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突然、馬車に乗り込んで来たジル・クリスター公爵令息は、無言だった。何も言わず、透けるように美しい緑の瞳で、じっとエルザを見つめている。
「あの、ジル先輩?」
二人きりの馬車の中、無言に耐えかねたエルザがジルに声を掛ける。
いつも朗らかに微笑んでいる、余裕しかないような男が、どうしたというのだろう。
常とは違う、冷たい雰囲気が、余計に色気を漂わせて、エルザの心臓は早鐘を打っている。
「……お茶会は楽しかった?」
やっと声を出したジルに、エルザはほっとして気持ちが緩む。
「はい!マリアンヌ様がとっても可愛らしかったです。お菓子も美味しかったですし、ハーブティーも!」
「ふーん。俺は会ったことないけどね、マリアンヌ殿下と」
エルザは固まった。
ジルの母親は王妹で、ハインリヒとは従兄弟にあたると聞いている。ということは、マリアンヌも従兄妹にあたるはずだが、会ったことがない?
「俺には会わせない妹を、エルザには会わせたんだね」
凍るような冷たい視線を、ジルはエルザに送ってくる。
ハインリヒとマリアンヌの母親は力を持たない側妃で、彼らは王族の中でも立場が弱い。年の離れた末姫は難産で、さらに幼少の頃は体が弱くベッドの上で生活することが多かった。そんなマリアンヌを王は殊の外可愛がっている。そのせいで、丈夫になった今も公務には参加させず、離宮で大事に守っている。貴族でも彼女の身の回りの世話をする者以外は、マリアンヌの顔を知らないのだ。
彼女の母である側妃も、基本的に表には出て来ないので、マリアンヌのお披露目は成人してからの社交デビューだろうと噂されている。
ちなみに、ジルがマリアンヌに会ったことがないのは、まったく別の理由からである。ハインリヒが顔も頭もスタイルも良く口もうまいこの男と、可愛い妹を会わせたくなかったからだ。
幼い頃から子供にも老人にも容赦なく愛されるジルを、ハインリヒは身近に見てきた。なんなら、人目につかない王宮の廊下で王妃のお茶会に参加していたはずの未亡人と口づけしているところも、頬を染めた庭師に手を握られているところも見たことがある。目に入れても痛くないほど可愛い妹を、節操無しのこの男には絶対会わせない!とハインリヒは何度も胸に誓っている。
そんなことは知らないジルは、ハインリヒが自分にはけっして会わせない大切な妹を、エルザにだけ特別に会わせたことが面白くない。エルザを特別だと思うのは、自分だけでいいのだ。
「エルザがハーブティー好きだったのも知らなかった」
「好きというか、子供のころによく飲んでいたので、懐かしくて」
エルザの母親が淹れてくれるのは、いつも紅茶ではなくてハーブティーだった。それも、先ほど飲んだレモンタイムを入れた物が多かったが、そんなことはもちろんジルは知らない。
「ハインリヒはエルザのことがよくわかってるんだね」
「そういうわけでは……」
言葉に詰まるエルザに、ジルは言い募る。
「俺はエルザの好きな飲み物知らないし、好きな食べ物も知らない。好きな色も好きな場所も、どこで生まれてどういう風に生きてきたかも、何も知らない!!」
エルザはたいていの飲み物も食べ物も美味しいと感じるし、キレイな色だと思えばその色は好きだし、いい景色だと思うこともある。
その時その場で感想を言うことはあるが、わざわざ言うほど、なにかに特別執着する質ではないのだ。
生まれや育ちは、あえて言うほどのことではないと、エルザは思っている。これから自分の力で生きて行こうと思っているエルザには不要なことだからだ。
そもそも、ジルだって自分のことはあまり話すほうではない。エルザはその時思ったことは素直に話していたし、ジルはそんなエルザを可愛いなぁと思ったり口にしたりしていたので、これまで二人は会話で困ったことはなかった。
「好きな物のこととか、聞いてこないからわざわざ言わなかっただけです!ジル先輩だってそうじゃないですか。わたしジル先輩の好きな飲み物も好きな色も知らないです。それに、わたしの生まれとか、先輩に言う必要あります?」
話しながら、エルザはだんだんイライラしてきた。
いきなり馬車に乗り込んできて、なぜこんなに責められなければならないのだ。
「俺に言う必要はないけど、ハインリヒは知っているんだろ!?」
「ハインリヒ先輩にも話したわけではないです。勝手に知っているだけです!!」
「話さなくても分かり合えるほど、仲がいいんだね」
「仲良くないです!小さい時から意地悪で……」
勢いに任せて自分の口から出た言葉に、エルザはハッとする。
「やっぱり、俺には言えないんだ。もういいよ。ハインリヒが勝手に知っているなら、俺も勝手に調べるから」
機嫌を悪くしたジルはそっぽを向いてしまう。
馬車が学院に着くまで、二人はそのまま無言だった。
弟が生まれて母親が自分を構ってくれなくて寂しかった時も、気に入りのシャツをメイドがアイロンで焦がしてしまった時も、一センチだけ切って欲しかった髪を三センチ切られてしまった時も、穏やかに微笑んでいたジル・クリスター公爵令息は、おそらくこの日、物心ついてから初めて、感情のまま、後先を考えずに口論した。
色々思うところはあるが、単純に好きな女の子が自分以外の男に会いに行ったのが面白くないし、その男と秘密を共有していることが面白くない。好きな子の小さい頃を、意地悪な友人が知っていることにも腹が立つ。
聡明で寛容で、誰もが振り向く美貌の持ち主であるジル・クリスター公爵令息は、ただの恋する男だったのだ。




