第十三話 たより、たよりたく
雨の朝だった。
窓の外では、小さな雫が途切れることなく空から落ちてくる。
それは静かな音だったけれど、どこか身体の奥に染みるような気配を持っていた。
アルは布団の中からその音を聞きながら、まばたきを繰り返していた。
(夢を……見てた気がする)
いつものように、断片的で曖昧な映像。
地球のどこかの街並みと、どこかで聞いたような声。
「だれだろう……ぼくを、呼んでた」
手を伸ばしても届かないような遠くで、誰かが名を呼ぶ。
だけど名前は、きっと今の“アル”じゃなかった。
いつもなら、その感覚は目を覚ました瞬間にかき消えていくのに。
今朝は、なぜだかそれが残っていた。
(もしかしたら、あの黒い落書きのせいかもしれない)
“こいつはうそつきだ”
“オマエハダレダ”
昨日、図書室で見つけた、あの言葉。
誰かが、アルに問いかけていた。
自分でも知らない自分を、見透かしているような……そんな声だった。
でも、もう今日は昨日じゃない。
時計の針は戻らないし、朝はやってくる。
「アルー、ごはんよー!」
母の声が階下から聞こえてきて、ようやく身体が動いた。
ゆっくりと布団から起き上がり、少し重たい足取りで階段を下りる。
朝食はあたたかいスープと、焼きたてのパン。
窓の外ではまだ雨が降っていたけれど、部屋の中はちゃんとぬくもっていた。
「雨の日は、気をつけて行くのよ。濡れないようにね」
母の優しい言葉に、アルはこくんとうなずく。
(そうだ。今日も、学校に行くんだ)
教室の空気は、いつもより少しだけよそよそしかった。
誰も“あの事件”には触れようとしない。
図書室の落書きのことは、先生も、子どもたちも――まるで最初からなかったことのように振る舞っていた。
でも、あの文字は確かに存在していた。
アルの心に、ぬぐえない影を落として。
(だれが書いたのかも、なぜ書いたのかも、わからないまま……)
けれどそれ以上に怖いのは、
あの言葉のいくつかが“真実かもしれない”と、自分自身が思ってしまったことだった。
そんな気配を隠すように、担任のエレナ先生は明るい声で言う。
「おはようございます。今日も、新しい一日をはじめましょう」
その声は、いつものようにやさしく、教室を包んでいた。
けれど、彼女の視線がほんの一瞬だけアルの方を向いたとき――
胸の奥が、ひやりとした。
(見てる。先生は、やっぱり……)
だが、その先を考える前に、話題は切り替えられてしまう。
「さて、今日は係決めをしますよー!」
午前中の授業が終わったあと、教室にざわめきが戻ってきた。
係といっても、まだまだ遊びの延長みたいなもので、子どもたちはどこか楽しそうだった。
黒板の横に貼られた紙には、色とりどりの係が並んでいる。
・本の番人(図書係)
本を管理したり、本の紹介を皆んなにする。
・どうぶつのお世話(飼育係)
これはそのままだ。うさぎなどの飼育している動物のお世話。
・おやつだより(おやつ係)
これは今日の家のおやつを皆んなに教えたりする。珍しい。地球にはなかった。
・おはようの鐘(朝の挨拶係)
朝の挨拶。号令係だな。
・ひみつのたより(手紙係)
みんなのお悩みを聞く。
それぞれに、かわいらしいイラストが添えられていた。
ノエルは「おやつ係がいいなー」と呟いて、ニコニコしている。
その隣でアルは、少しだけ真剣な顔をして“ひみつのたより”という文字を見つめていた。
(みんなの“言えないこと”を、預かる係……)
ふと、自分が抱えている“言えないこと”を思った。
家族にも、先生にも、友達にも――言えない。言ってはいけない。言ったら、壊れてしまう。
でも。
(誰かの“言えないこと”なら、受け取ってもいいかもしれない)
手を挙げると、先生が頷いた。
「はい、アルくん。“ひみつのたより”、お願いね」
「……はい」
隣でノエルがひそっと囁く。
「アル、それ、すごく似合ってる」
「そう?」
「うん。アルって、なんか……大事なことを、静かに持ってるって感じするから」
その言葉が、どこかくすぐったくて、だけど少しだけ心に沁みた。
アルは席に戻ったあとも、しばらくぼんやりしていた。
先生の声が、波のように聞こえて、でも内容は頭に入ってこない。
黒板には「文字遊び」の課題。誰かが指名され、笑いながら答えている。
でもアルは、ふと気づけば手に何かを持っていた。
それは、今朝、机の奥から見つけたあの紙切れだった。
くしゃりと折れた角を伸ばし、もう一度だけ読む。
『この世界に、本当のことなんてあるのかな。』
誰の字なのか、なんでここにあったのか、そんなことはどうでもよかった。
ただその言葉だけが、アルの胸の中に、妙に重く響く。
地球にいたころ、自分は「本当のこと」を知っていたつもりだった。
誰が敵で、誰が味方で、何をすべきか、何をしてはいけないのか。 そして”何をしないといけないのか”
正しさも、間違いも、全部分かってる“ふり”をして生きていた。
でも、最後には――全部失った。
じゃあ、今はどうなんだろう。
いまの世界は、本当なんだろうか。
母さんは、父さんは、ノエルは、先生は――?
「……」
アルは、そっと紙を折り直す。
まるで、だれかの秘密を包むように。
そして思う。
「本当のことなんて、まだ分からない。けど――」
「いまここにいて、これを考えてる自分は、たぶん……本当、だ。」
それだけを心に残して、紙切れをポケットの奥にしまった。
チャイムが鳴る。教室がざわつき始める。
今日の授業は、これで終わりだった。
廊下の片隅に設置された“ひみつのたより箱”は、まだ誰にも使われていなかった。
新しい木の箱。鍵もない、ただの紙投入口つきのボックス。
誰も見ていない隙にふと目をやって
アルは、その紙をそっと外して、箱の中へ入れた。
“言えないこと”を、ちゃんと受け取る係として。
ーーー
下校の鐘が鳴ったあとも、校門の外は明るかった。
空はうっすらオレンジが混じっていて、雲の端っこが、まるで火が灯ったみたいに光っていた。
帰り道、アルは黙っていた。
けれど、『この世界に、本当のことなんてあるのかな。』これが脳に嫌というほど、再生されいた。
足元の石を一つ蹴って、ゆっくりと家の門をくぐる。
玄関を開けた瞬間、
「あら、おかえり!」
母の明るい声と、あたたかい匂いがアルを包んだ。
「……ただいま」
それだけ言って、靴を脱ぐ。
母がしゃがんで、手を伸ばして靴をそろえてくれた。
その夜。
母が作ってくれたスープは、あたたかくてやさしい味がした。
身体の芯から、じんわりとあたたまっていく。
父の冗談に母が笑い、アルもつられていた。
そんな家族団欒と過ごしていた。
その笑い声が、ちょっとくすぐったくて、
でも、どこかで「本当」と感じた。
「ねえ、アル」
「なに?」
「明日は晴れるらしいよ。久しぶりに、お日さま見られるかな」
「……うん」
小さな日常の言葉だけど、それがどこか救いになる。
(ぼくの心のなかも、晴れたらいいな)
思わず、そんなことを考えてしまった。
ベッドに入ったあと、ふと窓の外を見る。
雨はもう止んでいた。
そのかわりに、遠くの空にひとつ星が瞬いていた。
名も知らない星だけれど、
その光は、どこか“前の世界”の夜空に似ていた気がした。
俺はたくさんのものに”ふれた”
“生きる”ということは、
怖いことかもしれない。
でも――生きることで、救われることもある。
今日、少しだけそんなことを思った。
どうも、葛西です。
読んでくださってありがとうございました!
今回はちょっとしっとりめでしたね。
アル、ちょっと心が削れてる感じありますが、それも自然だと思ってます。
だって後悔がある人生だったから。
でも、それでも少しずつ、何かが溶けていくというか、
“ふれて”、また歩き出せるんじゃないかと。
ここで言う「ふれる」って、
誰かの優しさとか、自分の中の後悔とか、
あるいは「本当のこと」って何だろうって思う気持ちとか――
そういうのに、ほんの少しだけ触れることなんです。
まだ言葉にならないけど、確かに“ふれた”なにかがある。
そんな一歩を、描いてみました。
“ひみつのたより”に出てきた紙。
あれ、誰が書いたのかはまだナイショです。でも考えてます。
(なんとなくもう分かるかも……?)
次回はまた少しだけ、日常が動きます。