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第100話「生きる喜び」

生きる歓びのための夜想曲

第一章 雨の練習室

 三月の終わりだった。

 東京の空には、春になることをためらうような灰色の雨が降っていた。

 音楽大学旧校舎の地下練習室で、朝比奈透はショパンの《バラード第一番》を弾いていた。

 だが鍵盤の上を走る指は、どこか空虚だった。

 音だけは正確だった。テンポも揺れない。教授たちは「優秀だ」と言った。コンクールでも結果を出してきた。

 けれど透自身は、自分の演奏に命がないことを知っていた。

 最後の和音を叩いたあと、湿った静寂だけが部屋に残った。

「綺麗ね。でも、死んでる」

 背後から声がした。

 透が振り返ると、入り口に一人の女が立っていた。

 黒いコート。長い髪。濡れた傘。

 彼女は学生証を首から下げていた。

 “久遠寺 凛 作曲科”

「……誰?」

「作曲科三年。あなた、有名人でしょう」

「悪かったね」

「別に。上手いもの」

 凛はゆっくり部屋へ入り、ピアノの横に立った。

「でも、ショパンが可哀想」

 透は眉をひそめた。

「どういう意味だよ」

「あなた、自分が傷つかないように弾いてる」

 その言葉は、不思議なくらい正確だった。

 透は何も返せなかった。

 凛は鍵盤を見つめながら、小さく言った。

「ショパンって、生きることが怖かった人なの。でも、それでも美しいものを愛した。あなたの音には“怖さ”がない」

 彼女はおもむろに腰掛け、《幻想即興曲》を弾き始めた。

 荒々しく、不安定で、テンポも揺れた。

 だが、透は息を呑んだ。

 音が、生きていた。

 音が泣き、笑い、震えていた。

 同じピアノとは思えなかった。

 最後の和音が終わったあと、地下室には雨音だけが残った。

「……なんでそんなふうに弾けるんだ」

 凛は少し考えてから言った。

「死にたかったことがあるから」

 透は言葉を失った。

 凛は平然と立ち上がり、譜面台に置かれていたショパンの楽譜を閉じた。

「ラフマニノフ、好き?」

「まあ……」

「なら、二番を聴いて」

「ピアノ協奏曲?」

「そう。あれは“戻ってきた人”の音楽だから」

 彼女はそう言って笑った。

 その笑顔だけが、地下室の暗さに似合わないほど明るかった。

 その日から、透の世界は静かに変わり始めた。


第二章 ラフマニノフの冬

 凛は変わった女だった。

 授業にはあまり出ない。

 作曲科なのに提出期限を守らない。

 教授たちには問題児扱いされていた。

 しかし彼女の作品を聴いた人間は、誰もが沈黙した。

 旋律が異様なほど美しかった。

 それは、ロシアの雪原に一人立っているような孤独を感じさせた。

 ある夜、透は凛に連れられて小さな喫茶店へ行った。

 古いスピーカーから、ラフマニノフの《ピアノ協奏曲第二番》が流れていた。

 低音が静かに沈み込み、そこから光のように旋律が立ち上がる。

 透は目を閉じた。

「ラフマニノフって、一度壊れたんだよ」

 凛がコーヒーを見つめながら言った。

「交響曲第一番が失敗して、完全に鬱になった。作曲できなくなって、死ぬ寸前までいった」

「知ってる」

「でも、戻ってきた」

 店内には第二楽章が流れていた。

 柔らかな旋律。

 遠い記憶を抱きしめるような和声。

「だから私は好き。絶望した人間が、それでも世界を美しいって言った音楽だから」

 透は彼女の横顔を見た。

 凛は笑っていなかった。

 その横顔には、深い疲労があった。

「お前、何があったんだ」

 凛はしばらく黙っていた。

 やがて、小さく言った。

「兄が死んだ」

 透は何も言えなかった。

「ピアニストだったの。すごく上手かった。でも、自分を壊しながら弾く人だった」

 凛はカップを持つ。

「ある日、突然いなくなった」

 窓の外には雨。

 東京のネオンが濡れて滲んでいた。

「私はね、音楽って“生き延びるため”にあると思ってる」

 透は初めて、自分が何のためにピアノを弾いているのかわからなくなった。


第三章 春のコンチェルト

 五月。

 大学の演奏会が近づいていた。

 透はソリスト候補として、ラフマニノフ《ピアノ協奏曲第二番》を任されることになる。

 だが彼は迷っていた。

 自分には、この曲を弾く資格がない気がしていた。

 夜遅くまで練習室に残っていると、凛がやってきた。

「まだ弾いてる」

「……眠れなくて」

 透は第一楽章を弾き始めた。

 重厚な和音。

 暗闇から這い上がるような旋律。

 だが途中で止まる。

「駄目だ」

「何が?」

「全部、嘘っぽい」

 凛は少し笑った。

「ねえ透。音楽って、“うまく弾くこと”じゃないよ」

「そんなの綺麗事だろ」

「ううん」

 彼女は鍵盤にそっと触れる。

「人間って、誰でも壊れてる。ラフマニノフも、ショパンも、みんな」

 透は黙る。

「でも、壊れたまま、美しいものを作れる」

 凛は彼の胸を軽く叩いた。

「あなた、まだ自分を許してないでしょう」

 その瞬間、透は胸が締めつけられた。

 彼には忘れられない事故があった。

 高校時代。

 地方コンクールへ向かう途中、母が運転する車が横転した。

 母は片腕に後遺症を残した。

 透は無傷だった。

 それ以来、彼は“勝たなければならない”と思い続けていた。

 母の犠牲を無意味にしないために。

 失敗してはいけない。

 完璧でなければならない。

 そう思い続けた。

「……俺、ピアノ好きなのかな」

 凛は即答した。

「好きじゃなかったら、そんな苦しまない」

 沈黙。

 遠くで誰かがドビュッシーを弾いていた。

「ねえ透」

「ん?」

「生きるって、たぶん“誰かと音を分け合うこと”だよ」

 その言葉は、春の夜気みたいに静かだった。


第四章 夜想曲

 六月の終わり。

 凛が突然大学に来なくなった。

 連絡もつかない。

 透は不安になった。

 彼女のアパートを訪ねると、部屋は薄暗かった。

 ドアを開けた凛は、痩せていた。

「……来たんだ」

「大丈夫か」

「平気」

 だが平気には見えなかった。

 部屋には薬が散らばっていた。

 ピアノの上には、書きかけの譜面。

「病気なのか」

 凛はしばらく黙ってから言った。

「心臓」

 透は息を呑む。

「手術、しないといけない。でも成功率あんまり高くないんだって」

 彼女は笑おうとした。

 しかし笑えなかった。

「怖いよ」

 透は初めて、凛が弱音を吐くのを見た。

「死にたくない」

 その言葉が、胸に突き刺さった。

 凛はずっと、“死”を知っている人間だと思っていた。

 だが彼女は、誰よりも生きたがっていた。

 透は部屋の隅にあったアップライトピアノへ向かった。

 そしてショパンの《ノクターン嬰ハ短調》を弾いた。

 不器用な演奏だった。

 けれど凛は静かに泣いていた。

「……綺麗」

「下手だろ」

「ううん」

 凛は涙を拭った。

「やっと、生きてる音になった」


第五章 生きる歓び

 演奏会当日。

 ホールは満席だった。

 凛は病院から外出許可をもらって来ていた。

 客席の後方。

 白いマスク。

 細い身体。

 それでも彼女は笑っていた。

 指揮者がタクトを上げる。

 ラフマニノフ《ピアノ協奏曲第二番》。

 冒頭の和音が鳴る。

 透は目を閉じた。

 怖かった。

 失敗するかもしれない。

 崩れるかもしれない。

 けれど。

 それでも弾きたかった。

 音楽の中には、確かに生きる歓びがあった。

 苦しみの先にしか見えない光があった。

 ショパンも。

 ラフマニノフも。

 きっと、その光を追い続けた。

 透は鍵盤へ指を落とした。

 音が、溢れた。

 涙のように。

 祈りのように。

 そして春を越えた人間だけが知る、静かな歓びのように。

 第二楽章で、透は客席を見た。

 凛が泣いていた。

 その涙は悲しみではなかった。

 生きている人間だけが流せる涙だった。

 透は初めて理解した。

 芸術は、完璧になるためにあるのではない。

 誰かを、生かすためにあるのだと。


終章 新しい朝

 秋。

 凛の手術は成功した。

 退院した日の朝、二人は河川敷を歩いていた。

 風が金木犀の香りを運んでくる。

「ねえ透」

「ん?」

「これから、どんな音楽作りたい?」

 透は少し考えた。

 空は高かった。

 世界は不完全だった。

 苦しみも消えない。

 それでも。

「生きたいって思える音楽」

 凛は笑った。

「うん。それが一番難しい」

 二人は並んで歩いた。

 遠くで、誰かがピアノを練習している音が聞こえた。

 ショパンのワルツだった。

 その旋律は、どこか不器用で、温かかった。

 まるで人生そのものみたいに。

 そして世界は、まだ美しかった。

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