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第7話 斥候と偽情報



港町の昼下がりは、だいたい油断でできている。


朝の荷捌きが終わり、


昼の飯で少し腹が緩み、


夕方の便まではまだ早い。


商人は財布の紐だけ締めて気を抜くし、


荷役たちは腰を伸ばして空を見るし、


酒場の昼酒組は「まだ真昼だから大丈夫」という意味不明な理屈で二杯目に行く。


つまり、斥候がうろつくにはちょうどいい時間だった。


《スカイコーチ》の本部前でも、ちょうどその種類の時間が流れていた。


整備台では、リリカが片手で工具を回し、片手で干しパンを食べている。


器用だが、行儀は悪い。


「落とすなよ」


ロイドが言うと、


「工具ですか、パンですか」


「両方だ」


「両方守るの難しいんですけど!」


言ったそばから、干しパンの欠片が飛んだ。


飛んで、ちょうど白板の下へ落ちた。


白板の片脚は今日も微妙にぐらついている。


このギルドの象徴みたいな板だ。


不安定だが、まだ立っている。


「白板にパンを食わせるな」


「違います、自然落下です!」


「自然でも不自然でも拾え」


「はいはい……って、あっ」


リリカがしゃがんだ瞬間、整備場の奥から別の整備士が低く言った。


「来たな」


声の調子だけで、ロイドは何が来たか悟った。


視線を上げる。


本部前の通り。


潮風に煽られて、古い看板がぎい、と鳴る。


その下を、見慣れた色の外套が二つ通り過ぎた。


《ウィングメイル》の制服だ。


露骨に隠しているつもりで、まったく隠せていない。


少し離れた屋台の影に立ち、


こちらを見ているふりをせずに、


かなりこちらを見ている。


斥候だった。


リリカも顔を上げる。


しゃがんだ体勢のまま固まった。


「うわ」


「静かにしろ」


「もう言っちゃった後です!」


「そうだな」


ミラが奥から出てきた。


飛行服ではない。


今日は帳簿と商談の顔だ。


その顔のまま通りを見て、すぐに眉を寄せる。


「堂々と来たわね」


「見えるように来てる」


ロイドは答えた。


「見られて困るなら、もっと上手く隠す」


「たしかに腹立つくらい下手ね」


「腹立つくらい下手なのは、腹立たせるのが目的の時もある」


ミラが腕を組む。


「揺さぶり?」


「半分はな。半分は、本当にうちを量りに来た」


少人数ギルドにとって、見られること自体が圧だ。


人は視線で疲れる。


しかも相手が元業界最大手なら、なおさらだ。


整備士の一人が工具を置く音まで、少し硬くなる。


それを感じて、ロイドは白板の前に立った。


場の中心を作る。


視線を散らさない。


それだけで、無駄な緊張は少し減る。


「全員、作業は止めるな」


ロイドが言う。


「見られてる時ほど、手を動かせ」


リリカが白板の横から顔を出す。


「それ、強がりじゃなくてですか」


「強がりでもある。だが効果もある」


「今日はやけに正直ですね」


「相手が斥候だからな。こっちまで嘘ばかりだと面倒になる」


ミラがロイドを見た。


「で。どうするの」


ここで退くのは簡単だ。


扉を閉めて、見なかったことにする。


だがそれでは、この小さな勝利は小さいままで終わる。


向こうが嗅ぎつけてきたなら、嗅がせる餌を選べばいい。


ロイドは白板の端を指で叩いた。


「偽情報を渡す」


リリカがぱちぱち瞬きをした。


「偽情報」


「偽情報だ」


「そのまま言うんですね!?」


「通じやすいからな」


「なんか悪い笑顔してません?」


「してるか?」


「してます。今すごく“紙の上で誰かを泣かせる人”の顔です」


だいたい合っていた。


ロイドは机から新しい伝票束を取る。


本物ではない。


昨日の余り紙に、あえて雑な控え用書式を真似て印だけ押したものだ。


目の良くない遠目の斥候なら十分食いつく。


近くで見れば違和感がある。


だが斥候は、たいてい急いで見る。


急いで見た情報は、急いで持ち帰る。


そこに隙ができる。


「ミラ。見せ札を一便分、作る」


「どの航路?」


「北西」


ミラが片眉を上げた。


「本当は?」


「南回り」


「荷は?」


「見せるのは高単価の軽量品。本当は生活物資の定期便」


リリカが途中から口を開けていた。


たぶん半分しかわかっていない。


だが勢いで聞いている顔だ。


「ええと、つまり」


「向こうに“迎撃する価値がある便”を見せる」


「迎撃」


「別便をぶつけて荷主を奪うか、港の塔を押さえて時間を食わせるか、そのへんだ」


「うわ、商売って怖い」


「商売はだいたい笑顔で殴る」


「名言っぽいのに嫌すぎます!」


整備士の一人が、思わず吹き出した。


さっきまで硬かった空気が、少しだけ緩む。


いい。


斥候に見られている時ほど、身内の呼吸は軽くしておくべきだ。


ロイドは伝票に走り書きを始めた。


北西便。


出発は第三刻。


荷は高級香油箱二、絹包み四。


中継塔は西の丘。


補給有。


わざとらしい。


だが、わざとらしいくらいがいい。


斥候が「これは見られていい情報だな」と思う程度には、自然でなければならない。


難しいのはそこだ。


人を騙す時、露骨すぎる嘘は逆に信用されない。


だから半分だけ本当を混ぜる。


本当に西の丘塔は使うことがあるし、


本当に軽量高単価の荷は儲かる。


ただ、今日は飛ばさない。


それだけだ。


ミラが白板を見ながら言う。


「向こうが食いつかなかったら?」


「その時はその時だ」


「ずいぶんあっさりしてるわね」


「食いつく」


「なんで言い切れるの」


「今の《ウィングメイル》は、焦ってるはずだ」


ロイドはチョークで、小さく線を引く。


「遅延率がもう上がり始めてる」


ミラが視線を向ける。


「わかるの?」


「わかる」


「見てないのに?」


「見なくても出る兆候がある。斥候が来た」


それだけで十分だった。


大手が、わざわざこんな弱小の様子を見にくる。


それは余裕がある組織の動きではない。


普通なら、鼻で笑って終わる。


なのに来た。


ということは、小さな勝利が向こうの神経に触ったのだ。


「一度でも遅れた組織は、次の遅れを恐れる」


ロイドは続ける。


「恐れ始めた組織は、他所の動きに過敏になる」


リリカが小さく手を挙げた。


「質問いいですか」


「いい」


「それって、今の《ウィングメイル》、ちょっとメンタル弱ってるってことですか」


「かなり優しい言い方をするとそうだ」


「優しいんですね、今の」


「最大限にな」


「怖っ」


今日はよく言われる日だ。


本当に。


ロイドはできあがった偽の伝票を、わざと白板の端へ置いた。


風で少し揺れる位置だ。


通りから見える角度でもある。


見ようと思えば見える。


盗ろうと思えば盗れる。


ちょうどいい場所。


ミラがその意図に気づいて、口元を引き結ぶ。


「ずいぶん親切ね」


「向こうが頑張らなくても見つけられるようにしてる」


「嫌な親切だこと」


「親切は受け取る側の問題だ」


「その理屈で生きてる人、だいぶ危ないわよ」


それも否定しない。


リリカが、白板と通りを見比べている。


「これ、ほんとに取りますかね」


「取る」


「なんでそんなに自信が」


「斥候っていうのはな」


ロイドは少しだけ振り返って言った。


「取ってはいけないものほど、取る」


「その言い方だと生き物みたいですね」


「だいたいそうだ」


すると、ちょうどその時だった。


通りの向こう、屋台脇に立っていた《ウィングメイル》の男の一人が、ほんの少しだけ位置を変えた。


自然を装っているが、白板の角度へ入る位置だ。


もう一人は、逆に通りの端へ動く。


見張り役だろう。


下手だ。


かなり下手だ。


リリカでも気づけるくらい下手だ。


リリカは実際に気づいて、口を押さえた。


「ほんとに来た!」


「来ると言った」


「なんでそんなに嬉しそうなんですか!」


「予定通りだからだ」


その間にも、本部の中では本当の便の準備が進んでいる。


南回りの生活物資便。


地味だ。


儲けは薄い。


だが定期便としては極めて重要だ。


地味な便ほど、信用を作る。


大手は派手な荷を好むが、


弱小が生きるには“毎回ちゃんと来る”が一番強い。


ロイドはそちらの荷札も確認する。


乾燥豆袋。


塩。


薬草束。


生活臭のする荷ばかりだ。


いい。


こういう荷が回る街は死なない。


「ミラ、南回り便は予定通り第二刻半。見せ札の北西便より三十分前に出す」


「本当にぶつからない?」


「ぶつからない。向こうは北西に意識を引かれる」


「それで、うちの本命が見えなくなるってことね」


「見えていても、重さが違って見える」


リリカがまた手を挙げる。


「質問」


「多いな」


「だって気になるので! その、向こうが北西の偽便に迎撃便を出したら、何が起きるんです?」


「無駄飛びだ」


「うわ」


「しかも、今の《ウィングメイル》にその無駄は痛い」


「もっとわかりやすく言うと」


ロイドは少し考えてから言った。


「自分で自分の足を踏む」


「わかりやすい!」


「だいたい組織ってそうやって転ぶ」


ミラがそこで、ふっと笑った。


「あなた、敵に回すと本当に面倒ね」


「だから先に拾って正解だ」


「自分で言うのね」


「今さらだろう」


その時、通りの屋台で、わざとらしく果物を見ていた斥候の一人が、店主と言葉を交わしながらこちらへにじり寄った。


果物の選び方が下手すぎる。


その赤い実は今の季節だと渋い。


本当に買う気があるなら選ばない。


リリカがぼそりと言う。


「斥候なのに買い物の演技が下手ですね」


「適材適所じゃないんだろう」


「《ウィングメイル》にもそういうのあるんですね」


「ある」


ロイドは短く答えた。


むしろ大きい組織ほどある。


声の大きい上司は、適材適所よりも“自分が気持ちよく命令できる配置”を好むからだ。


だから運行が歪む。


そして、遅れる。


ロイドは一瞬だけ、元ギルドの運行室を思い出した。


白板。


積み上がる伝票。


あの頃の呼吸。


今はもう、自分の場所ではない。


だが癖は残る。


組織が崩れる音は、遠くからでも聞こえる気がした。


「ロイド」


ミラの声が少し低くなる。


「取った」


見ると、屋台脇の斥候が、いつの間にか本部前へ近づき、白板脇に置いた偽伝票へ指をかけていた。


本当に取った。


ためらいがなかった。


迷う暇もなかったのだろう。


一瞬で懐へ滑り込ませ、何食わぬ顔で通りを去る。


その横顔が、ちょっと誇らしげなのが腹立つ。


拾い食いに成功した野良犬みたいな顔だ。


リリカが感動半分、呆れ半分で囁いた。


「本当に取るんだ……」


「だから言った」


「すごいですねロイドさん」


「斥候がすごいんじゃない。焦ってる組織がすごい速度で馬鹿になる」


「言い方!」


だが、たしかにそうだった。


余裕のない組織は、情報を欲しがる。


欲しがるあまり、咀嚼せず飲み込む。


そして飲み込んだ情報に振り回される。


《ウィングメイル》はいま、その入口に立っている。


ロイドは南回りの本物の伝票を整えた。


こちらは丁寧だ。


雑な嘘より、丁寧な本当のほうが美しい。


ミラがそれを見て、小さく息をつく。


「これで向こうが無駄飛びしてくれれば、うちの生活物資便は静かに通る」


「そうだ」


「荷主も増える」


「そうだ」


「でも」


ミラが少しだけ目を細める。


「汚いわね」


ロイドはそこだけ、素直に頷いた。


「汚い」


リリカが「えっ認めるんですか」と顔に書いている。


ロイドは続けた。


「でも物流は戦争だ。こっちが正直だと、相手は甘える」


その言葉に、場が少し静かになった。


整備士たちも、荷札を持つ手を止めたわけではないが、耳はこっちへ向いている。


小さなギルドはこういう時に、全員が会議室になる。


リリカがぽつりと言う。


「……なんか、やり方はちょっと嫌です」


「そうだろうな」


「でも、やらないと食べていけない感じもします」


「そうだ」


「世知辛いですね」


「商売だからな」


ミラが、そこで小さく笑った。


「あなたたち、変なところで息が合うのね」


「合ってません!」


リリカが即答する。


「合ってる」


ロイドは即答した。


「なんでですか!」


「今の返しが揃った」


「そこ!?」


本部前に、小さな笑いが広がる。


重すぎる話のあとには、少しだけ笑いが必要だ。


でないと人は、自分がどこまで汚くしていいのか考え始めてしまう。


考えすぎると、現場は止まる。


止まるくらいなら、少し笑って動いたほうがいい。


そしてその間にも、南回り便の準備は終わった。


地味な荷。


確実な荷。


生活を支える荷。


ミラは飛行服の襟を直し、鞍へ向かう。


今日は短距離だ。


だが重要度は高い。


こういう便が“普通に届く”ことが、弱小には最初の信用になる。


「ミラ」


「なに」


「向こうが北西へ目を向けてるうちに抜けろ」


「了解」


「帰りは南塔で水だけ。長居するな」


「了解」


「あと」


ロイドは一拍置いて言った。


「向こうが無駄飛びしたって聞いても、笑うな」


ミラの口元がぴくりと動く。


「無理かもしれない」


「努力しろ」


「善処するわ」


「善処は信用しない」


「厳しい!」


リリカが横から口を挟む。


「私、たぶん笑います」


「お前は地上だろ」


「でも絶対笑います」


「じゃあ隠れろ」


「笑うためにですか!?」


「見つかると面倒だ」


「そこだけ妙に具体的!」


飛竜が翼を広げる。


風が起きる。


看板がまた鳴る。


通りの向こうでは、さっきの斥候の片割れが、すでに港の方へ急いでいた。


伝令だ。


速い。


やっぱりかなり焦っている。


ロイドはその背中を見送り、白板の端に残ったパン屑を指で払った。


妙なところだけ日常だ。


だが、こういう日常の中にこそ仕掛けは馴染む。


「出す」


ロイドが言う。


ミラが頷く。


飛竜が地を蹴った。


翼が大きく二度、空を叩く。


南へ。


静かに。


地味に。


だが確実に、本物の便が飛び立っていく。


一方その頃、《ウィングメイル》では。


港を見下ろす塔の上で、斥候が息を切らしていた。


「北西便だ! 《スカイコーチ》が高級便を出す!」


受け取った運行補佐が顔色を変える。


「高級便?」


「香油箱と絹包み! 第三刻発!」


その報告が、いま神経質になっている運行室を走る。


誰かが言う。


「西の丘塔を押さえろ!」


誰かが叫ぶ。


「迎撃便を回せ!」


誰かが怒鳴る。


「今の予定をどこから削る!?」


空気が荒れる。


白板の前の線が消され、引き直される。


補給順が狂う。


待機が生まれる。


誰もが少しずつ不機嫌になる。


そしてその不機嫌は、判断をさらに鈍らせる。


斥候の男は、胸の奥に少しだけ誇らしいものを感じていた。


情報を掴んだのは自分だ。


敵の動きを読んだのは自分だ。


いい働きをした。


そう思っていた。


だから、港の南を静かに抜けていく本当の便には、最後まで気づかなかった。


《スカイコーチ》の本部前では、飛竜の影が小さくなっていくのを見上げながら、リリカがぼそりと言った。


「なんか、向こうの人にちょっと同情します」


「するな」


ロイドは即答する。


「したら次に刺される」


「うわあ、現実的」


「現実だからな」


ミラの飛竜が南の雲へ溶けていく。


その背を見送りながら、ロイドは通りの先へ視線をやった。


もう斥候の姿はない。


いい。


持って帰るものは持って帰った。


それで十分だ。


整備士の一人が、感心したように鼻を鳴らす。


「紙一枚で大手を走らせるか」


「紙一枚じゃない」


ロイドは白板を見た。


「焦りと、見栄と、遅れだ。紙は引き金にすぎない」


リリカがゆっくり瞬きをする。


「その言い方、ちょっとかっこいいです」


「ちょっとか」


「だって怖さもあるので」


「正直でいい」


本部前に、また少し笑いが広がる。


小さい。


だが悪くない笑いだ。


昨日までの「本当にやるの?」ではない。


今日のこれは「やった上で次に何するの?」の笑いだった。


差は大きい。


たぶん想像以上に。


その時、リリカがふと白板を見上げた。


「ロイドさん」


「なんだ」


「次は何するんですか」


ロイドは少しだけ黙った。


白板の上には、いま飛んでいる南回り便の線。


その横に、さっき斥候に盗ませた北西便の偽線。


本物と偽物。


直行と中継。


点と点。


それを見ていると、もう次の形が浮かんでいた。


いまの《スカイコーチ》は二頭だ。


二頭しかない。


だから全部を直で結ぶのは弱い。


少ない翼で多くを回すなら、必要なのは別の考え方だ。


ロイドは白板の中央を、指先でとん、と叩いた。


「次は――」


リリカも、整備士も、ミラの残した部下たちも、みんなこっちを見る。


潮風が一度、本部の看板を鳴らした。


「このギルドに“空港”を作る」


数秒の沈黙。


それから、リリカがゆっくり口を開いた。


「……くうこう?」


「そうだ」


「なんですか、それ」


「次に説明する」


「え、今じゃないんですか!?」


「今は便が飛んでる」


「毎回いいところで止めますね!?」


その文句に、ロイドは少しだけ口元を上げた。


止めるべきところで止めないと、話は続かない。


物流も、物語も、たぶん同じだ。

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