12 路上のアクシデント、そして彼女達は、彼女は
ふらふらと、家路をたどるはずのワタシの足は、気がつくと、彼女の家の方向へと進んでいた。まだ一度も行ったことはない。
そういえば。確かに一度も行ったことがないのだ。
もっとも、ワタシも彼女を自分の家に招いたことはない。いつも、学校だけだった。あの準備室だけだった。
住所は、知っていた。年賀状を出したことがある。アドレス帳には、電話番号と一緒に書き付けてある。
何の予告も無しで行ったら、彼女は怒るだろうか。だが、予告したら、彼女は何かと理由をつけて、ワタシを中へ入れないような…気がした。
つまりは、それだけの。
軽く頭を振ると、彼女の家の最寄りの駅で降りた。駅前の地図を見て、おおよその番地を見当つける。
電話は、しようと思った。何せそれ以上は道もへったくれも判らないのだ。ここまで来た、と言えば、とりあえず道を聞くことはできる。卑怯な手だが、有効だと思った。
そうだワタシは卑怯なのだ。自分が傷つかない方法ばかりを先回りして選んでいる。
それが良いかどうかということではない。ワタシは、そうなのだ。そうである限り、ワタシは。
足を進める。住宅街に入っていく。
そして誤算に気付く。携帯を持たないワタシには辛い。最近は、どんどん電話ボックスが減っている。
辺りは暗くなってきつつある。これはまずい。ワタシはさっと道を戻る。住宅街ではだめだ。商店街へ。
日の沈んだ空は、見る見る間に暗くなって行く。街灯が無い訳ではないが、それでも、足下は、所々心許なくなっていく。おまけに、この通りは、妙に人通りが無いのだ。
背中が薄ら寒い。辺りを見回しても、何か、人の通りがどんどん無くなっていく。―――道を間違えたのだろうか?
ふと、後ろから誰かが走ってくる足音が聞こえた。ランニングだろうか?こんな夕方に…
と。
足音が止んだ。
動けない。
ワタシは息を呑んだ。何が自分に起きているか理解した。
背中から抱きしめられている。
背後の手が、胸に回る。ぐっと掴む。
頭から、血が引く。
もがいた。
ひたすら、腕を、手を、振り解こうとした。
声を上げようとした。
だがそれができない。
声にならない。
ひぁ、という息だけが漏れて、悲鳴になろうとしているのに、ならない。
でも、嫌だ!
ワタシはひたすら暴れた。
下手にそれで刃物など出されたらもっと怖いことになる、という考えも何も、その時のワタシの頭には浮かばなかった。
とにかく、自分を掴まえているこの手から、逃げたかった。
そして何とか、抜けだした。
頭の中が真っ白になっていた。
ひたすら駆け出していた。何処がどうやらさっぱり判らない。
だが、向こうに、何か灯りが見える。とにかく、とにかく、とにかく…
心臓が爆発しそうだ。
背後から追いかけてくる音は無い。
だが、それでもワタシは足を止める訳にはいかなかった。身体が、とにかく逃げろと命令していた。
何も考えていなかった。
とにかくそこから、逃げたかった。
誰かが、そこに居てほしかった。
どうしようもなく。
情けなく。
それが今の自分の姿なのだ、と。
ようやく見えた商店街の、最初の店に飛び込んで、お願いです電話貸してください、と頼み込んだ。
スーパーとか立ち並ぶ商店街ではなく、個人経営の店ばかりが、点々と並ぶところだった。
夕方の買い物客が、そこには結構居た。だがそんなことは関係なかった。周囲の人達が何があったのだ、という顔で見る。それもどうでもよかった。
「…とにかく、ちょっとあんた休みなさいよ…ひどい汗だよ」
え、と声を掛けられた時、やっとそこが、肉屋の店頭であることに気付いた。そんな所に電話はない。ちょっと待ってよ、声をかけた店のおばさんは、奥に一度引っ込むと、銀色の小さい携帯を持ってきた。
「娘のだけど、使えるかい?」
「…何とか…」
はあはあ、と肩で息をつきながら、もつれる手で手帳を開き、ボタンを押す。持ってはいない。だが掛けたことが無い訳ではない。周囲は皆持っているのだから。
コール三回。もしもし、と声がした。
「…もしもし… フクハラさんのお宅ですか…?」
『…ヤナセ?』
一回で当てた。
声が耳に届く。
途端に、視界がぱあっ、と鮮明になる。
「…近くまで… 商店街まで、来てるの。迎えに来て…」
『…近くまでって…』
数秒、間が空いた。
どうするだろう、とまだ耳の奥で響かせている心臓の音を聞きながら、ワタシは考えた。
『判った。で商店街の何処なの?』
「…ここは…」
「フクハラさんに掛けてんのかい?」
電話を貸してくれたおばさんが、声を掛けて、ケイタイを取り上げる。
「もしもし… ああやっぱりサエナちゃん? そうここだよ。ミート**。来れるんなら、すぐ来ておやりよ。何かひどくこの子、すごい様子だよ…」
凄い様子。凄い様子なんだろうか。ふらり、とワタシはおばさんの方を見上げる。ぷつん、と彼女は回線を切る。
「すぐに来るよ。自転車使ってくるだろうから、あの子は」
「知ってるんですか?」
「そりゃあまあね。ちゃんとよく買いものに来るから」
「それにあの子はいい子だよ。いつもねえ」
そうそう、と辺りでうなづきあいが起こる。なるほどこういう環境だったのか。
数分して、店の前で自転車が止まった。
*
「やっぱり病気じゃなかったんだ」
「まあね」
サエナは部屋の中にワタシを入れた。きちんと片づいた部屋。そして実に女の子な部屋だ。
本や画材や紙やCDが散乱しているワタシの部屋とは大違いだ。
それはそれで散乱しているなりに秩序はあるのだが、やっぱりそういうものが部屋の大半ではない女の子の部屋というのは、何か違う。それに輪を掛けてサエナだ。
でも。
「机はないの?」
「あまり好きじゃないの。だいたいこの上で済ませてしまうわね」
温かいお茶を乗せた白木のテーブルを指す。ワタシはお茶を入れたコップを手に取る。入っているのは、紅茶だ。そしてコップは、持ち手の無い淡い色の陶器。紅茶の色が良く映える。
その手の中の暖かさに、ようやく何かワタシはこわばっていた身体がゆっくりと緩んでいくのが判る。
「で」
とん、と彼女は一口自分の紅茶を口に含むと、コップを置いた。
「どうしたの?さっきひどい顔色だったのよ」
「…そんなにひどかった?」
彼女は迷わずにうなづく。
「痴漢に会ったんだ」
え、と彼女の眉が大きく寄せられる。
「それホント?…」
「ホント。後ろから抱きすくめられた」
「…やだ… ヤナセ… それって…」
声が震える。
彼女はそういうのをひどく嫌う。
時には、雑誌に書かれた相談や、ラジオのハガキに書かれたそういう内容にも、ひどく、そんなことがあることに対して怒るのだ。
「何とか、それ以上のことはされなかったけどさ」
「よかった」
ふう、と息をつく音がする。テーブルの上に置かれた拳をぎゅっと握りしめる。
「ヤナセが、そんなことされたら、私は絶対その相手を許さないと思う。ううん絶対許さないわ」
「まあでも逃げていったから… サエナも気をつけて」
「私のことは今はどうでもいいわ、あなたが心配なのよ」
「ワタシが?」
「どうして、ここに居るの? ヤナセ」
「どうしてって」
「私のこと、心配して来てくれた? そううぬぼれてもいいのよね?」
ワタシはああ、とうなづく。
「ありがと。でも、そんなに… 今は大丈夫」
「また、無理してるんじゃないの?」
「違うの。…ただ、考える時間が欲しかったから」
そう言ってから、彼女は一度目を伏せた。
「ヤナセのことだから、私が昨日ああだった理由、もう知ってるんじゃない?私は結局生徒会室に行って、ああだったんだし」
窓のことには、気付いていないのかもしれない。気付いていて言わないのかもしれない。
「…コノエ君と、会ったけど」
「うん」
「寝てるような仲だけど… でも別に、カナイ君が本命ではないし、カナイ君もコノエ君が本命ではないって…」
「そうね」
さらりと彼女は言った。落ち着いた声だ。言ったこちらのほうが、心臓がどぎまぎしている。
まだ先ほどの興奮状態が治まっていないのか。薄い皮膚の、一枚下で、何かひどくわさわさとしたものが、動き回っているような感覚。思わずワタシは服の上から腕を押さえ込む。
「何となく、思ったわ」
「どうして?」
「…あの子は、誰も本気で好きじゃないもの」
冷静な目。
「奇妙なくらいに、彼はそういうの、が昔から無いのよ。すごく好き、とか、どうしようもなく好き、ってのが無いの。それは…そうね。学校でやることにしてもそうらしかったし、部活動だって、こなしている程度だったらしいし…だから私、あの子がバンドやるの、ちょっと怖かった」
「怖かった?」
「何か、それまでのものと違うように見えたの。…何だろ。何って言うんだろ。歌うことは好きだったようだけど…何か…」
彼女は首を傾げる。
「それでいて、あの子は、舞台映えするわ。本気になったら、どうなるのか、考えるのが怖かった」
「でも過去形?」
「今でも怖いわ。彼が本当に本気になったら、私のことなんか、もう見向きもしなくなるんじゃないかって、今でも怖いのよ。今はまだ、うるさくするからそれに逆らいたくなるって感じがあるじゃない。私に対しても。でもそれすら何か、飛び越して、何処かへ行ってしまうような気がするのよ」
「置いていかれる?」
「そ」
彼女はうなづいた。
「だから何って言うんだろ…ずっと、今日は考えていたのよ」
勤勉な彼女が。わざわざ学校を休んで。
確かワタシの知っている限りは皆勤賞ものだ。いまどきの高校生としては、滅多にいないくらいの。
「ヤナセ心配してくれたのよね。すごくそれは、私嬉しいのよ。ホントに。ねえ知ってる?私この部屋に、友達入れたの、初めてなのよ?」
「ホントに?」
「ホント」
「何で」
「入れたくなかったんだもの。ここは私の部屋で、私の、私が私で居られる唯一の場所だったから。優等生とかいい子とかそういうのどうでもよくなるのがここだったから。でもそれもちょっと疲れていたのよね。きっと。だからきっとわざわざあの学校選んだんだわ。―――でもやっぱり優等生してしまうんだけど」
彼女は苦笑する。
「でも、あの学校には、あなたが居た」
ざわ、と皮膚の内側がざわつく。
「ねえヤナセ、まだ私を描きたい?」
「サエナ?」
「ねえ。まだあなた、私を描きたい?」
糸を引かれるように、ワタシはうなづいた。
描きたいどころではない。描いているのだ。彼女の許しがあろうがなかろうが、ワタシは描いているのだ。描かずにはいられないのだ。
紅茶を一口含むと、じっとこちらを見据える彼女の視線に耐える。
強い視線だ。どこかもろい所は確かにあるのに、時々、やはり勝てない部分があるのだ。
「どうして?」
問いかける言葉。ワタシはそれに逆らえずに、口が動く自分に気付く。
「あんたが綺麗だから」
「私は綺麗じゃないわよ。外見は自分では判らないわ。あなたの目にどう映ってるかなんて私には判らない。けど私は、あなたが思ってるように、綺麗じゃないわ。少なくとも中身は」
「綺麗だよ」
「綺麗じゃないわ。だってそう、今そうやって、納得したような口ききながら、それでも心のどっかで、あの今の生徒会長に嫉妬してる自分が居るのよ」
「…そりゃ…」
「判る? 嫉妬よ? 嫉妬なのよ? 私が、そう思ってるのよ。気持ちわるいとか、そういうのではなく、嫉妬なのよ?」
それは。
「あの二人の姿が、扉開けてすぐ目に入った時、私すぐに、見ているものを疑ったわ。だけど嫌になるほどこの目は観察してしまうのよ。彼、綺麗だった。嫌になるほど、それまでに見たことない顔で、気持ち良さそうだった。それ見て、私、嫉妬したのよ?彼にそんな顔させる、あの今の生徒会長に」
「…それは仕方ないだろ…」
「ええ仕方ないわ。私も人間だし女の子だし、そうかもしれない。だけど、それは私が許さないわ。それに、私には理解できないことを、やすやすとされていることにも、すごく腹が立つわ。その顔をした彼、にも嫉妬したのよ?私の知らない表情! 私が知らない、私ができない、そんな顔する彼、にも嫉妬したのよ?」
握りしめる手が白くなる。それに反比例するように、頬は赤らみ、目はきらきらとしてくる。
言葉を無くしているワタシに気が付いたのか、はっとして彼女は、握っていた手を開き、それをしばらくじっと見つめた。
「…ごめんねヤナセ、…私ばっかり何か」
「ううんそれはいい… それより、何で絵のこと」
「うん… 描いてもいいわ」
え、とワタシは思わず問い返した。
「そのかわり、お願いがあるの」
「何」
「あなた私のこと好きだと言ったわね?」
「え」
私は一瞬跳ね上がる鼓動を感じる。
そういう意味で言っているのではないのは判る。彼女が知る訳がない。
だからこの言葉は、前の、あの時初めて彼女が泣いた時の、その時の言葉だと思い付いた。
とっさに思い付いた。慌てて記憶の中から引っぱり出した。
「…言ったよ」
「私に触れても平気と言ったわね」
「言ったよ」
「じゃあ私と寝てみて」
「サエナ!」
思わずワタシは声を荒げていた。
「自棄になるんじゃないよ!」
「自棄じゃあないわ」
静かにサエナは言う。首を横に振る。
「私は、知りたいのよ」
「何を」
「ショックだったのは、それでもホントよ。私は彼が、男と寝られる、というのは、確かにショックだったのよ。…でもそれ以上に今は、知りたいのよ。それが、そんなに、彼にとって大切なことなのか」
「女の子でなくても… ってこと?」
「それでもそうしたいというのは、どういうことなの?って、私は知りたいのよ。判らないから、知りたいのよ。だって私はあまりにも、知らないわ。判らないわ。だから同じことをしたら? そうしても判らないなら、…それは私とは、違うのよ。だけど、何もしないうちに、それは、言えないじゃない」
「それで、同じ女のワタシと?」
彼女はうなづいた。
知らないということは、ひどく時々残酷だ。
もし彼女がワタシの気持ちを知っていたら、決して彼女はこんなことを口にしないだろう。
だが知っていたら、…そもそもこんな風に、話し合えもしないだろう。
鼓動が、耳の奥でヴォリュームを上げる。
「あなたは、どうすればいいのか、知ってるでしょう?」
苦笑する。それをどう取ったか判らないが、彼女の表情が一瞬曇った。
「…女の子を抱いたことは、ないよ」
「ヤナセ…?」
「泊めてくれるの? ワタシはまだ痴漢のショックが抜けてないから。夜道を帰るのはやだ」
彼女の表情が、明るくなった。
*
役得、と手放しで喜ぶことができない自分に気付いている。
夕食をキッチンで一緒に取っていたら、サエナのお父さんが帰ってきた。ひどく驚いた顔をしていた。
穏やかな色のセーターと、ざらついた手触りを思い出させる、焦げ茶のズボンを履いた、大きくも小さくもない人だった。
そして、穏やかな声の人だった。声を出すことに慣れている人の喋り方だ。
「学校の友達ですか?」
サエナが立った時に、彼女のお父さんは訊ねた。ワタシはそうです、と答えた。彼もまた、そうですか、と穏やかに答えた。
そして、
「長くつき合っていてやって下さいね」
と付け足した。
長く、つき合っていたいのだ。だからワタシは。
*
借りたパジャマを着て、風呂上がりに髪を乾かしていたら、扉が開いて、部屋の中に少しばかり、まだ冷たい空気が入り込んだ。
風呂から出てきたサエナは、真っ直ぐな髪を思いきり、バスタオルで拭きながら、扉を閉めた。途端に空気の流れが止まる。冷たい空気のかわりに、まだ暖かい彼女の身体からあふれる熱が、ゆっくりと漂う。ワタシは音のうるさいドライヤのスイッチを切った。
「ドライヤ使う?」
「ううんいい、私は天然乾燥が好きだから」
「じゃこれは」
ワタシは自分の手の中のドライヤに視線を移す。
「これはママさんの」
そう言うと、それでもワタシから彼女はドライヤを取り上げて、棚に置いた。髪が乱れている。見たことのない程、滅茶苦茶に。
そしてサエナは手を伸ばすと、壁のスイッチを切った。途端に、視界は真っ暗になる。カーテンはもう既に閉められている。
横をすり抜ける気配。そのまま熱を持った身体は、ベッドの中に入り込む。
一応この部屋の中には、もう一組の布団も運び込んであった。滅多に使われない、客用のそれが素足に当たる。それは、止したければ止せばいい、という彼女の無言の忠告でもある。
だけど。
ワタシは、そっと立ち上がると、手探りでベットを探り当てた。
上から人の位置を確かめる。す、と動く気配。軽い羽毛の布団と毛布を上げると、その中に滑り込んだ。途端に、湿った熱がパジャマに覆われていない部分にまとわりつく。
どうすればいいんだっけ、とワタシは夏の記憶を掘り起こす。手を伸ばす。頬に触れる。そのまま、確かめるように、手を滑らせる。彼はどうしただろう。あの時、ワタシは、どうされただろう。記憶を掘り起こす。
あまり自由にならない場所の中で、それでも手探りのまま、ワタシは彼女のボタンを外していった。彼女はまるで、生きていないかのように、動かない。
ワタシは自分のパジャマを脱いだ。脱いでベッドの下に落とした。そして露わになった彼女の胸を、横から手を入れて、抱きしめ、自分のそれと合わせた。乳房の柔らかさと、それと対称的な、そのまわりの肉の薄さが、奇妙にリアルに感じられる。
鼓動が、伝わってくる。
自分のか、と初めは思ったが、そうではなかった。彼女もまた、何か…何かとしか言い様がないが、感じとっていることは確かだった。
見えないままに、彼女の首の後ろに手を回し、まだ湿った、無茶苦茶になっているはずの髪に手を差し込む。そしてもう一方の手で、顔を探る。
指が、一つ一つ、ワタシ自身に伝える。
ここが彼女の目、ここが彼女の頬、ここが彼女の唇…
指で、唇をたどった。そのまま軽く、自分のそれと触れ合わせる。乾いた感触。一瞬の震え。そして今度は、両手で頬をはさみ、もう少し深く重ね合わせた。
柔らかく乾いた唇。それを濡らしていく。彼はどうしただろう。記憶をたどる。
彼は…
*
暑い夏の、あの部屋の中で、ワタシ達は、抱き合いながら、頭の中では別の相手のことを考えていた。
彼がワタシの上で、胸や脇腹や首筋をきつく吸う時、ワタシはそれを彼女の唇と考えていたこともある。逆にワタシが彼の上で、そうしていたこともあった。その時彼はきっと、イクノ先輩のことを考えていたに違いない。ワタシ達はそうやって、いつもそこにいない誰かのことを思いながら、目の前のお互いの身体を求め合っていた。
目を閉じてしまえば。
でもワタシは彼のことも好きだった。サエナの次に、好きだった。
*
袖を外させながら、次第に指を唇を、下に向かって這わせながら、ワタシは、頭の中で、彼女ではない相手のことを考えている自分に気付きだした。
*
「遠くで思っているから、好きでいられるのかもしれない」
と彼は、ワタシが帰る前の夜、そう言った。
月が綺麗な夜だった。
カーテンを閉めようが、灯りを消そうが、相手の顔すら判るくらいに月の光が強く感じられた。
ほんの、数日だったのに、ワタシはこの時、隣でうつ伏せになっている相手の姿を、ようやくはっきりと見たような気がした。眠ったのか、と声をかけたら、まだ眠っていない、と彼は答えた。
そしてつぶやいた。
「一番好きな相手っていうのは、遠くで思っているから、一番なのかもしれない」
どうしてですか、と訊ねたら、彼は答えなかった。そのかわり、別の問いかけをした。
「俺は奴の次にお前が好きだけど、お前は?」
「ワタシは彼女の次に、先輩が好きですよ」
それは事実だ。
*
そんな彼の記憶が、彼女に触れるたびに頭の中に浮かび上がる。何故。だって、それは。
胸のわきに手を入れて、少し持ち上げるようにして、舌を伸ばすと、と埋まっていたような柔らかい乳首がそれでも少しづつ盛り上がってきた。
手には、薄い肉の下の、肋骨が感じられる。一本一本、それは数えられそうだ。するりとした肌、そのまま手を下に下ろしていく。
ぱちん、とゴムの入った服を下ろしていく。
無論当初、それはワタシにしても、恥ずかしかったのだ。だけど彼は…
訳が判らなくなっていく。
ワタシは、どうしたいのだろう?
ワタシは、どうしたかったのだろう?
彼女を、そうしたかったのではないのだろうか?
彼女の奥に、手を進めながら、ワタシは混乱していく自分に気付いていた。
奇妙なほどに、彼に会いたかった。彼に会って、彼に抱きしめられ、彼を抱きしめながら、彼女のことを考えていたかった。
耳に、微かな声が、聞こえた。
*
翌朝、学校には行かずに戻った家で、母親の視線をすり抜け、たどり着いた電話の受話器を掴み、ワタシはあの時手首に書かれた電話番号を押していた。
それは机の上のメモに移動したけど、あの時の感触は、覚えている。
コール音が耳に届く。
出てほしい。出てほしくない。
矛盾した言葉が頭に鳴り響く。さっさと飛び出してしまってサエナに悪いとか、こんな朝から呼び出す非常識さとか、自分の卑怯さがぐるぐると、頭を回っている。
ただ、声を聞きたかった。
まだそれは、有効期限内だろうか。もしもそうでなかったとしても。ワタシはただ。
コール音が、耳の中で鳴り響いている。




