第9話 一通の手紙
その夜、ロイドはひさしぶりに「紙が多いな」と思った。
元から多い人生だったが、
今夜の紙はいつもと少し種類が違う。
伝票ではない。
荷札でもない。
運行表でもない。
人を動かすための紙だ。
しかも、かなり面倒な方向に。
《スカイコーチ》の本部はもう閉まっていた。
表の看板は潮風に鳴き、
奥の整備場では、明日の朝に備えて工具が乾かされている。
人の気配は少ない。
少ないが、ゼロではない。
こういう夜の小ギルドというのは、
誰か一人くらい絶対に「帰ったほうがいいのに帰ってないやつ」がいる。
今日はそれが二人いた。
一人はロイド。
もう一人は、案の定リリカだった。
「ロイドさん」
「なんだ」
「なんでそんなに手紙書いてるんですか」
「必要だからだ」
「その必要、たぶん世の中に優しくないやつですよね」
「かなり優しくないな」
「やっぱり!」
リリカは机の端に頬杖をついた。
今日は整備油の匂いより、インクの匂いのほうが濃い。
卓上には便箋が三枚。
封筒が三つ。
封蝋も三つ。
あまりにも露骨に“何かする気”の机だ。
だがロイドの手は静かだった。
走り書きはしない。
こういう紙は、急いで書くと失敗する。
文面は短い。
だが短い文ほど、語尾と順番で効き方が変わる。
刃物と同じだ。
小さいほうが扱いを間違えると危ない。
「誰に出すんです」
リリカが聞く。
「《ウィングメイル》だ」
「ざっくりしてますね!」
「内部の人間だ」
「もっと怖くなりました!」
それはそうだろう。
外へ喧嘩を売るより、内側へ亀裂を入れるほうが効く。
大きい組織は外圧には強い。
だが内側からきしみ出すと、急に変な音を立てる。
ロイドは一通目を書き終えた。
砂を振る。
乾かす。
折る。
封筒へ入れる。
宛名はすでに決めてある。
迷いはない。
迷う段階は、手紙を書く前に終わっている。
「三人だ」
「三人?」
「出す相手だ」
リリカが目をぱちぱちさせる。
「少なくないですか」
「多い」
「そうなんですか?」
「こういうのは数じゃない」
ロイドは二通目の紙を引き寄せる。
「効く場所に効けば、それで十分だ」
「うわあ」
「感想が軽いな」
「だって言ってることは重いのに、ロイドさんの顔がいつも通りすぎるんですもん!」
いつも通り。
たぶん褒め言葉ではない。
だが否定もしにくい。
ロイドは三通目の冒頭を書いた。
一人目には、数字。
二人目には、誇り。
三人目には、見切り。
同じことは書かない。
同じ餌で同じように動く人間ばかりなら、運行管理はもっと楽だ。
だが実際は違う。
人はそれぞれ、違う理由で限界に達する。
その限界の形を見誤ると、どんなに美しい文でも届かない。
だから、相手ごとに書く。
「……内容、見せてもらえたりは」
「しない」
「即答」
「見せる意味がない」
「そこを何とかこう、若手教育の一環として」
「悪い教育になる」
「たしかに!」
リリカはすぐ納得した。
納得が早い。
そして好奇心も残る。
若手として非常に元気でよろしい。
ロイドは三通目を書き終え、ようやく背もたれに体を預けた。
肩が少し重い。
肉体より、頭の使い方が重い種類の疲れだ。
こういう夜は珍しい。
物流の仕事は、たいてい先に地図があり、先に時刻がある。
だが今書いているのは、人の心に差し込む紙だ。
風向きより面倒で、
積載量より不安定で、
補給塔より機嫌が悪い。
「で」
リリカがじりっと身を乗り出した。
「誰なんです」
「何がだ」
「相手です」
「言わない」
「せめてヒントを」
「《ウィングメイル》の中で、いま一番“無理してる三人”だ」
リリカは口をへの字にした。
「それ、ヒントのふりしてだいぶ怖いですね」
「本当のことだからな」
ロイドは封蝋を溶かした。
ぽたり、と赤い蝋が落ちる。
そこへ印を押す。
簡素な印だ。
《スカイコーチ》のものですらない。
ただの無地。
あえてだ。
派手にすると警戒される。
こういう紙は、最初の一秒で「読んでいいか」を決めさせなければならない。
だから、目立たせない。
中身で刺す。
「《ウィングメイル》の人って、そんなに今つらいんですか」
リリカが珍しく少し真面目な声で言った。
ロイドは蝋を冷ましながら答える。
「つらいはずだ」
「見てきたみたいに言いますね」
「見てきた」
「いや、そういう意味じゃなくて」
「三年いた」
それで十分だった。
整備士の癖。
騎竜士の顔。
便が遅れ始めた時の舌打ち。
上司が数字を見ない時の現場の諦め。
どれも知っている。
しかも今の《ウィングメイル》は、ロイドが抜けた穴を埋められていない。
そこへグレゴールの筋力信仰が乗っている。
遅延は増える。
待機は伸びる。
責任だけが下に落ちる。
現場がもつはずがない。
「一人は、たぶんもう限界だ」
ロイドが言う。
「一人は、まだ怒っている」
「もう一人は?」
「見切りが早い」
リリカが感心した顔になる。
「なんかもう、手紙というより診断書ですね」
「失礼だな。ちゃんと礼儀はある」
「そこじゃないです!」
礼儀は大事だ。
とても大事だ。
人を動かす紙で無礼をやると、
相手は正しいかどうかではなく、“腹が立った”で閉じる。
腹を立てた相手は動かない。
あるいは、動いても違う方向へ動く。
それは困る。
だから礼儀は守る。
その上で、逃がさない。
「明日の朝に出す」
ロイドは三通を揃えた。
並べると、妙に薄い。
たった三枚だ。
なのに、それが向こうの組織をきしませるかもしれない。
紙は軽い。
だが人間より軽い分、遠くまで飛ぶ。
「自分で届けるんですか」
「いや。朝一で港の私設便に乗せる」
「直接じゃないんですね」
「直接だと相手が身構える」
「うわ、細かい」
「細かくないと人は動かない」
「その考え方、ほんとに一貫してますね……」
リリカがちょっとだけ遠い目をした。
その時、奥の扉が開いた。
ミラだった。
さすがに仕事着のままではなく、少し楽な服に着替えている。
だが目だけはまだ寝る顔ではない。
「まだ起きてたの」
「若手が勝手に残っている」
ロイドが言うと、
リリカが即座に抗議した。
「勝手じゃないです! 私はその、こう、歴史の現場に立ち会いたくて!」
「言い方だけだいぶ大げさだな」
「でも合ってません!?」
ミラは机の上の封筒を見た。
数を数える。
黙る。
そしてため息をついた。
「本当に三通だけなのね」
「十分だ」
「相手は?」
「言わない」
「私にも?」
「ミラに知られる必要がない」
ミラが少し眉を上げる。
「ずいぶん線を引くのね」
「必要な線だ」
ロイドはまっすぐ答えた。
「知らないほうがいいこともある」
ミラは数秒だけロイドを見た。
その視線には不満もあったが、それ以上に理解があった。
ギルド長は、全部を知るべき時と、知らないふりをしたほうがいい時がある。
小さい組織ほど、その切り分けは難しい。
だがミラは、そこで無理に踏み込まなかった。
いい。
そこは本当にいい。
「一つだけ聞くわ」
「なんだ」
「それで来るの?」
ロイドは封筒へ目を落とした。
赤い蝋が冷えて、鈍く光っている。
「来る」
「言い切るのね」
「来るタイミングまで見て出す」
ミラが腕を組む。
「その自信、半分くらいは腹立つわ」
「半分で済んでるなら上出来だ」
「残り半分は?」
「役に立つ自信だ」
ミラは、そこで小さく笑った。
「ほんと、敵に回さなくてよかった」
「拾ったのはそっちだ」
「ええ。正解だった」
その会話を聞いていたリリカが、机に顎を乗せたまま言う。
「私、最初は“酒場で拾ってきた変な人”だと思ってました」
「今は違うのか」
「今は“紙で大手を転ばせる変な人”です」
「ひどくなってるな」
「でも評価は上がってます!」
「基準が怖い」
夜は静かだった。
封筒は朝一で出された。
それから二日。
《スカイコーチ》は表向き、いつも通りに働いた。
いつも通り荷を受け、
いつも通り白板へ線を引き、
いつも通りリリカが木札を一枚落とし、
いつも通りロイドが「拾え」と言った。
何も起きていないように見えた。
だが、起きていない時ほど、人は紙の向こうで何かが起きているのを忘れがちだ。
二日目の昼過ぎ。
港町は晴れていた。
潮風は強いが、空は高い。
飛竜便には悪くない日だ。
本部前では、帰還便の荷下ろしが終わったところだった。
整備士が汗をぬぐい、
荷受け係が控えを書き、
リリカが木箱の上に立って背伸びしていた。
背が足りないらしい。
「そこ危ないぞ」
ロイドが言うと、
「今だけです!」
「今が一番危ない」
「正論!」
その瞬間だった。
通りの向こうから、見慣れた影が三つ現れた。
《ウィングメイル》の外套。
騎竜士用の長靴。
そして、歩き方。
ロイドは一目でわかった。
一人は、第一話で嵐の夜に飛んだベテラン騎竜士。
もう一人は、中距離便の名手。
三人目は、寡黙だが補給塔の癖を全部身体で覚えていた男だ。
つまり。
一番抜けたら困る三人だった。
リリカが木箱の上で固まる。
「え」
ミラも本部から出てくる。
一目見て、顔が変わった。
警戒ではない。
計算だ。
この三人が何を意味するか、一瞬で勘定した顔だ。
通りの空気まで少し変わる。
港町の人間は嗅覚がいい。
大手の制服を着た騎竜士が三人、弱小ギルドの前へ来る。
それだけで十分な見世物だ。
先頭のベテラン騎竜士が立ち止まる。
以前と同じように、少しだけ口の端を上げた。
「遅かったな、ロイド」
ロイドは答える。
「手紙を出すタイミングは、グレゴールが一番苛立つ日に合わせました」
その言葉に、三人のうち二人がわずかに目を見開く。
ベテラン騎竜士だけが、低く笑った。
「やっぱりお前だな」
「遅くはありません」
ロイドがそう言うと、ベテランは肩をすくめた。
「違いねえ」
リリカが木箱の上から小声で言う。
「来た……本当に来た……」
「降りろ」
「今その余裕あります!?」
「その体勢で落ちると話が締まらない」
「そこ心配するんですか!?」
ミラが一歩前へ出た。
「ここへ何の用?」
先頭のベテランが答える。
「独立を申し出た」
「《ウィングメイル》に?」
「ああ」
「それで?」
「追い出された」
あっさりした言い方だった。
だが、そのあっさりの裏側は重い。
大手を出るというのは、ただの転職ではない。
看板も、信用も、生活も、飛竜の割り当ても失う。
それでも来た。
つまり、向こうに残るよりこっちのほうがマシだと踏んだのだ。
ロイドは三人を見た。
顔色。
靴の汚れ。
目の下の影。
誰も余裕はない。
だが後悔もしていない顔だった。
いい。
その顔なら使える。
ミラはまだ腕を組んだまま言う。
「三人も引き抜いて、《ウィングメイル》は生き残れるの?」
ロイドが答える。
「いえ」
それだけで、場が少し冷えた。
ロイドは続ける。
「これは最後通牒じゃない。最初の傷です」
リリカが「うわあ」と呟く。
今日の感想はそれしかないらしい。
だがその“うわあ”は正しい。
向こうはまだ倒れていない。
ただ、もうきしみ始めている。
大きい組織ほど、最初の傷が効くまで時間がかかる。
だが効き始めたら早い。
ベテラン騎竜士が本部を見上げた。
古い看板。
狭い空き地。
頼りない白板。
そして二頭しかいない竜舎。
その全部を見てから、口を開く。
「相変わらず、ひでえ本部だな」
ミラのこめかみがぴくっとした。
「言ってくれるじゃない」
「事実だろ」
「そうだけど!」
「でも、前より空気はいい」
その一言に、ミラは少し黙った。
リリカは木箱の上でどや顔になった。
たぶん自分のことも褒められたと思っている。
半分くらい合っているかもしれない。
ロイドは三人分の装備を目でざっと見た。
足りないものもある。
だが飛べる。
何より、数が増える。
二頭では描けなかった線が描ける。
三人が加わるだけで、《スカイコーチ》は二頭体制から五頭体制へ跳ね上がる。
その数字の跳ね方に、現場の空気が追いついていない。
リリカなんか、完全に顔が追いついていなかった。
「ご、ご、ご、五頭?」
「そうだ」
「急に大手のフリできる数になってきましたね!?」
「フリじゃない」
「そこが怖い!」
ミラが息を吐く。
ゆっくり。
だが目は鋭くなっていた。
経営者の目だ。
計算している。
飛竜数。
便数。
餌代。
整備負担。
回る線。
借金返済の見込み。
希望を希望で終わらせない顔だった。
いい。
とてもいい。
その時、通りの向こうから蹄の音がした。
一頭の早馬だ。
速い。
しかも本部前で迷わず止まる。
乗ってきた使いの者は、紋付きの外套を着ていた。
港町の商人ではない。
役所でもない。
もっと整った、乾いた匂いのする服だ。
場の空気が、さっと変わる。
ベテラン騎竜士たちも、それに気づいて少し横へ引いた。
使いの者は鞍から降りると、周囲を一瞥し、まっすぐロイドを見た。
「ロイド・ハーヴェイ殿」
名指しだった。
本部前が静まり返る。
ミラが眉をひそめる。
リリカは今度こそ木箱から降りた。
さすがに空気を読んだらしい。
使いの者は封書を差し出す。
封には、見慣れないが上等な印があった。
王都式の蝋印。
ロイドは一目見て、差出人を察する。
察した瞬間だけ、ほんの少し指先が止まった。
わずかだ。
だがミラは見た。
リリカも、たぶん見た。
いつも冷えている男の表情に、初めて薄い揺れが走った。
「王家配送担当、ヴァレン卿より」
使いの者が言う。
「面会の申し入れです」
本部前の空気が、完全に止まった。
リリカが口を開く。
閉じる。
また開く。
結局、声にならない。
ミラが先に言葉を見つけた。
「……王家?」
「はい」
使いの者は簡潔に頷く。
「至急」
ロイドは封書を受け取った。
軽い。
なのに、さっきまでの三通の手紙よりずっと重く感じた。
おかしい。
紙の重さは同じはずなのに。
封の冷たさが妙に指へ残る。
「早いな」
ロイドは、ほとんど独り言みたいに言った。
ミラがそれを拾う。
「早い?」
「計画より二週間早い」
そこではっきり、場がざわついた。
三人のベテランも顔を見合わせる。
ミラの眉間が寄る。
リリカは完全に「いいことのはずなのに、たぶん今いい顔しちゃいけない場面だ」と悟った顔になっていた。
よく成長している。
「まずいの?」
ミラが低く聞く。
ロイドはすぐには答えなかった。
封書を見ている。
その視線だけで、頭の中が動いているのがわかる。
王家がもう動いた。
予想より早い。
それは好機だ。
同時に、準備不足でもある。
早く来る追い風は、時に帆を裂く。
「……いや」
ロイドはようやく言った。
「悪くはない」
「でも?」
「早すぎる」
リリカが耐えきれずに割って入る。
「どっちですか!」
「両方だ」
「一番困る答え!」
その反応に、少しだけ場が戻る。
張りつめきると、人は動けない。
だからリリカの声は、たぶん今ちょうどよかった。
ロイドは封書を懐へしまう。
それから本部前を見回した。
五頭体制になった《スカイコーチ》。
追放されたベテラン三人。
そして王家からの面会申し入れ。
盤面が、一気に動きすぎていた。
だが動いたものは仕方ない。
止まってはくれない。
なら、こっちも走るだけだ。
ベテラン騎竜士が口を開く。
「どうする」
ロイドは短く答えた。
「王都へ行く」
リリカがすぐさま手を挙げた。
「質問」
「なんだ」
「今の流れだとすごく格好いい感じですけど、ロイドさん、ドラゴン乗れませんよね」
「乗れない」
「どうやって行くんですか」
「馬車だ」
数秒の沈黙。
それから、リリカがものすごく真顔で言った。
「急に地味」
ミラが吹き出した。
整備士も、ベテランも、つられて少し笑う。
本当に少しだけだが、その少しで十分だった。
ロイドは不本意そうに眉を寄せた。
「事実だから仕方ない」
「でも今の“王家から召喚!”の流れで馬車はちょっと!」
「地上の人間だからな」
「最後まで徹底してますね……」
それはそうだ。
空へ出る話ではない。
飛ばす側の話だ。
なら王都へ向かう足が馬車でも、そこは変わらない。
ただ、思っていたよりずっと早く、
大きい舞台がこちらを見てきただけだ。
本部前の風が、少し強く吹いた。
看板が鳴る。
白板の片脚が、また小さく揺れる。
リリカが無言で押さえた。
もう癖になっているらしい。
悪くない。
ロイドはその白板を一度だけ見た。
中央の丸。
放射状の線。
ハブの構想。
まだ実体はない。
なのにもう、王家が気づいた。
早すぎる。
だが、もう遅いとも言える。
ここまで来たら、引き返せない。
ミラが静かに言う。
「ロイド」
「なんだ」
「行ってきなさい」
短い。
だがギルド長の言葉だった。
ロイドは頷く。
その頷きだけは、いつもより少し深かった。




