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第十四話:2人以上の子育てはきつかった……

>>薫

 合格通知を受け取った翌日、僕は桜を147系アリストの後部座席に乗せて横浜の葵姉ちゃんの家へ向かった。

 来客用駐車場にアリストを停め、桜を連れて10階建てのマンションの306号室、葵姉ちゃんの一家が暮らす家のドアの前に立つ。僕はインターフォンのボタンをそっと押した。


 ピンポ――ン……。

 間延びしたチャイムの音がなって少し間が空いた後、バタバタと騒々しい足音と共にドアがバタンと勢い良く開き、葵姉ちゃんが顔を出した。

「いらっしゃい、クーちゃん、オーちゃん。態々来て貰ってありがとう。さあ、上がって頂戴。」

 お姉ちゃんは明るく笑顔を振りまいていたが、その声には苦しい物が潜んでいるように僕には感じられた。相当辛いのだろうか?

「お邪魔しまーす!」

と無邪気で無遠慮に桜が家の中へ上がり込んでいる事にすら、僕は気後れがして心苦しくなった。

「お姉ちゃんごめんね。わたしの勝手で我慢を強いてしまって……。体、大丈夫?」

「ううん、心配しないで。大丈夫だから。それよりオーちゃん、受かったんでしょう?おめでとう。」

「あ……ありがとう。」

 せめても……、という訳にはいかなくてもと思って葵姉ちゃんに詫びを入れたけれど、逆に僕の方が祝いの言葉を掛けられてしまい、ますます肩身が狭くなる思いがした。正直敷居も高く感じる。尤も、そういう事を口にした所で、お姉ちゃんなら僕が彼女に対して不義理を働いたとは、思っていたにせよ口には出さないだろうが……。


 促されるままに玄関で靴を脱ぎ、そのまま居間へ通される。

 部屋に入ると、既に余所行きらしい可愛い服を着て粧し込んだ棗ちゃんと翔君がちょこんと床に座り込んで玩具で遊んでいるのが目に入った。その傍らには水色と黄色のお揃いの小さなナップサックとパンパンに膨らんだ百貨店の大きな紙袋が寄り添うように置かれているのが見える。

「あ、オーちゃんとクー叔母ちゃんだ!」

「こんにちは!」

「やほ――い!」

 僕と桜の姿を見つけた二人は僕等に向かって思い思いに声を掛け、桜も変な掛け声を上げながら僕の手を離し、二人の元へてくてくと駆け寄って行った。


 翔君の方は状況が飲み込めていないのだろう。呑気に桜と言葉遊びをして燥いでいる。他方、棗ちゃんは妙にしんみりと大人しく構えていた。もう5歳の幼稚園の年中さんだから自分達の状況をある程度推測しているのか、それとも葵姉ちゃんが解りやすく現状を把握させたのか……。その寂しそうな表情に、僕は胸を締め付けられる感じがした。


 紙袋に入っているそれぞれの着替えや、棗ちゃんの幼稚園の送り迎えに関する注意事項、食べ物の好き嫌い等を僕に詳しく説明する葵姉ちゃんも、何処か辛そうである。それはそうだろう。一時とはいえ、子供を他人に預けるのだ。相手がよく知っている相手だとしても不安だろうし、何よりも大切な子供と離れ離れになる事は仕方ない事にせよ言語に絶する心境だろう。同じ親としてそうした気持ちを容易に察せられたので、僕まで無性に悲しくなった。


「じゃあ、クーちゃん。お願いね……。」

「うん……、任せて……。」

 葵お姉ちゃんに見送られ、桜の左手と、翔君と手を繋ぐ棗ちゃんの右手を両手で取って僕は歩き出した。

「叔母ちゃんの家に遊びに行くよ。」

という言葉で誘い出した所為か、翔君はしきりに葵姉ちゃんの方を振り返っていた。

「ねえ、クー叔母ちゃん。お母さんは、一緒に行かないの?」

と尋ねる声が、悲愴感が一切混ざっていない大変無邪気な物だったので、余計に心に突き刺さる。

 いけない、いけない。僕まで感傷的になってどうするのだ!今日から暫し僕が彼らの母親代行者なのだ。僕がしっかりせずに余計な不安を煽ってどうする!


「さあ、ついていらっしゃい。」

 努めて明るい顔を造ると、僕は子供達を引き連れて自分の車に向かった。


 棗ちゃんと翔君を、初めて僕の車に乗せたり我が家に招待したりしたからだろうか、二人は案外素直について来た。寧ろ道中を楽しんでいるようにも思える程燥いでいるのが、却って僕の方の気休めにもなった。


 自宅に着き、子供達に嗽手洗いをさせて一段落すると、葵姉ちゃんの家に電話を掛けた。

「もしもし……。」

 電話の向こうから聞こえてくる葵姉ちゃんの声は、やはり鬱屈としたものだった。

「もしもし、お姉ちゃん。薫です。」

「クーちゃん……。」

「今、無事にウチに着いたから。一応連絡しておこうと思って……。」

「そう……。」

「お姉ちゃんも、頑張って……!」

 何を言っているのだ……?僕は……。口に出してしまってから、迂闊な事を口走ってしまった事を後悔した。何が『頑張れ』だ……。

 しかし、少しの沈黙の後、葵姉ちゃんは僕に向かってこう言った。

「クーちゃん……。」

「…………。」

「……ありがとう。」

 そこで、プツリと電話は切れてしまった。


 夕方までは子供達は3人で仲良く遊んだり、ソファーに座ってテレビのアニメ番組を観賞したりして楽しそうに過ごしていた。が、日も落ちてそろそろ晩御飯の時間になろうとした頃、

「おウチに帰りたい!」

と愚図り始めた。

「お母さんが今ちょっと大変だから、今日から暫く叔母ちゃんのウチで泊まらなければいけないの。ごめんね。」

と慰めてみたものの、やはり普段と環境が大きく変わる事に不安があるのか、はたまたやはり母親が恋しいのか、

「嫌だ――!ママのところ、帰る――!帰る――!」

と翔君はワンワンと泣き出してしまった。

 しかも被害はそれだけに終わらず、棗ちゃんにも伝播して大声で涙を流し、果ては何故か桜まで、

「帰る――!」

と泣き喚きだし、家の中は子供達の泣き声の大合唱に包まれた。

「桜、あなたのおウチはここでしょう?」

「あっ……、ママ!そうだった!てへへ……。」

という感じで桜は泣き止んだけれども、僕は翔君と棗ちゃんの二人を宥めるのに四苦八苦した。


「そうか、今日からだったか……。」

 深夜、子供達が寝静まった後、和室に敷いた僕の布団に3人仲良く包まってスヤスヤと眠る様子を見て、やっと帰宅した和樹が背広を脱ぎながら呟いた。

「これから賑やかになるな!」

「賑やかなんてものではありませんわ……。もう大変よ。」

 ニヤニヤと笑ってからかう夫に、半ばうんざりしつつ僕は愚痴をこぼした。

「泣き出しちゃうし、喧しいし……。事情が事情だから強く出られないし、御近所へも気を遣うし……。」

「そんなの誠さんが戻ってくるまでのほんの少しの辛抱だろう?」

 こっちの気も知らないで、和樹はしれっとそんな事を言う。これからの不安や今の気持ちをどういう風に表現して良いか分からないし、この人に何を言っても無駄だと思ったので、僕は口を噤む事にした。


 和樹と共にソファーに座り、エビスの生の金色の缶を持って晩酌の相手をしていると、急に思い立ったように彼が僕にこんな提案をした。

「なあ、薫……。桜の弟か、妹を創ってみないか?」

「どうしましたの?急に……。」

 僕はビールを和樹が右手に持つグラスに注ぎながら、彼の顔を凝視した。すると、彼は左手にある和室、その暗がりに浮かぶ白い布団と、その中で安眠を貪る3人のチビ達にちらりと目を向け、こう続けた。

「……いや、何となくそう思ってさ。」


 呆れた。こいつは僕が子供を産めない体質だと云う事を綺麗さっぱり忘れてしまったのだろうか?たとえ望んでみたところで、流れてしまって辛い思いをする確率の方がずっと大きいではないか……。

 でもまあ、たまには旦那の妄想に付き合ってやるのも良いかもしれない。だから、もし万に一つも第二子が産まれた時の事を、僕は頭の中でシミュレートしてみる事にした。


 取り敢えず、僕自身は産まれてきた乳飲み子の世話に掛かり切りとなって、桜の事にまで手が回らなくなる事は確定事項に違いない。自分も両親の第一子で年の近い弟がいる実体験からよく理解出来るが、甘えん坊の桜の事だ、母親の僕に構って貰えなくなったら酷くショックを受けるに違いない。臨月、出産という過程で、精神的にも心理的にも母親から引き離されていた後で、やっとお母さんに甘える事が出来ると有頂天になっていたところに、その母親を弟や妹に独占されるという非情な現実を見せつけられるのだ。それはもう相当な物だろう。

 幼児心理学の研究者の中には、第一次性徴期にみられる反抗期において、母親への全面的な依存から部分的に脱却を図る起爆剤として、このような経験はあった方が子供の精神的な成長にとって良いとする考えを持つ人もいるらしいが、僕はそうは思えない。経験上、そう遠くない内に改善する傾向は見られるものの、自分はいらない子なのだと勘違いして母親との関係が拗れたり、自分から母親を奪った弟や妹に対して異常な敵愾心を燃やしたりする割合がとても高い。特に後者は何十年経っても兄弟関係に深刻な悪影響をもたらすケースだって存在する。

 それでも、父親が母親の代わりに上の子の面倒を見るなりして気を紛らわしてくれれば、そんな状況も大きく改善、というより回避出来るのだろうが、子育てを僕に丸投げしている和樹が、そんな甲斐性を発揮するとは到底思えない。

 愛する娘に面と向かって嫌われるのも母親としては辛い事だし、そんな些細な事で子供の兄弟関係が険悪になるのも悲しい。第二子以降を創らないか、もしくは産むとしても桜が小学校に上がってある程度の分別心と自立心が育ってからが最良である、と僕には思われた。


 まあ、そういう事を抜きにしても、小さな子供が3人も一つ屋根の下にいるという生活は想像を絶する物だった。


 まず、朝の時間の過ごし方が大きく様変わりした。


 今までは、5時半に起床して御飯を造り、7時半に夫を起こして朝食を摂らせ、8時頃には車を出して夫を駅まで送り、帰宅してから8時半くらいにやっと娘を起こして御飯を食べさせる、という繰り返しだった。それが今や、7時半に夫と共に棗ちゃんも無理矢理起こして朝御飯を食べさせ、夫を吉祥寺の駅まで送ったその足で、首都高を飛ばして横浜の幼稚園へ向かって彼女を先方へ預け、急いで家へ戻る。そして何故か布団から這い出て、ソファーに座って寝ぼけ眼のまま仲良くテレビを見ているチビッ子二人にも食事を摂取させる。

 毎回、どうして普段は起こすまで目覚めない筈の小さな子供が、自分が居ない間にテレビを見ている、という事態になるのか不思議におもったが、どうやら保育園に向う為に8時過ぎに起床する習慣のある翔君が、慣例的に起きてテレビを点け、大好きな幼児向けのテレビ番組を見ていると、その音に釣られて桜まで起き上がる……、という図式が確立しているらしい。


 他にも、普段は凄く良い子にしている桜が、やんちゃ坊主の翔君に触発されてワンワン喚いて手が付けられなくなるなる事もしばしば発生する事が増加するようになった。やはり、どんなに理性的で善良な気質の子供でも、一緒に群れる子供次第では悪影響をもろに受けて箍が外れる事も往々にある、という事か……。認めたくはないが、『友達は選びなさい』という言葉は真理だったのだな、としみじみと実感した。


 例えば、こんな事があった。

 棗ちゃんが幼稚園へ行っている間、僕は子供二人を抱かえて家事を熟しているが、2~3日に一度位の割合で、桜と翔君を連れて車で近所の大型スーパーへ食品や洗剤等を纏め買いしに行く事がある。

 行きはよいよい帰りは怖い。特に2歳程度の子供は、我慢するだけの体力も精神力も乏しい所為か、棚を見て回る間に疲労を溜め込み、清算してレジ袋に商品を詰めてから、駐車場に停めた車まで向かう途中で力尽き、

「もうヤダ――!歩けないよう!」

「ママ――!抱っこ!抱っこ!」

と地面に座り込んだり、抱っこしてくれとスカートの裾にしがみ付いたりする事がままあった。

 無論、抱っこして上げられるなら抱っこして上げたいが、数日分を詰め込んで計20kg程の買い物袋を両手に提げた状態で、更に10kg弱まで成長した2歳児を二人も抱えるなど、体力的に難しい。


 そういう時は大抵、

「こら、ショーちゃん、ばっちいからそんな所にお尻を着けてしゃがんではダメよ。桜も、今ママ両手が塞がっているから、抱っこは出来ないの。我慢をして。……二人共、もうすぐそこに車があるから、頑張って!」

と宥め賺す訳だが、ある時どうしても、

「疲れた!」

の一点張りで頑として動きそうにない事があった。

 此方も重たい買い物袋を両手に吊って腕が痺れそうだし、ショッピングモールの通路上で立ち往生する訳にも行かなかったので、

「分かったわ。じゃあ、アイスを買って上げるから。頑張ろう、ね?」

と、つい迂闊な失言をしてしまった。

「アイス?!」

 すると、あんなにグダグダと言って足を投げ出していた二人が、急にキラキラと瞳を輝かせつつ揃って僕の顔を見上げた。

「ねえ、ママ!ママ!本当にアイス、買ってくれるの?」

「勿論!ママが桜との約束を破った事があった?」

「ううん!」

 子供達はアイスというたった一言の単語でテンションが最高潮に達したのか、これ以上にない笑顔で飛び上がると、

「わ――――い!わ――――い!アイス――!アイス――!」

と合唱しながらその場でクルクルと円を描いて踊りだした。


 その後、売り場に引き返してハーゲンダッツのアイスを買い求めて駐車場に向うという遠回りをしたにも関わらず、子供達は文句一つ口にせず、始終ワクワクと浮き足立っていた。


 それがもう運の尽き。姑息な手段を講じてホッとしたのも束の間、すぐに僕は自分がとんでもない事をしてしまった、と云う事を思い知らされた。桜と翔君に、駄々を捏ねれば僕にアイスを買って貰える、という誤った刷り込みをさせてしまったのである。

「え――――!この間は買ってくれたのに、今日は買ってくれないの?ママ……。」

「今日は駄目!我慢しなさい。」

「う――。ママの嘘つき!」

「この間は買って上げると言ったけど、今日もとまでは言っていないわよ。帰ったらお菓子を上げるから、頑張って!ね……。良い子だから……。」

「いや!買って!買って!」

「いい加減にしなさい!桜。ママ、怒るわよ。」

「買ってくれなきゃ、桜、動かないもん!」

「…………。」


 その時は、無理強いをして二人を両の小脇に一人ずつ抱かえ上げ、強引に車の所まで連れて行ったが、買い物に行く度にこんな有様になったので、誠さんが棗ちゃんと翔君を迎えに我が家まで訪ねて来た時、これ以上になく安息した。


 10月31日の未明、葵姉ちゃんに3人目となる赤ちゃんが産まれた。

 出産直前時の成長が芳しくない上に、どうやら逆子だったらしく、誠さんから帝王切開になるかもしれないと聞かされた時は、大丈夫だろうかと肝を冷やしたが、無事に産まれたという報せを聞き、僕は安堵した。


 一日開けた翌1日、僕は桜を後期型C35ローレルの後部座席に乗せ、横浜市内某所にある総合病院へ、葵姉ちゃんを見舞う為に向かった。


 駐車場に車を停めて病棟の中に入り、受付で病室の場所を聞いて産婦人科病棟の葵姉ちゃんが居る病室の前に立つ。半開きになっていた扉を潜って6人用の大部屋に入ると、右側手前のベッドの上で起き上がり、家族一同に囲まれて赤ん坊を胸に抱くお姉ちゃんの姿が目に入った。


 葵姉ちゃんと誠さん、そして子供達と僕達で互いに軽い挨拶を交わすと桜を抱っこしたまま葵姉ちゃんの左側に近寄った。

「女の子ですって?」

「ええ、無事に……元気に産まれてホッとしているわ。」

「可愛い。お姉ちゃんに似ているわね。……でも、鼻筋の辺りは誠お兄さんにも似ているかしら?」

「そうね……!言われてみたらそうかしら。」

「もう、名前は決めたの?」

「ええ、翠って……。」

 何故そんな名前にしたのかと訊こうとも思ったが、特にどうしても追究しなければならない事な訳でもなく、野暮だと思ったので止める事にした。

 因みに、葵姉ちゃん的にニックネームは『スーちゃん』と云うのだそうである。


 母親の胸の中で、目を閉じたまま手探りで乳首を探って吸い付き、懸命に乳を吸い込むその小さな姿は、どうしても桜の産まれたばかりの頃を思い起こさせる。僕はとても懐かしい気分に浸った。

 桜も、小さな赤ん坊の姿に興味があるのか、誠さんに抱かれた翔君や、母親の傍らでベッドに手を付いて身を乗り出す棗ちゃんと共に、じっとその様子を眺め、見入っているようだった。


 その日の晩、桜を胸に抱き締めたまま一緒に湯を張ったバスダブの中に入っていると、不意に娘が僕の胸元を、と言うより乳房をジッと凝視している事に気が付いた。

 何というか、そんなに興味があるのか、鬼気迫る表情で睨むように見つめているので、

「どうしたの?桜。」

と僕は彼女に声を掛けた。

 桜は何も答えず、黙ったままおっぱいを眺めていたが、意を決したのだろう、急に顔を近付けると僕の右の乳首を口で咥え、ちゅうちゅうと力強く吸い始めた。乳頭に娘の舌が当たる感触がこそばゆくて、僕は思わず嬌声を上げてしまった。

「こら!桜!何しているの?止めなさい……!」

 それでも桜は止めようとせず、吸い続けていたが、やがて口を離すと、しょんぼりとした顔で僕の顔を見上げてこう呟いた。

「おっぱい…………出てこない……。」

「当たり前でしょう。桜が赤ちゃんの時、沢山ママのおっぱいを吸ってしまったのだから……。もう出そうにも出て来ないわよ。」

「…………。」

 桜は不満なのか、眉毛を釣り上げて怒ったような顔をした。可愛すぎて思わず笑みが零れそうになるけれど、

「もう桜はママのおっぱいを吸うような赤ちゃんじゃないでしょう?」

と、僕は彼女にそっと言い聞かせた。

 どうやら桜は、昼間に見た葵姉ちゃんと翠ちゃんの授乳の様子に、好奇心からか何かを感化されて一時的に赤ちゃん返りを起こしてしまったようだった。僕としてはそんな娘の様子さえも愛らしくて堪らないが、流石に来年から幼稚園に通う子がいつまでも赤子のようでは困ってしまう。


 月日が経ち、そんな桜の赤ちゃんへの興味が薄れてきた頃、学院指定のテーラーから注文していた桜の幼稚舎の制服が我が家へ届けられた。


 胸ポケットの所に金糸で幼稚舎の校章の刺繍が施された黒いワッペンが付けられた、濃い深緑色の小さな背広のようなジャケットに緋色のプリッツスカート、長袖の白いワイシャツと、スカートと同じ色のシルクの蝶ネクタイ、そしてジャケットと同じ深緑色で紺色の房が付いた嵩の低い、まるで小さな薄手の座布団のような博士帽子がセットになった冬服が2着ずつ。深緑色の薄手のプリッツスカートに真っ白な半袖の開襟シャツ、真っ白で緋色の房が付いた冬服の物とは色違いの博士帽子が一揃いになった夏服も2着ずつ。シックで変わったデザインだが、意外と可愛らしい制服だ。

 他に必要な、鞄とか靴とかは事前に幼稚舎で指示された物を購入したり裁縫で手作りしたりしたので、これで入学に当たって最低限必須な物が全て揃った事になる。


 確認する為に紙製のケースから床に並べて広げた制服を、クリーニングへ出しに行く為に片付けようとも思ったが、一度幼稚園へ行く前に桜に着せてみようと急に思い立った僕は、此方に背を向ける形でソファーに腰掛けてテレビを見ていた娘に、

「桜、ちょっと此方へ来なさい。」

と声を掛けた。

「……?なあに?ママ!」

「ふふ……。ちょっとこれ、着てごらん。」


 首を傾げつつトテトテと歩いて来た桜を両腕で抱き寄せると、僕は早速彼女の服を脱がし、冬服の制服に着替えさせ、購入したばかりでぺしゃんこなままだが、ポリエチレン繊維のキラキラとした、白い校章が大きくプリントされた深い赤色の幼稚園用の通園鞄の肩紐を彼女の左肩に掛けて持たせた。


「ママ!どう?」

 そう言って桜はスカートをふわりと翻しながらくるりとその場で一回りした。

 可愛い。凄く可愛い。まるで、桜の背中に天使の如く金色に輝く大きな羽が生えていて、それが彼女の肩越しにちらりと見えたような……。誇張無しで僕はそんな錯覚をしたような感じがした。

 これは是非ともちゃんとした写真に残して永久保存せねば!序でにPCの添付メールで京都の実家にも送って両親にこの可憐な姿を見せて上げよう。世田谷の義実家には……、向こうが寄越せと言ってから考えるか……。


 早速、傍のカウンターの上に置かれていた一眼レフのデジカメを手に取ると、僕は桜にレンズを向けた。

「じゃあ、桜。折角だからお写真撮ろうか?」

「うん!」

 桜は元気良く声を上げると、両手でピースサインをして構えている。


「はい、チーズ!」

「にぃ!」

 カメラの液晶モニターに映った桜が白い歯を見せながら満面の笑みを浮かべた瞬間、僕は静かにシャッターを切った。


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