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第5話 潰れかけギルドの会議室


《スカイコーチ》の本部は、思っていたより本部ではなかった。


港町の外れ。


倉庫が並ぶ通りの、そのさらに奥。


潮風に削られた板壁と、たぶん昔は青かった扉。


看板は一応かかっている。


かかってはいるのだが、文字の半分が薄れていて、《スカイ》までしか勢いよく読めない。


《コーチ》のほうは、気合で補完する必要があった。


ロイドは看板を見上げた。


「風に弱そうですね」


隣を歩くミラが即答する。


「看板の話ならその通りよ」


「ギルドの話でもあります」


「知ってるわよ」


即答が早い。


認めるのも早い。


見栄で時間を無駄にしないのは、嫌いじゃない。


ミラは扉を押し開けた。


ぎい、と音が鳴る。


その音だけで、経営状態が少しわかった気がした。


中に入ると、まず狭い。


次に寒い。


そして最後に、妙に整頓されていた。


散らかす余裕がない場所、という感じだ。


置いてある机は少ない。


椅子はもっと少ない。


壁際には積み上げた木箱。


その上に工具。


さらにその上に帳簿。


つまり空間の使い方が、貧しい家の知恵でできている。


ロイドは一歩入って、視線を巡らせた。


人は少ない。


整備台のところに三人。


奥の机に一人。


その一人がこちらを見て、ぎょっとした顔になった。


「ギルド長」


若い娘だった。


整備油で手が黒い。


髪は後ろでひとつに縛っているが、ところどころ飛び出ている。


急いでまとめた髪だ。


仕事をしていた手だ。


「男を拾ってきたんですか」


第一声がそれである。


なかなかいい度胸だ。


ミラが顔をしかめる。


「表現が最悪よ、リリカ」


「え、違うんですか」


「違わないけど言い方!」


ロイドは一瞬だけ目を細めた。


リリ。


前のギルドにいたリリとは別人だが、空気がちょっと似ている。


若手というものは、だいたい声が先に出る生き物らしい。


ミラがこめかみを押さえた。


「紹介するわ。この人、ロイド・ハーヴェイ」


その名を聞いた瞬間、部屋の空気がぴたりと止まった。


整備台の三人も、奥の机の娘も、みんな動きを止める。


いい反応ではない。


有名税というやつだ。


たいてい碌でもない場面で発生する。


ウィングメイルの運行管理責任者」


さらに空気が止まる。


木箱の上にいた猫みたいな色の小鳥まで止まった気がした。


整備台の男の一人が、油で黒くなった指をぴたりと止めたまま呟く。


「……あの?」


「たぶんあの、よ」


ミラが答える。


奥の机の娘――リリカが、じろじろとロイドを見た。


頭の先から靴の先まで。


その後、かなり率直に言った。


「もっと嫌味な感じの人かと思ってました」


「初対面で言うことではないな」


「でも思ったことなので」


「正直で結構だ」


「ロイドさんって言っていいですか」


「まだ採用されていない」


「じゃあ仮ロイドさんで」


「雑だな」


ミラが深くため息をついた。


「この子はリリカ。新人整備士」


「新人って言っても二年目です!」


「うちは二年目でも新人よ」


「それは経営の層が薄いって意味では!?」


「そういう意味よ」


自虐も早い。


このギルド、全体的に会話が前のめりだ。


ロイドは嫌いじゃなかった。


少なくとも、空気が死んでいた《ウィングメイル》よりはずっといい。


生きている職場は、それだけで少しマシだ。


もっとも、生きているだけでは黒字にはならないが。


「会議室に来て」


ミラが短く言った。


「会議室?」


ロイドが聞き返すと、


ミラは入口脇の扉を親指で示した。


「一応あるの」


一応。


嫌な予感しかしない言い回しだった。


扉を開くと、そこは会議室というより、物置に机を押し込んだ部屋だった。


狭い。


窓は小さい。


机は古い。


椅子は四つあるが、そのうち一つは座面が明らかに斜めだ。


壁には大陸地図が貼ってあった。


端がめくれ、四隅を釘で雑に留めている。


だがその一点だけ、妙に使い込まれている感じがあった。


特に中央やや東寄りの地点。


そこだけ紙が少し黒ずみ、何度も指で押さえた跡がある。


ロイドは一目見て、それに気づいた。


ミラも気づかれたことに気づいた顔をした。


だが何も言わない。


今この回で掘る話ではない、と自分に線を引いている顔だった。


それも嫌いじゃない。


役割のない秘密は、今はただ置いておくのが一番だ。


ミラは机の引き出しから帳簿を取り出した。


分厚いが、希望のある厚みではない。


延滞と支払い予定が何度もめくられた、悲しい厚みだ。


「座って」


ロイドは斜めではないほうの椅子を選んだ。


危機管理である。


ミラも向かいに座る。


帳簿を開く手に迷いがない。


見せたくないが、見せる必要があると腹をくくっている手だ。


「先に言っておくけど」


ミラが言う。


「うちは本当に潰れかけてる」


「見ればわかる」


「そう」


「看板も扉も椅子も喋ってました」


「そこまで明確に言語化されるとちょっと傷つくわね」


だが否定はしない。


帳簿が開かれる。


数字が並ぶ。


収入。


支出。


整備費。


餌代。


塔使用料。


遅延違約。


借入。


返済。


その全部が、仲良く首を絞めていた。


ロイドは無言で目を滑らせた。


《ウィングメイル》みたいな巨艦ではない。


小さい。


とても小さい。


だが小さいからこそ、一つの狂いがそのまま致命傷になる。


数字は正直だ。


この帳簿には、明るい嘘が一つもなかった。


ミラが淡々と説明する。


「飛竜は二頭」


少ない。


「整備士三人」


ギリギリだ。


「荷受けと会計を兼任してるのが一人」


危険だ。


「私を入れて、現場に出る人間が合計六。今ここにあなたがいるから、七」


さらに危険だ。


少人数組織は、誰かが風邪を引いた時点で崩れる。


しかも飛竜二頭。


一頭こけたら、その日からもう片肺だ。


ロイドは帳簿の端を指で叩いた。


「借金は」


「来月末が山」


「債権者は」


「三つ。うち一つは餌商。そこを飛ばすと竜が食べるものが消える」


「最悪だな」


「そうよ」


ミラはあっさり頷いた。


「正直に言うけど、うちは来月潰れる」


部屋の空気が、その一言で少し冷えた。


さっきまで潮風の匂いがしていたのに、


今は帳簿の紙とインクの匂いしかしない気がする。


ロイドは数字を追いながら言った。


「知っています」


ミラが一瞬、目を上げる。


「……知ってて来たの?」


「だから来ました」


それを聞いたミラの顔は、半分呆れ、半分警戒だった。


「普通逆じゃない?」


「普通なら、追放された日に酒場で面接は受けません」


「それはそうね」


「逆境のほうが計画の効果が見えやすい」


「言ってることがだいぶ変よ」


「よく言われます」


「誰に」


「主に若手に」


会議室の外で、ちょうどリリカのくしゃみが聞こえた。


妙な間だった。


ミラが、ふっと鼻で笑う。


「あなた、本当にあの《ウィングメイル》のロイドなのね」


「他に誰だと思っていたんです」


「もっとこう、紙の束から生えてきた妖怪みたいな人を想像してた」


「それはもう人ではないな」


「でも、ちょっと近い気もする」


ロイドはそれを流した。


否定しきれない自覚が少しあったからだ。


会議室の外では、整備の金属音が時々響く。


軽い。


二頭しかいないギルドの音だ。


数が少ない職場の音は、妙に耳に残る。


一つ一つが、そのまま生命線だからだろう。


ロイドは帳簿から視線を上げ、壁の地図を見る。


港町。


近隣都市。


補給塔。


既存の大手航路。


そして、使われていない隙間。


線を引ける余地はある。


狭いが、ある。


数字の地獄を見せられてなお、頭の中の盤面は動き始めていた。


ミラがそれを見ていた。


じっとではない。


観察する目だ。


相手が逃げるのか、乗るのか、


それとも沈黙するのかを量る経営者の目だった。


「で」


ミラが帳簿を閉じる。


ぱたん、と乾いた音がする。


「見たでしょ。感想は?」


ロイドは少し考えた。


感想はいくつかある。


危ない。


薄い。


遅い。


守りに入っている。


だが、それを全部並べても意味はない。


今この回で必要なのは、絶望を丁寧に言い換えることではない。


必要なのは、低い地点をきちんと見せることと、その上で一言だけ次へ進ませることだ。


ロイドは椅子から立ち上がった。


狭い会議室で立つと、天井が少し近い。


壁の地図に歩み寄る。


釘で留められた紙の端が、潮で少し反っていた。


指紋の跡が残る一点へ、視線をやる。


そこはまだ言わない。


今はまだ、その秘密も、このギルドの唯一の強みも開けない。


だからロイドは別のことを言った。


「――勝てます」


ミラの表情が止まる。


この部屋に入ってから初めて、本当に止まった。


「……何に」


「全部に」


「主語が大きいわね」


「小さい話をしても意味がない」


ロイドは地図から目を離さず、続ける。


「三ヶ月で」


その三文字が、狭い会議室に落ちた。


外の整備音が遠くなる。


扉の向こうで、たぶんリリカたちも息を止めた。


聞き耳を立てる気配が、下手すぎてよくわかる。


ロイドは振り返った。


ミラはまだこちらを見ている。


疑っている。


当然だ。


警戒もしている。


だが、その奥で、ほんの少しだけ顔が上がっていた。


数字に殴られ続けた人間が、


それでも「まだ何かあるかもしれない」と思ってしまった時の顔だ。


危険な顔でもある。


希望は、経営者にとって麻薬に近い。


「三ヶ月で、立て直すって言うの?」


「いいえ」


ロイドは首を振った。


「それだと弱い」


「じゃあ何をするの」


この問いに、まだ具体策を出してはいけない。


この回の役割はそこではない。


だからロイドは、ちょうど必要なだけ、先の景色だけを見せる。


「三ヶ月後」


そう言って、壁の地図を指で軽く叩いた。


「王家の大口契約を、《ウィングメイル》から剥がします」


沈黙。


見事なくらい、沈黙だった。


会議室の外の物音まで、遠慮したように引いた。


次の瞬間。


扉の向こうから、がたん、と派手な音がした。


誰かが聞き耳の体勢を崩したのだろう。


たぶんリリカだ。


かなり高い確率でリリカだ。


ミラは目を閉じた。


深呼吸を一つ。


二つ。


それから、額を押さえる。


「あなた」


「はい」


「追放されたショックで頭がおかしくなった可能性は?」


「元から少し変です」


「自己分析はできるのね」


「強みです」


「まったく安心できない強みだわ」


だが、ミラの声にはさっきまでの乾いた諦めだけではないものが混じっていた。


怒っていない。


笑ってもいない。


ただ、揺れたのだ。


潰れかけのギルド長が、来月の資金繰りではなく、三ヶ月後の王家契約という単語を想像してしまった。


それだけで、この部屋の空気は少し変わる。


ロイドはそれを見て、机の端に置かれた古いインク壺を見た。


乾きかけている。


補充の余裕も少ないのだろう。


だがまだ使える。


このギルドそのものみたいだと思った。


乾ききってはいない。


まだ、線は引ける。


ミラがゆっくり目を開ける。


「……具体的に、何をするの?」


ロイドは答えなかった。


答える必要があるのは次の回だ。


今この回で必要なのは、地の底を見せたうえで、そこから見上げる高さだけを読者に刻むこと。


だからロイドは、ほんの少しだけ口元を上げた。


それは余裕の笑みではない。


計画が見えた人間の顔だ。


そしてその顔は、債権者に追われる会議室には、あまりにも似合わなかった。


扉の向こうでは、誰かが小声で言った。


「王家って、あの王家?」


別の誰かが答える。


「他にどの王家があるのよ……」


やっぱりリリカだった。


予想通りである。


ミラはゆっくり立ち上がる。


帳簿に手を置いたまま、ロイドを見る。


疑いは消えていない。


だが、さっきまで会議室に沈んでいた“来月潰れる”だけの空気は、もう少しだけ形を変えていた。


不安定な希望。


たぶん今いちばん危険で、いちばん必要なものだ。


ロイドはもう一度、壁の地図へ目を向けた。


まだ線は引かない。


引くのは明日だ。


そのかわり、指先で地図の一点をなぞる。


そこから始まる一手を、頭の中だけで組み上げながら。


三ヶ月で王家契約を剥がす。


無謀だ。


普通なら笑う。


だが、普通のまま来月潰れるくらいなら、無謀のほうがまだましだ。


少なくとも、見る価値はある。


会議室の小さな窓の外で、潮風が鳴った。


板壁がきしむ。


看板も、たぶんまた揺れている。


今にも外れそうな本部。


二頭の飛竜。


整備士三人。


借金まみれの帳簿。


そして、ぎりぎりまで追い詰められた若いギルド長。


低い。


とてつもなく低い地点だ。


だからこそ、ここから登るなら、よく見える。


ロイドは静かに言った。


「第一手は、明日打ちます」


その言葉に、会議室の外でまた小さく何かがぶつかる音がした。


聞き耳を立てるのが下手な職場だ。


実に生きていて、悪くない。

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