44、フェリクスの事情
「ベアトリス王女様のお気持ちは、よく分かりました。王女様がこれほど心を痛めていらっしゃったなんて……僕たちも胸が痛む思いです。――ですが、これ以上お心を乱される必要はありません。王女様のお気持ちは、もう十分すぎるほど僕たちに伝わりましたから」
「……そう?」
それまで気遣うような表情で話を聞いていたテオドールに、ベアトリスが片眉を上げた。
「ええ。ですから、あとは僕たちにお任せください。宮廷医も今日はゆっくり休まれるようにと申しておりましたではないですか。今夜ゆっくりお休みになれば、明日はきっと、今日より心穏やかにお過ごしいただけると思いますよ」
さらにテオドールが柔らかな微笑みを向けると、ベアトリスが長く息を吐き出した。
「そうね。あの女のせいで喉も痛くなってきたし、今日はもう休むわ」
喉元に手をやり、ベアトリスが小さく咳払いする。
宮廷医の診察を受けたベアトリス王女は、「興奮による一時的な体調不良」と診断された。
安静を言い渡されたものの、王女は当然のようにお茶会を始め、そこでもオレーリアへの罵倒は止まらなかった。
あれだけ喚き続けたのだ。
声が枯れてもおかしくはない。
(やっと終わったようだな)
フェリクスが長いため息を落とすと、テオドールがにこやかな笑みを自分に向けてきた。
(『せっかく終わりそうなところに邪魔をするな』とでも言いたげだな)
不敬な態度ではある。
だが――フェリクスも、これ以上ベアトリス王女の声を聞きたいとは思えない。
『早く終わらせてくれ』と視線でテオドールに伝えた。
途端、テオドールの笑みが深くなる。
『眺めてないで少しは動け』と言いたいのだろう。
(セドリックより小言が多い男だな)
物言わずして不満を伝えてくるテオドールに、フェリクスは内心息をつく。
王女を扉まで見送ったテオドールは、扉が閉まった瞬間、その微笑みを消した。
王女の気配が完全に遠ざかったのを確認してから、フェリクスに視線を向ける。
「では、お茶会も終わりましたし、僕はこれで失礼します」
言葉は丁寧だが、愛想笑い一つ浮かべようとしないこの無表情な男は、フェリクスの側近候補として上がっている男だ。
かつては、公爵令嬢に取り入ろうとする口先だけの男だと思っていた。
だが、テオドールは頭の回転が速く、空気を読む能力にも長けている。確かに、ディランやセドリックにはないものを持っていると、今ではフェリクスも認めていた。
フェリクスが頷くと、テオドールはすぐに部屋を出ていった。
挨拶の言葉を残すことなく部屋を出たテオドールに、閉じられた扉を眺めながらディランが口を開く。
「あの態度はどうかと思うが……グランディエ宰相がフェリクス様の側近にと推薦するだけのことはありますね。あの王女を鎮められたのは、さすがとしか言いようがない」
「……確かに。ヴェスター子爵親子が、ローゼンベルク公爵に気に入られているだけあるな」
どこか悔しい気持ちに蓋をして、フェリクスは言葉を返す。
フェリクスが、傲慢なベアトリス王女に強く出られない理由は一つではない。
王女は隣国グラン国との条約締結のために送り込まれた重要な存在だ。
ここでフェリクスが王女を公然と叱責すれば、「親善大使を侮辱した」とグラン国に受け取られかねない。今のフェリクスには、そんな外交問題を起こすわけにはいかなかった。
それに加えて、オレーリアとの婚約解消によってローゼンベルク公爵の後ろ盾を失ったことも大きい。
国で大きな影響力を持つローゼンベルク公爵家につく貴族は多い。
これまで当たり前のように過ごしてきた日々の裏に、どれだけローゼンベルク公爵家の恩恵があったのか。婚約を解消して初めて、フェリクスは思い知らされていた。
だからこそ、第一王子としての足場を固めるためにも、今回の条約締結は必ず成功させなければならない。
そして何より――オレーリアとの関係を修復したかった。
ローゼンベルクの恩恵目当てに近づいたなどと、オレーリアにこれ以上失望されたくはない。
失敗は許されない。
「条約が締結されるまで――か。……長いな」
父である王からも、締結まで間近だと聞いているが、一日一日が長い。
こうしている間にも、オレーリアが他の誰かと距離を詰めてしまうのではないかと、気が気ではない日々だった。
思わずため息が深くなると、ディランもうんざりした様子で口を開く。
「今回、グラン国の創立記念祭へ来るのが予定通り第一王子であれば、こんなことにならなかっただろうに……」
その言葉に、フェリクスは苦い想いで深く頷く。
本来であれば、グラン国からは次期国王とされる第一王子アルフレドが親善大使として来国するはずだった。
だが、出発の直前にグラン国の国境付近で小規模な領地争いが勃発したらしい。複数の領地が対立し、住民同士の衝突にまで発展したため、軍の指揮権を持つアルフレドは、急遽その対応と処理のために現地へ直接赴かざるを得なくなったのだ。
その代役として急遽白羽の矢が立ったのが、第三王女であるベアトリスだった。グラン王家にはベアトリスの上に二人の王女もいるが、彼女たちはすでに他国へ嫁いでいたためだ。
歳の離れた末娘として、父王の寵愛を一身に受けて育ったベアトリスは、『自分こそがグラン国で最も愛される最高に特別な王女』なのだと本気で信じ込んでいる節がある。
他国への訪問などという重責も、彼女にとっては「国外で自分をもてなさせるための華やかな外遊」でしかないのだろう。
来国早々、フェリクスを一目で気に入ったベアトリスは、条約締結を盾に、フェリクスを『自分に相応しい相手』だと決めつけた。そして、そのまま居座り続けているのが今の現状だった。
(アルフレド王子なら、妹のこの暴走を一喝して連れ戻してくれただろうに……)
アルフレドは軍事と実務を極限まで突き詰めた、超がつくほどの真面目で無骨な人物として知られている。
アルフレドの雷だけは恐れているというベアトリスだが、遠い国境付近にいる兄の威光など、今の彼女には届かない。
「アルフレド王子が戻るか、条約が締結されるまでの辛抱だな」
フェリクスは頭痛をこらえるように額を押さえた。
ふと、脳裏に今日のオレーリアの姿がよみがえる。
今日のオレーリアは、フェリクスの婚約者だった頃のような装いをしていた。
腕の傷跡を隠すように長袖で、以前のように露出が多いデザインではなかったが、そこにいるだけで圧倒的な存在感を放つほどの華やかさがあった。
以前はその贅沢な装いに、身分や権力を振りかざした傲慢で自分勝手な公爵令嬢としか見えなかった。
だが、オレーリアの日々の振る舞いは、セドリックからも聞いている。
彼女の本質を知る今は、彼女こそが贅を尽くした装いを許されるに相応しいと思える。
「今日のオレーリア嬢は、誰かのために着飾ったのかと思いましたが、違いましたね」
まるでフェリクスの考えを読んだかのようにディランがオレーリアの話を口にした。
「あのときは私も誤解しましたが、普段セドリックから聞いているオレーリア嬢のことだし、ベアトリス王女への嫌がらせだったんでしょうね」
ディランが続けた言葉に、思わず口の端が上がる。
「だとしたら、その嫌がらせは成功だな。私も含めて大変な目に遭ったが」
「本当ですよ。今でも耳に王女のあの甲高い声が消えないんですから」
ディランは心底うんざりしたように眉を寄せた。
「――全く、セドリックだけ上手く逃げたな。どうせまた明日あいつは、今日の茶会での話を他人事のような顔をして聞くんでしょうね。『私もオレーリア嬢の予想もつかない言動に驚かされてばかりですよ』とか言いながら」
ディランの言葉に、フェリクスはうらやむ気持ちを隠しきれず、深くため息をついた。




