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落花流水 ~ あべこべ世界でスパイ大作戦 ~  作者: ジョン・ミルズ
在パリ日本大使館 駐在武官編
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決 意


「あれ?これは何だい?」


英国出張から帰り4か月ぶりに自室の扉の前に立った山縣さんは、木製のドアに張られた目立つ注意書きを見て呟いた。


<必ずノックすること!!>


「みんな酷いんだ。君がいないのをいい事にノックもせずに勝手に入室するんだよ!!仕事に集中してると本当に心臓に悪いからね。でもこれでも長岡さんは守らないんだ。あれは確信犯だね。」


張り紙をそのまま、扉を開けて中に入る山縣さんは、楽しそうな笑顔で僕の不満に応えてくれる。


「ふふふ。きっと、君が驚く姿が可愛かったんだろうね。まあ、君は彼女に命を救ってもらった恩があるんだよね?じゃあ、多少のいたずらも許してあげたら?この部屋、久しぶりだけど、綺麗だね。」


「そりゃあ、感謝はしてるよ!でも、礼儀ってのもあるでしょ?部屋は毎日、掃除してたよ。綺麗でしょ!」


部屋に入り自分の帽子と制服の上着を脱いでハンガーにかけた山縣さんは、何も言わず僕の帽子と上着も脱がしてハンガーにかける。情報部長になっても変わることはない。まるで母親が子供の面倒を見るような自然なしぐさで山縣さんは僕の面倒を見てくれる。でも、参謀本部ここでこういうのは良くないのだろう。むしろ僕が彼女の服をかけるべきかもしれない。

山縣さんはそんなことを気にもせず、優しい笑顔で諭してくれる。


「彼女、普段は無口だけど礼儀正しい将官だよ。それは君だけに対する彼女なりの愛情表現だから許してあげたら?そういえば、彼女のドイツ語の勉強は進んでる?せめてドイツ語が話せれば東ヨーロッパで行動できるから、彼女の情報部への配置替えも検討に値するんだけど・・・」


僕は山縣さんと自分のお茶を入れながら長岡さんの最近の努力を伝える。


「それが彼女、最近は随分まじめにドイツ語の単語を覚えているみたいだよ。おかげで以前とは見違えるほど出来るようになったと思うよ。

まあ、まだ<オウム返し話法>と<二語会話>程度だけど。」


「何?その<オウム返し話法>って?<二語会話>は主語と述語だけの会話だよね。」


「<オウム返し話法>ってのは、僕の自己流の会話のテクニックだよ。相手に何か聞かれたときは、言われた文章を出来るだけそのままオウム返しで返すんだ。もちろん、イントネーションや順番を変えたり、時には否定文にする必要があるけど、それ以外はなるべく言われた通りに返す方法。ほら、日本語だと文章が肯定文でも否定文でも、相手の話すことに間違いがないときは”はい”って返すでしょう?これが混乱する原因なんだよ。はい。お茶。」


僕はお茶を入れた湯飲みを自席に座った彼女の前に置きながら独自の外国語テクニックを披露する。


「ありがとう。ふうん。確かに、そうだね。慣れると考えもしないけど。そう。彼女がドイツ語が話せるなら、将来、君がサンクトペテルブルクの大使館に赴任するときは彼女にも役割がありそうだね。じゃあ、君がパリに赴任するまで、彼女の勉強にしっかりと付き合ってくれる?」


彼女の発言に僕は思わず聞き返してしまう。その声色には不安の色が混じってしまったかもしれない。


「僕のパリの赴任ってもうすぐなの?いつまで僕は日本に居られるの?」


彼女は優しい笑顔で正直に応えてくれる。


「正式な日英同盟と軍事情報協定の締結にはまだ時間がかかるけど、それに先立って日英の情報部間での協力は始められそうだよ。明石君、半年もすれば君のパリ日本大使館の駐在武官任命の辞令が準備できると思う。」



*****



その日の夜、僕は山縣さんと一緒の布団で彼女に思いを伝える。


「ねえ山縣さん。僕のパリ赴任だけど、来年には延ばせないの?長岡さんのドイツ語の勉強もあるし、僕自身のフランス語もまだ不安なんだ。ラテン系の言語って、何だか訳が分からない決まりがいっぱいあって難しいよ。」


彼女は母親のような深い愛情がこもった笑顔で僕を見つめながら優しく諭してくれる。


「英国情報部の見解では日露開戦まで5年かからないそうだよ。下手をすると3年ほどで戦端が開かれてしまうらしい。日本の東ヨーロッパにおける諜報網の構築はまだまだだよ。フィンランド独立党やロシアの革命家たちとの関係の構築など、他にもやるべきことはたくさんあるんだ。十分な準備をしないとロシアに勝てないことは君も理解しているよね?」


彼女の言うことは正論だ。僕は彼女に抱きつき柔らかい胸に顔を寄せ目を閉じて無言で抗議の意思を示す。返す言葉がないからこれくらいしかできない。彼女は僕の頭をなでながら声をかけてくれる。


「あと半年はこうやって一緒に過ごせるよ。できるだけ日々を大切に過ごしていこうね。でも、半年たったら、君は一旦、私の事を忘れるべきだよ。大丈夫、私はこれから一生、何があっても君だけを想うよ。だから君は安心してパリに赴任するといい。」


彼女の言葉は僕の不満を爆発させる。僕は力いっぱい抱きついて抗議の声を上げた。


「どうして君のことを忘れろなんて言うんだよ!そんなことできるわけないでしょう?君は自分は自由に僕の事を想えるのに、僕には忘れろなんて横暴だよ!」


彼女の表情は見えない。でも、僕に語り掛ける声には、相変わらず深い愛情を感じる。それが余計に僕には不満だ。


「明石君、参謀総長は君がロシアで活動中に拘束される可能性は極めて高いと踏んでいるんだ。彼女は君のロシアでの活動期間を、君のロシア入国から、ロシア情報当局が君を拘束するまでに要するであろう期間で想定しているぐらいだよ。君が拘束されてしまったら、私たちができることは殆ど無いんだ。だから、今度のパリ赴任期間で、君は英国情報部の諜報員と懇意になる必要があるよ。きっと、彼女なら拘束された君を救い出すことができる。君は自分の身を守るためにも、本気で彼女と向き合わないといけないよ。彼女には、命を懸けて君を救出してもらう必要があるんだ。」


大学時代にもこんな会話をした記憶がある。あの時も、こんな風に腹立たしく感じた。どうして彼女はこんなひどいことを僕に命じるのだろうか?


僕は強い憤りを込めて彼女の体を抱締めながら自分の決意を叫んだ。


「英国情報部の諜報員と懇意になれ、というのが君の命令なら、ちゃんとやり遂げるよ!でもそれは任務だよ。僕の心は誰のものでもない、僕だけのものだよ。例え英国情報部の諜報員と一緒に居ても、僕は何があっても君を想うことはやめないよ!やめられるはずがないだろう!」


彼女は僕の頭を優しくなでながら囁いてくれた。


「明石君、ありがとう。その言葉だけで私には十分だよ。ごめん。今はこのことについて話すのはやめて、残された時間を大切に過ごそう。お願い、君の笑顔を見せて。」


彼女は僕の頬に手を当て、彼女の胸に押し付けようとする僕の顔を優しく撫でてくれる。僕には分っていた。きっとその表情はとても優しく、そしてとても悲しい顔をしているはずだ。


涙を堪えることで精いっぱいの僕には、彼女のような優しい笑顔を作ることはできそうになかった。



=====



英国、ロンドン、情報部本館。

テムズ川沿いに位置する目立たないその建物。早くからインテリジェンスの重要性に気づいた英国政府が、陸軍・海軍・内務省・外務省の情報部署を統合して立ち上げた首相直轄の政府機関である情報部が居を構えている。


一人の背の高い女性が正門を通り入館する。

身長は190㎝ほど。ショートの髪は見る角度によっては金髪にも見える薄い茶色。その体つきは、ゲルマン系特有の力強さを感じさせるが、顔立ちや肌のきめ細かさはスラブ系の良い特徴が表れている清楚な美人だ。瞳の色は綺麗な碧色。年齢は30には届かない女ざかりだろう。スラリと伸びた姿勢は歩く姿も美しい。


彼女は迷うことなく最上階の諜報員を統括する責任者の部屋に向かい、その扉をノックする。


『どうぞ』


聞き慣れた声に従い、入室した彼女は敬礼と共によく通る綺麗な声で挨拶をする。


『シドニー・ライリー陸軍中佐です。入ります。』


席に座る40歳ぐらいの女性高官は自分も立ち上がり、応接セットに移動しながら部下であるライリー中佐に応接セットのソファーへの着席を促す。中佐は上司が座るのを待ってから自分も着席する。

席に着いた高官は当たり障りのない会話を始める。


『相変わらず爽やかな外見ね。お母様は元気?休暇中にウェールズの故郷に戻ったのでしょう?』


『はい。おかげさまで元気そうでした。』


ライリー中佐は緊張が抜けない様子で上司からの本題に備える。休暇が終わるということは次の任務が始まるということだ。そんな彼女の緊張を見抜いた上司は優しく声をかける。


『そんなに緊張しないで。貴女も察している通り、今日は次の任務に関して話すつもりだけど、とても良い話よ。ところで、貴女のIDは何番だったかしら?』


この人が旧知の部下のIDを忘れるはずがない。それどころか何百人といる会ったこともない現地協力者のIDでさえ、写真を見れば全員、間違えることなくそらんじることすらできるだろう。これは私自身にID番号を発言させたいのだ。だとするとこれは大きな案件になる可能性がある。期待と緊張の面持ちでライリー中佐は返答する。


『"017"です』


『そう。もう貴女もそんなに若い番号になっていたのね。希土戦争での貴女の活躍は見事でしたね。あの時は既に今の番号になっていたのでしょう?昇進が無くて不満だった?』


ライリー中佐はさらに緊張する。このやり取りはますます怪しい。彼女は隙を見せないよう、最大限の注意で無難な返答を返す。


『いいえ。不満などありません。』


『そう。立派ね。次の任務だけど、貴女には志願できる権利があるわ。内容は、日本の諜報員と協力し、ロシアと日本との戦争で()()()()()()()()()()よ。』


<志願できる権利>と聞いて、彼女の心拍数が上昇した。



*****



彼女は自らを落ち着かせるため、あえて上司に確認する。


『局長、任務に対して志願できる権利が与えられたのはこれが初めてです。その理由を教えて頂けますか?』


彼女の上司は優しそうな笑みで応じる。


『さすがね。ご明察。これは空席となっている一桁台ダブル・オーに貴女を推薦するかどうかを決める選抜試験よ。こちらが選抜試験を兼ねた任務に対する女王の勅命書。志願する気はある?』


ライリー中佐が”局長”と呼んだ上司は、手元の書類の束から1枚の命令書を取り出す。そこには確かに女王のサインがある。話には聞いていた。女王陛下は誰にでもその勅命を下す訳ではないことを。自らの命と引き換えにそれを遂行する覚悟を示した者のみが拝命する資格があることを。


<志願する権利>、それはつまり自己犠牲の伴う覚悟を示す権利であり、その覚悟を示した者のみが一桁台ダブル・オーになることを許され、任務は全て女王の勅命となる。この選抜試験もそれと同じ形態なのだ。初めて女王の勅命書をその眼で見た彼女は、自分を落ち着かせるため一度目を閉じ呼吸を整える。


ゆっくりと目を開けたライリー中佐は、静かに立ち上がり敬礼と共に彼女の決意を示した。


『局長、志願します。陛下にお伝えください。必ずやロシアが勝利を逃す姿を御覧に入れましょうと。』







読んで頂き、ありがとうございます。

思ったより早く書けたので更新しました。

次回、明石中佐とライリー中佐が出会います。


ミルズ

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