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第99話「一切皆苦」


第一部 ノクターン

2027年、東京。

冬の雨の夜、若きピアニスト・久世蒼くぜ・あおいは、国際コンクール本選の舞台でショパンの《バラード第1番》を弾きながら突然演奏を止める。

観客には分からない。 しかし彼には聞こえた。

「その曲を、まだお前には弾く資格がない」

低く、疲れ切った男の声。

舞台袖へ崩れ落ちた蒼は、その夜から奇妙な夢を見るようになる。 蝋燭の灯る十九世紀パリ。 雪に沈む帝政ロシア。 血を吐きながら鍵盤を叩く青年。 革命に追われ亡命船へ向かう巨人。

夢の中で二人の男が現れる。

フレデリック・ショパン。 セルゲイ・ラフマニノフ。

時代を超えて存在するはずのない二人は、なぜか同じ部屋にいる。 そして蒼に問いかける。

「お前は、何のために音楽を弾く?」


第二部 雨のワルツ

1838年、マヨルカ島。

病に蝕まれたショパンは、ジョルジュ・サンドとの生活の中で静かに崩壊していく。 彼は成功していた。 名声も、愛も、才能も持っていた。 だが幸福だけがなかった。

ショパンは、自らの音楽についてこう語る。

「人は私の旋律を美しいと言う。だが美しいものほど、人間を絶望させる」

彼は幼少期から死の影に魅入られていた。 拍手喝采のあとに訪れる虚無。 愛された直後に訪れる嫌悪。 肺を侵す病。 祖国ポーランドを失った亡命者としての痛み。

ショパンは夜ごと、自分の楽曲が「人の苦悩」を増幅していると感じ始める。 彼のノクターンを聴いた人々は涙を流し、幸福ではなく「失われたもの」を思い出すからだ。

ある夜、彼は夢の中で巨大な黒い海を見る。 その海の向こうに、見知らぬ長身の男が立っている。

「あなたも、苦しんでいるのですか?」

男は答える。

「音楽家である限りな」


第三部 鐘

1897年、モスクワ。

ラフマニノフは交響曲第一番の初演失敗によって精神を病む。 酷評。 嘲笑。 沈黙。

彼は自分が作曲家として終わったと確信する。

「私は空っぽだ」

酒に溺れ、何も書けなくなったラフマニノフは、ある晩、夢の中でショパンの葬送行進曲を聴く。

そこには棺の横で微笑むショパンがいた。

「あなたはまだ若い」

「だが私は死んでいる」

ショパンは静かに笑う。

「私もずっと死んでいました」

ラフマニノフはショパンに異様な親近感を抱く。 二人は時代も国も異なる。 しかし彼らは同じ病を共有していた。

“世界の美に耐えられない”という病を。


第四部 一切皆苦

現代の蒼は、夢を見るたび演奏が変化していく。 観客は熱狂する。 だが蒼自身は少しずつ壊れていく。

彼は気づき始める。 ショパンとラフマニノフは単なる夢ではない。 彼らは「音楽の苦」を背負った亡霊なのだ。

才能ある者ほど、世界の悲しみを過剰に感じてしまう。 音楽とは救済ではなく、“痛みを共有する儀式”なのではないか。

蒼は仏教哲学を研究する盲目の女性・朝倉澪と出会う。

澪は言う。

「一切皆苦とは、“人生は全部つらい”という意味じゃない。 執着するから苦しいんです。 才能にも、愛にも、永遠にも」

蒼は反発する。

「じゃあ芸術も執着だろ」

「そうです」

「なら音楽なんて存在しない方がいい」

澪は微笑む。

「でも人間は、苦しみながらでも美しいものを作るでしょう?」


第五部 パガニーニ

ラフマニノフは亡命後、巨大な成功を手にする。 しかし彼は祖国を失った空洞を埋められない。

アメリカの豪奢なホテル。 拍手。 富。

それでも彼は夜ごと同じ夢を見る。

荒廃した劇場。 空席。 ショパンのピアノ。

そこにショパンが現れる。

「私たちはなぜ弾くのでしょう」

ラフマニノフは答える。

「沈黙が怖いからだ」

ショパンは静かに頷く。

「ええ。沈黙の中では、自分自身の苦しみが聞こえてしまう」

二人は時代を超えて対話を続ける。 やがて彼らは気づく。

音楽とは、死者が生者へ送る祈りなのだと。


最終部 ピアノソナタ第0番

蒼は最後の演奏会に立つ。 演目は未発表の自作曲《ピアノソナタ第0番》。

ショパンの旋律。 ラフマニノフの鐘。 仏教声明。 ノイズ。 沈黙。

すべてが混ざり合う。

演奏の最中、蒼は幻覚を見る。 客席には死者たちが座っている。 ショパン。 ラフマニノフ。 亡命者。 病人。 自殺者。 孤独な人々。

皆、静かに聴いている。

蒼は理解する。

人は苦しみを消せない。 一切皆苦。 だが、人は他人の苦しみに触れた瞬間だけ孤独ではなくなる。

音楽とは、そのために存在する。

最後の一音が消える。

完全な沈黙。

そして蒼は、初めて微笑む。



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