第二十話 家に来た先生と、知られたくないこと
休日の朝。夏の陽差しが薄くカーテンを透かしていた。
目を覚ましたアルは、しばらく天井を見つめたまま動かなかった。昨夜の記憶――虚無の王との対話、そして、心に決めたはずの「守る」という想い。それが今も、自分の胸に熱く残っていた。
だが同時に、何かが胸にひっかかっている。
あの言葉――「君が選ばれた理由は、私にもわからない」――という虚無の王の声が、ずっと耳の奥で反響していた。
(……わからない。けど、それでも……)
起き上がり、ゆっくりとカーテンを開けると、空は澄んでいた。まるで何事もなかったかのように。
階段を降りると、空気が少し違った。
何かが……いる。
「……あら、起きたのね」
聞き慣れた母の声の先には、見慣れない制服姿の人物が、リビングのソファに座っていた。
長い茶色の髪を後ろで束ね、眼鏡越しの視線は穏やかでありながら、どこか鋭さを含んでいた。
「……先生?」
アルの口から、自然にその名がこぼれる。
エレナ・シャーティア 担任教師。
だが、今は教師というより、別の顔をしていた。まるで――調査官のような。
「急に来てごめんなさい。あなたのご両親とお話があってね。」
その瞬間、アルの背筋に冷たいものが走った。
母は、ぎこちない笑顔を浮かべながらも、その目元は赤く腫れていた。父もソファの隅に座っていたが、やや伏し目がちで、いつもの厳しさはなかった。
「……アル」
母が立ち上がり、近寄ってきた。
「なんで、昨日あんな時間まで帰ってこなかったの? それに……その服、どうしてそんなにボロボロなの?」
言葉が出なかった。
昨夜、戦った――使徒と、虚無の王と、そして自分自身と。
その痕跡が、身体に残っていた。
「ねえ、もしかして、学校で……いじめられてるの?」
母の声が震える。
言葉ではなく、その目が、アルの心を刺した。
(……違う。違うんだ)
だが何を言えばいいのか、わからない。
心の内には、言葉にできない何かが渦巻いていた。
「まあまあ、落ち着いてください」
間に入ったのはエレナ先生だった。
「今日のところは、私に話を聞かせてくれませんか?アルくんと、二人だけで」
静まり返った部屋の中で、アルはエレナ先生と向かい合って座っていた。
母は泣きながら部屋を出て行き、父も無言でそれに続いた。
ほんの少し前までは、ただの担任教師だったはずなのに、今はまるでそれ以上の存在のように思えた。
「……アルくん」
先生の声が静かに響く。
「私はね、教師としてあなたのこと、ずっと気になっていたの」
アルは、無言のまま俯いた。
「成績は良い。でも、授業中はどこかぼんやりしている。いつも何かを探してるみたいな目をしてる。それに、誰かと本当に笑い合ってる姿を……私はまだ、見たことがない」
「……別に……」
アルはかすかに声を発した。
「別に、そういうの、必要ない」
「本当に?」
エレナの問いかけは、優しさに満ちていた。けれど、その奥には、逃げ道を塞ぐような鋭さもあった。
「……俺は」
言いかけて、言葉が喉につかえた。
(俺は、何者なんだ?)
力がある。けれど、それが誰かのためになったことは、一度もない。
母親を泣かせ、父親を困らせ、友達を持つこともできず、ただ「選ばれた」と言われた。
そんなのは――呪いと、変わらない。
「……先生」
ようやく顔を上げ、アルはエレナの瞳を見つめた。
「もし、俺が……普通じゃなかったら、先生は、どう思う?」
「普通って、なに?」
その答えは、あまりにも自然だった。
「私はあなたがどうであれ、あなたを見てる。生徒としてだけじゃなく、ひとりの人間として」
それは信頼の言葉だった。
――信じている。
その目が、そう語っていた。
アルの胸の奥が、少しだけ熱くなった。
言葉にできない何かが、ようやく心の表面に出てこようとしていた。
けれど、それでも――全ては言えなかった。
魔王のこと、虚無の王のこと、「七つの影」のこと……。
そんなことを話せば、誰もが自分を異物として見る。
「……ありがとう」
そう言うのが、精一杯だった。
だがそれでも、先生は微笑んだ。
「うん。それで十分」
それだけで、何かが少し変わったように思えた。
先生はため息をついて言う。
「……アルくん。ねえ、正直に教えてほしいの」
先生の声は優しかったが、その奥にあるのは明確な疑念だった。
「学校で、いじめ……受けてる?」
その言葉が、部屋に落ちる。
しばらくの沈黙ののち――
「……受けてない」
アルは、はっきりと言った。
その声に嘘はなかった。少なくとも、本人の中では。
エレナは少し驚いたように目を細めた。
「ほんとに?」
「ほんとです」
今度は語尾までしっかりしていた。
先生は、アルの目を見つめる。どこか迷いを探しているように。
だが、それでもアルの表情は揺るがなかった。
「そう……ならいいの。でも……」
エレナは、ため息をついた。
「……じゃあ、なんで、君はいつもそんなにボロボロなの?」
その問いは、教師としての問いというよりも、親のような心配に満ちていた。
「それに……この前もそうだった。手には擦り傷。制服は泥まみれ。今日だって、靴が半分崩れてた」
アルは俯いた。
(答えられるわけがない。魔法戦闘のせいだなんて)
「……転んだだけです」
そう答えるしかなかった。
「何回転んだら、あんな風になるの?」
先生は問いを重ねることはなかった。ただ、悲しそうに微笑んだ。
「……わかった。言いたくないことは言わなくていい。でも、私が言いたいのはひとつだけ」
その目が真っ直ぐにアルを射抜く。
「苦しい時は、誰かに頼っていいんだよ」
アルは、その言葉に、心の奥が少しだけ揺れるのを感じた。
「いじめは……受けていないよ」
母は安堵の息をついた。
「よかった……でも、じゃあどうしてあんなに制服が汚れてるの? 靴も壊れてたじゃない!」
「……ほんとに、転んだだけだよ」
アルの返答に、母は明らかに納得していない表情を浮かべる。
エレナ先生は静かに椅子を引いて立ち上がると、扉を開けてリビングへと戻った。両親は緊張した面持ちで立ち上がり、先生の顔をじっと見つめた。
「……どうでしたか?」
母親の声が震えていた。父親はただ黙って見守る。
先生は、一度深く息を吐いてから、はっきりと告げた。
「――アルくんは、『いじめは受けていない』とはっきり答えました。言葉にも、目にも迷いはありませんでした」
母親は息をのんだ。
「そう……ですか」
「ですが、心の中までは正直わかりません。ただ、少なくとも、嘘をついているようには思えませんでした」
エレナは慎重に言葉を選んでいた。
「先生……それでも、最近のアルはあまりにも様子がおかしいんです。昨日なんて、夜中に帰ってきて、服もボロボロで……」
母の声が少しずつ感情的になっていく。
「ねえ、あれで“転んだ”だけなんて……信じろって言う方が無理がありますよ!」
「……わかります。でも、“無理に問い詰めること”が逆に彼を追い詰める可能性もあるんです。今は、見守るべき時期かもしれません」
エレナの声には、教員としての誠実さと、ひとりの大人としての葛藤がにじんでいた。
母親はうつむき、父親が代わりに口を開く。
「……見守る、か」
「はい。アルくんは、ひとりで何かと向き合おうとしている。でも、彼はまだ子どもです。どこかで必ず助けを求める瞬間が来ると思います。その時は――迷わず、支えてあげてください」
静かな空気が流れた。
母はそっと口元を押さえ、父はうなずいた。
エレナはそれを見て、ようやく少しだけ安堵の表情を浮かべた。
エレナ先生が帰ったあと、玄関の扉が静かに閉まり、家の中に穏やかな静けさが戻ってきた。
アルがリビングに戻ると、母がソファに座りながらもまだ心配そうにこちらを見ていた。父はテーブルに置かれた冷めたコーヒーを片付けている。
「アル……本当に、いじめられてなんかないのよね?」
母の声は、疑いではなく、ただただ心配が滲んでいた。
「うん、ないよ。先生にも言った通り」
そう答えると、母は深く息をついて、少しだけ安心したようだった。
「でも……服、ボロボロだったじゃない。あんなふうにして帰ってきたら、普通は心配するでしょ?」
アルはうまく言葉を返せず、少し俯いた。
「あれは……転んだだけだよ、ちょっと……強めに」
「強めに?」
父が口を挟んだ。表情は厳しくも、どこか苦笑を含んでいる。
「まったく……転ぶにしては派手すぎるな。でも……元気なら、それでいい」
そう言って、父はアルの頭を軽く撫でた。
くすぐったくて、でもあたたかい。
アルはその感触に、ほんの少しだけ胸の奥が熱くなるのを感じた。
「……でも、あんまり夜遅くまで出歩かないこと。本当に心配したのよ」
「うん、ごめん。これからは気をつける」
母は頷いて、ぎゅっとアルを抱きしめた。
「よかった……あなたが嘘をついていないなら、それでいいの。何があっても、ちゃんと話してね。私たちは、あなたの味方だから」
アルは、母の腕の中で静かにうなずいた。
(――このぬくもりを、守りたい)
胸の奥に灯った小さな決意が、ゆっくりと根を張り始めていた。
夜。家の中は静まり返り、外からは虫の声がかすかに聞こえていた。
アルは一人、自室の窓辺に座り、夜空を見上げていた。
街灯の光に照らされた木々の影が揺れ、静かな風が頬を撫でる。
(俺は……何を守りたいんだろう?)
虚無の王との対話で言われたことが頭をよぎる。
「君が七つの影に選ばれた理由は、誰にもわからない。必ず呪いを持ち、復讐心があることが条件だ――だが、お前は持っていない」
その言葉の意味がまだ完全には腑に落ちていなかった。
(俺は復讐も、呪いも持っていない。
それなのに、なぜ……)
胸の奥にぽっかりと空いた穴が冷たく広がる。
そんな自分が、時に孤独で、時に怖かった。
けれど、もう一つの想いが芽生えていた。
(家族を守りたい。友達を守りたい。自分を信じてくれる人を守りたい)
その想いは、虚無の王に応える決意の光となっていた。
窓の外から、魔力のざわめきが微かに伝わる。
「……そろそろ、答えを聞かせてくれ」
耳元で響く虚無の王の声。
アルは静かに立ち上がり、窓を閉めた。
「わかった。俺は……お前の仲間になる」
そう告げることで、自分の心に誓った。
苦悩と葛藤の中での決意だった。
夜。アルが静かに答えを告げた後、虚無の王は目を細め、ふっと笑った。
「……そうか。ならば、お前はもう“こちら側”の人間だ。歓迎するよ、アルタイル」
その言葉には、重々しさとどこか期待の混ざった響きがあった。
だがすぐに、虚無の王は表情を緩め、肩をすくめるように言った。
「……とはいえ、すぐに戦場に引きずり込むつもりはない。お前はまだ――未完成だ」
「未完成……?」
「ああ。だからな、まずは今まで通り“学校”に通っていろ。日常を捨てるには早すぎる」
「……学校? でも俺、もう……」
「行け。通ってないと周囲に怪しまれる。両親にも怒られるだろう?」
「それは……まぁ、そうだけど……」
「それにな。お前が“学校に通っている”という立場は、ある意味では守られているということでもある。世間の目から、そして、敵からもな。盾になるものを、そう簡単に捨ててはならん」
アルは黙ってうなずいた。虚無の王は続ける。
「本来なら私が鍛えた方が早い。だが、今はまだその時ではない。焦るな。急ぎすぎると“折れる”ぞ」
その声には不思議な重みがあった。
「それに……いざとなったら私が守ってやってもいい。お前はもう“私の側”の者だからな」
淡く漂う魔力が、どこか優しく包み込むようにアルを撫でた。
安心と緊張が混ざったような感覚の中で、アルは静かに決意を固めていった。
(――俺は、ここから変わるんだ)
ここまで読んでくださりありがとうございます!
今回は少し日常回として、アルと家族、そして先生とのやりとりを中心に描きました。
表では“普通の少年”として振る舞うアルの、秘密と葛藤を少しずつ明らかにしていく構成です。
何気ない会話の中にある家族の愛情――それが彼の「守りたいもの」になっていく、そんな伏線回でもあります。
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