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落花流水 ~ あべこべ世界でスパイ大作戦 ~  作者: ジョン・ミルズ
在パリ日本大使館 駐在武官編
39/102

穢れと後悔


『どういうつもりですか?此処はどこですか?』


腕を掴まれ連れてこられた見知らぬ場所。強引に座らせられた椅子から僕は抗議の声を上げた。何故僕をこんな目に会わすのか?目の前に立ち碧い瞳でこちらを見下ろす英国女性に、さすがの僕も頭に来ていた。


待ち合わせ場所のカフェからここまで、一言も発することが無かったその女性はようやく口を開く。その口調には怒りの感情が込められている。冗談じゃない。怒りたいのはこちらだ。初対面でこの扱いは失礼にもほどがある。


『此処は英国情報部のセーフハウスです。君が本当にアカシ中佐ですか?使いの者ではなく間違いなく本人ですか?』


『何度もそう言ってるじゃないですか!僕が明石中佐本人です。英国情報部と日本陸軍情報部は協力して事に当たるのでしょう?この扱いは無礼にもほどがあります!いったいどういうつもりですか?!』


目の前の女性は目をつぶって手を額に添えている。憤懣ふんまんる方無いという態度だ。この人とはこれから数年間、共同で諜報活動を行えと命令された。だけど、こんな扱いを受けるようではとても協力はできない。いったい何を考えているのだ。


『それはこちらの台詞です。日本の情報部は諜報戦をどういうものと考えているのですか?私に何をやらせたいのですか?まさか仕事で体を売る男の客引きをやらせようと考えたのではないでしょうね?そんな穢らわしい仕事、やるつもりはありませんよ!』


・・・だめだ。

この人と協力はできない。この話は無しだ。この人と口を利く気すら失せた僕は無言で立ち上がり部屋から出て行こうとする。扉の手前、その人は僕の腕を掴んで引き留めようとする。


『待ちなさい!まだ話の途中です!』


もう話すつもりがなかった僕は、最後の望みで言葉を投げつけた。


『撤回してくれますか?』


『え?』


『先ほどの言葉、撤回して下さい。でなければこの話は無しです。』


その人は僕の態度に少しだけ驚いたようだ。それでも僕の話に聞く耳を持つ気は無いらしい。


『私のどこが間違っていたというのです?諜報戦で男性の力を借りようなど見え透いたやり口です。私は貴方の国のために命を懸けてこの仕事に当たるつもりでここに来ました。商売男の客引きをやれというならこちらから願い下げです!』


お終いだ。

この人の協力を得る訳にはいかない。参謀総長や紀之介さんのためにも。早く日本大使館に戻り、本国に連絡する必要がある。山縣さんには申し訳ないけど、もうこの話は無理だ。


僕は、その人の手を振りほどき英国情報部のセーフハウスを飛び出した。



*****



1989年、10月、パリ市街。

パリの日本大使館に駐在武官として赴任した僕は、山縣さんから受け取った指示書を手に、市内のオープンカフェに向かった。これから先、日露の戦争が終戦するまでの間、諜報活動の協力者として、そして開戦までの間は諜報戦の教官役として指導をしてくれるはずの英国の諜報員と会うためだ。


山縣さんからはその人の気を引けと命令を受けていた。露探(ロシアの情報当局)に捕まった僕を助けられるのはその人しかいないとの理由からだ。この世界では男性の数が極めて少ないので男女の関係では男性が圧倒的に有利な立場に立てる。とは言え、英国人であるその人から見て日本人の僕が魅力的に見えることを期待するのは甘いだろう。そもそも特定の誰かを対象に、その人の気を引こうとしたことはこれまで一度もなかった。自信は無かったけども何とか命令を遂行しようと身だしなみを整えてきたつもりだ。


最初にその人に会った時、彼女は僕を男性軍人とは思わなかったようだ。


『貴女が日本陸軍のアカシ中佐ですか?英国情報部のライリー中佐です。』


その人が出してきた右手を握り返しながら僕があいさつした瞬間、彼女は固まってしまう。


『初めまして。明石中佐です。よろしくお願いします。』

『え?!!』


暫く黙って立ち尽くしていたその女性に、いきなり腕を掴まれ無言で引きづられて部屋に連れ込まれたのがつい先ほどだ。


彼女は仕事で女性の相手をする男性を”穢らわしい”と言った。別に僕だけだったらそう思われても構わなかった。諜報員として共同で働くうえで、必要なことさえ為してくれるのであれば、嫌われても構わないと思う。日本のための諜報活動さえ行ってくれるなら、露探に捕まった僕の救出など、この際、なくても構わなかった。


でも、紀之介さんのことを想う参謀総長の為にも、彼女と仕事をするわけにはいかない。それが僕の軍人としての矜持だ。彼女の助けだけは借りるわけにはいかなかった。



*****



パリの日本大使館に着任して日が浅かった僕は、英国情報部のセーフハウスを出たとたんに道に迷ってしまう。とにかく大通りに出ようと完成したばかりのエッフェル塔を頼りに狭い路地を抜けようとしていた。いくつか角を曲がったところでたちの悪そうな女性グループに捕まり、リーダー格の女性から声をかけられる。


『君、性別を分かりにくくしているけど、男性だよね?中国人?日本人?』


先ほどの英国諜報員同様、彼女は強い力で僕の腕をつかみ怪しげな笑みで囁いてくる。


『道に迷ったようだね?私たちが案内してあげるよ?』


この時の僕は、まともな精神状態ではなかった。紀之介さんや参謀総長に対する申し訳ない気持ち、他国の諜報員による救出を当てにして、その人の気を引こうとしていた自分に対する情けない気持ちが心の中で嵐のように渦巻いていた。僕は目の前にいるくだらない連中に対し憤りしか感じていなかった。恐怖心などかけらもなかった。ただただ、自分の力を証明したかった。あの人の助けなどなくとも、自分はやれると。


僕は即座にこの人たちを自分一人の力で手玉に取ることを決め、僕の腕を握りしめる女性に応えた。


『ありがとうございます。僕は日本人です。ちょうど道に迷って困ってたんです。歩き回って少し疲れました。どこか、休める場所はご存じありませんか?』


僕が自ら人を騙そうとしたのはこれが初めてだ。その時の僕の笑顔は、きっと穢れた者にしかできないものだったのだろう。


フィリピンでも僕はデューイー提督と夜を過ごすことを条件に情報を引き出していた。彼女のことを尊敬していた僕は思いもしなかったけど、きっとその時からそうだったのだろう。


今に始まったことじゃない。

僕はとうの昔に穢れていたのだ。



=====



一桁台ダブル・オーになることが目的ではないと自分では思っていた。自分はただ祖国のために役に立ちたい、そんな思いでこの地に立っているのだと信じていた。


この任務は直接的に英国のためになるものではない。だが女王陛下の勅命なのだ。日本という縁もゆかりもない国のために、私は命を懸ける覚悟を決めたつもりだった。それが最終的には英国のためになると信じていたから。


最初に彼の性別に気付いた時、私はひどく混乱した。こちらが命までかけて事を為そうとしているときに、彼の国の上層部は愚にもつかない手段に訴えようとしている、そう思った私は強い憤りを感じた。そんな上司の命令を守る目の前の少年が哀れでならなかった。


彼の上司に対するやるせない怒りをどう表すべきか、どうすれば目の前の哀れな少年をあるべき場所に返せるか。考えあぐねた私は即座に行動に移した。ひとまず彼をセーフハウスに連れて行くことにしたのだ。


移動の間、強く握った彼の手首は思った以上に細くその体はとても軽かった。一番近いセーフハウスに入り彼を椅子に座らせる。彼は必死で私に抗議してくる。その姿を見るうちに、顔の見えない彼の上司に対する怒りが込み上げてきた。こんな少年を戦争の場に駆り出すなど、およそ軍人のやるべきこととは思えなかった。私は湧き上がる怒りの感情を彼にぶつける。きっと、その時の私は、目の前の少年と会話しながらも、彼の背後にいる顔の見えない上司に対して思いをぶつけていたのだろう。


セーフハウスを飛び出す直前、先ほどの私の言葉を撤回しろと言う彼の悲しそうな顔を見て我に返る。もしかしたら私は彼に酷いことを言ったのかもしれない。彼や彼の大切な誰かを傷つけていたのかもしれない。この時初めて後悔の念を感じる。先ほどの私の言動は大人げなかった。だけど素直にそれを告げることができない。


セーフハウスを出た彼はいとも簡単にろくでもない連中に捕まってしまう。彼に対する気まずさから彼を助ける行為が僅かに遅れたその時、彼の態度が急変する。


『ありがとうございます。ちょうど道に迷って困ってたんです。歩き回って少し疲れてしまいました。どこか、休める場所はご存じありませんか?』


彼の唇から出た台詞を聞いた瞬間、私は確かに自分自身の中の異性に対する強い欲望を感じた。彼の妖しい魅惑に心がざわついたのだ。その台詞で我に返った私はようやく気づく。きっと私は、自分が命を懸けて為そうとする行為が、何か崇高な物であって欲しかっただけなのだ。そんな理想が現実の諜報戦には存在しないことなど、とうの昔に承知しているつもりだったのに。


一桁台ダブル・オーになるという夢に手がかかりそうな現実、初めての勅命への気負い、そして任官以来近づいたことすらなかった若い男性を目の前にした状況に、私は理性を失いかけていたのだろう。それを取り戻した私は、何周もの周回遅れの末に、ようやく彼の上司が思い描いた企てを理解する。


妖しい微笑みを湛えながら、自らリーダー格の女性と腕を組んだ彼は、彼女たちと共に古い建物に消えていく。ろくでもない連中に囲まれてなお、怯むことなく立ち向かう彼の姿は儚く、穢れなど微塵も感じさせなかった。


私は、一人闘う彼の姿に魅せられていた。












読んで頂きありがとうございます。

ようやく、この小説の本題が始まったような気がします。


ミルズ

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