 間違っていない。


 頭の中に、さっき店先で見た魔道具が浮かんだ。


 今の生活では、何十年かかるか分からない。


 それが、この仕事なら、


 手が届く。


 匂いを抑えられれば、もっと仕事を選べるようになるかもしれない。


 厚着だってしなくていい。


 人と話すたびに、何歩離れればいいか考えなくても済む。


「すぐに答えを出す必要はない」


 カイルが言った。


「突然の話だ。外国へ移ることにもなる。何日か考えてからでも――」


「その動物、危ないんですか?」


 言葉を遮った。


 カイルの表情が少し変わる。


「危険はある」


「どのくらい?」


「大型だ。今は落ち着きを欠いている。扱いを誤れば、怪我では済まない可能性もある」


「オレが死ぬってこと?」


「それだけではない」


 そこで初めて、少し引っかかった。


「動物のほうも?」


「ああ」


 オレは黙る。


 自分が怪我をするだけなら、まだ考えようがある。


 仕事なんだから、多少の危険は仕方ない。


 報酬も高い。


 でも、オレが下手なことをして動物まで傷つくなら話は別だ。


「今、どういう状態なんですか?」


 さっきより詳しく聞いた。


 カイルも面倒がらず答える。


 世話が難しくなっていること。


 近づく側にも危険があり、無理に押さえつければ動物の身体にも負担がかかること。


 だから、動物に慣れていて、なおかつ特別に好かれるオレを探したこと。


 一通り聞き終えて考える。


 外国。


 長期滞在。


 危険な大型動物。


 普通なら、もっと悩むのかもしれない。


 でも、


 ここに家族はいない。


 親しい友達もいない。


 今の仕事は好きだけど、この町でなければできない仕事でもない。


 この家にも、どうしても手放したくないほどの思い入れはなかった。


 今の生活が嫌いなわけじゃない。


 ただ、絶対にここじゃなきゃ駄目な理由もない。


 それに、やることは動物の世話だ。


 それなら。


「行きます」


 カイルがわずかに目を見開いた。


「……もう決めるのか?」


「動物の世話なんですよね」


「そうだ」


「じゃあ、行きます」


「だが――」


「見て、オレに無理なら無理って言いますけど」


 できもしないことを、できますと言うつもりはない。


 実際に見て駄目なら、そのときは断る。


「それでいいなら」


 少し間があった。


 やがてカイルが頷く。


「ああ。それで構わない」


 その後、出発の日や契約について説明を受けた。


 外国語で書かれた契約内容は理解できなかったけど、


 カイルが読み上げてくれたし、


 不明点も説明してくれた。


 前金まで渡された。


 話が全部終わり、騎士たちが帰る準備を始める。


「では、三日後迎えにくる」


「はい」


 返事をしたとき、カイルがいつの間にかまた少し近いところに立っていた。


 反射的に一歩下がる。


 カイルは何も言わなかった。


 今度は追ってもこない。


 軽く頭を下げ、そのまま仲間たちと去っていった。


 人の姿が見えなくなる。


 急に辺りが静かになった。


「……なんだったんだ」


 足元で声がした。


「にゃあ」


 いつの間に戻ってきたのか、朝の猫がいた。


「お前、ずっといたのか?」


 猫は答えず、また足に身体を擦りつけてくる。


 しゃがんで一度だけ背中を撫で、家へ入った。


 机の上に、契約のための書類と前金を置く。


 三日後には外国だ。


 考えてみれば、結構大きな話なのかもしれない。


 住む国が変わる。


 家も変わる。


 仕事も変わる。


 それでも、不思議と実感はなかった。


 動物の世話をする場所が変わるだけだ。


 それくらいにしか思えない。


 窓の外を見る。


 猫がまだ座っていた。


「まあ」


 荷造りは明日からでいい。


 オレは前金の入った袋を机の端へ置いた。


「動物相手なら、何とかなるだろ」




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