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4 明日も生きるために

 

 翌朝、重厚な馬車の車輪が石畳を鳴らし、丘の上の館から出ていく音が聞こえた。


窓の隙間からそれを見届けたアイリは、小さく勝ち誇ったような笑みを浮かべた。兄ケネスが領内の視察のために出払ったのだ。戻るまでは半日はかかる。


「なーにが“クラスター家の名を貶める行為”だよ。お腹空かせた子供一人助けられないで、貴族を名乗ってんじゃないよっ!」


アイリは仕立ての良いドレスを脱ぎ捨て、昨日と同じ服に袖を通した。前日の汚れが残っているが、領民に紛れるならこれくらいのほうが自然だ。


 館を飛び出す。目指すのは、あの薄暗い路地裏だ。

路地裏の日陰に、その子はまだいた。


昨日与えた食事のおかげか、頬にほんの少しだけ赤みが戻っている。セツナの姿を見つけると、子供は“また食べ物をくれるのか”と期待に満ちた目を向けた。

だが、今日のセツナの両手には何も握られていない。


「おはよ。……ごめんね、今日は食べ物は持ってないの」


子供の瞳から、あからさまに失望の色が広がる。セツナはその前に膝をつき、子供の汚れた小さな手をそっと握った。


「聞いて。お腹が減るのは昨日や今日だけじゃない。だから、いつまでも誰かから貰うのを待っててもダメなの。私と一緒に来て。自分で食べ物を手に入れる方法を、今から教えてあげる」


子供は戸惑ったように首を傾げたが、セツナの真っ直ぐな瞳に圧されるようにして、小さく頷いた。


 セツナは子供の手を引き、再び活気あふれる市場へと連れ出した。

眩しい太陽の光と、大勢の人々の怒号のような喧騒に、子供は怯えてセツナの背中に隠れようとする。しかしセツナは迷わず、昨日手伝ったあの干し肉屋の露店へと歩みを進めた。


「おじさん、また来ちゃった!」


「げっ、昨日のじゃじゃ馬娘か!」


荷箱を運んでいた店主の親父が、大げさに顔をしかめた。


「今日は売り子はいらねぇんだが──」


「違うの、今日働きたいのは私じゃなくて、この子!」


セツナは背中から子供を引っ張り出した。子供は恐怖で身を硬くし、今にも逃げ出しそうだ。


「昨日、おじさん言ってたよね。

荷物の整理と、店の掃き掃除が追いつかないって。この子にそれをやらせて! 体力はまだないけど、絶対に一生懸命やるから。お礼は、お金じゃなくて、今日食べる分の干し肉とパンでいいの!」


店主は呆れたように片眉を上げた。じっと子供を見る。ガリガリに痩せ、服はボロボロだ。


「おいおい、こんなガキに何ができる。足手まといだ」


「できるよ!」


セツナは子供の肩を優しく、しかし強く叩いた。


「ほら、おじさんに“やらせてください”って言うの。大きな声で!」


子供は唇を震わせた。市場の喧騒にかき消されそうな、小さな小さな声だった。


「……やら、せて……ください。

お腹が、すいてるの……」


店主はしばらく沈黙していたが、やがて深くため息をつくと、汚れた箒を子供の前に放り投げた。


「……チッ、しょうがねえな。ただし、サボったらメシはなしだからな!」


◆◆◆


 仕事は過酷だった。

最初は箒の動かし方も分からず、よろめいていた子供だったが、セツナが隣で“こうやるんだよ”と手本を見せると、必死になって床のゴミを掃き集め始めた。


干し肉の油で汚れた台を布切れで何度も拭き、空になった木箱を店の裏へと運ぶ。子供の細い腕はすぐにぷるぷると震え始め、額からは大粒の汗が流れ落ちた。


「そう、上手! その調子!」


セツナは近くで見守りながら、声をかけ続けた。

周囲の商人たちも、最初は“クラスター領の市場も、ついに物乞いのガキを雇うようになったか”と冷ややかな目を向けていた。

しかし、子供が涙を溜めながらも、決して手を止めずに必死に働く姿を見て、次第にその視線が変わっていく。


「おい、ボウズ。こっちの荷物も裏に運んでくれたら、ウチのリンゴを一個やるぞ」


隣の出店の男が声をかける。

子供は“はいっ!”と、さっきよりずっと大きな声で返事をした。


 夕暮れ時、市場の片付けが終わる頃。

子供の顔や服は、昨日とは違う“働いた汚れ”でいっぱいになっていた。しかし、その瞳には、路地裏で死にかけていた時のような濁りは一切なかった。


干し肉屋の店主が、ふん、と鼻を鳴らして、油紙に包まれた厚切りの干し肉と、どこかから買ったのか、焼きたての丸いパンを子供に差し出した。


「ほらよ。今日の分の取り分だ。

……明日も寝坊しないで来たら、また使ってやる」


子供は、差し出された食べ物を両手で受け取った。

ずっしりとした重み。そこから伝わる、本物の温かみ。

子供はそれをじっと見つめ、それからセツナの顔を見た。大粒の涙が、汚れた頬を伝ってぽろぽろとこぼれ落ちる。


「……ぼく、自分で……もらった……」


「うん、キミが自分で働いて、手に入れたんだよ」


 セツナは子供の頭を優しく撫でた。

子供はパンを大きく一口、かじりついた。

そのパンは、まるで世界中のどんなご馳走よりも甘く、温かく感じられた。貪り食う子供の姿を見ながら、セツナの胸には、昨日にはなかった確かな手応えが広がっていた。


 食事を終えた子供と共に市場を離れたセツナ。

膝を降り、子供の目線に合わせる。そして、彼女は優しい声色で、子供に語りかける。


「これで、キミはこれからもご飯を食べられる。そうして町の人たちに馴染んでいけば、ご飯以外でなにか困ったことがあっても、きっと助けてくれるよ。

でも、丘の上の館には行っちゃダメだよ。

もし行ったら、この町から追い出されちゃう。

お姉ちゃんと約束、できる?」


子供は二日の食事で体力を回復できたのか、大きな声で返事をした。


「よし、じゃあ、明日もお手伝いあるから、早く寝てね。バイバイ!」


 子供と別れ、自身も足早に館に帰る。兄に今度見つかれば、今度こそ館に閉じ込められるかもしれない。今度は日が落ちるよりも早く、館にたどり着くことができた。


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