国の政策は、すべて、まず佐藤さんで試します
新しいゴミの分別制度は、全国で施行される三か月前に、私の家の台所だけで始まった。
国の政策は、すべて、まず私で試される。
私が、この国でただ一人の「平均的な国民」だからだ。
名字は佐藤。全国でいちばん多い名字だ。下の名前も、私の年代でいちばん多いものがついている。四十二歳、独身、一人暮らし。この国でいちばん多い世帯の形も、今は一人暮らしだ。
平均値、中央値、最頻値。本当は別のものらしいが、統計局はまとめて「標準」と呼んでいる。乱暴な話だと思うが、乱暴さを指摘する欄は、どの書類にもない。
二十年ほど前、全国民の暮らしを数値化した「標準国民指数」が作られた。指数がゼロにいちばん近い人間が、一人だけいた。
それが私だった。
以来、私は統計局標準国民課の嘱託職員である。肩書は「試験国民」。仕事は、新しい政策を誰よりも先に生きることだ。
新しい税の払い方も、新しい年金の納め方も、新しい横断歩道の信号の長さも、まず私に適用される。私は普通に暮らし、月末に報告書を出す。
書くことは、だいたい決まっている。
「特に問題ありません」
実際、問題はないのだ。制度というものは、平均的な国民に合わせて設計される。私は平均そのものである。合わないはずがない。
この仕事の給料は、国民の平均年収と同額だ。よくできている。
◇◇◇
春に、役所の窓口を廃止して、申請をアプリに一本化する試験があった。
私はスマホを平均的に使える。申請は三分で終わった。報告書に「特に問題ありません」と書いた。
制度は全国で施行された。
ひと月後、新聞の投書欄に、画面の小さな字が読めないという八十代の投書が載った。廃止された窓口の前に、行き場のない列ができているという記事も出た。
国の回答は、いつも決まっている。
「試験では問題ありませんでした」
私の「問題ありません」は、嘘ではない。私には本当に問題がなかった。
ただ、その紙が誰かへの返事の盾に使われるとき、私は胃の上を少しだけ押さえる。押さえたことは、報告書には書かない。感想を書く欄が、そもそもない。
平均を保つのは、見た目より手間のかかる仕事だ。
私の身長は、標準より二ミリ高い。意味がないことは分かっている。それでも挨拶のときは、二ミリぶんだけ膝を緩める癖がついた。
ラーメンの替え玉は、国民の年平均で二・三回。二回か三回、という意味ではない。小数点まで含めて、二・三回だ。今年はすでに二回使った。十二月まで、残りは〇・三回分だ。
〇・三回分の替え玉とは、何なのか。答えの出ない問いを抱えたまま、私は麺をすすった。
健康診断の数値は、全項目が基準値のど真ん中に並ぶ。去年、医師が検査表を額に入れたいと言った。断った。目立つことは、平均的ではない。
月例の測定のたび、課長は数値の一覧を眺めて、満足そうに言う。
「今月も、見事に真ん中だね」
「恐縮です」
「君が真ん中にいてくれると、国が助かるよ」
悪い人ではないのだ。ただ、課長の言う「君」が、私のことなのか数字のことなのか、考え始めると胃の上を押さえたくなる。だから考えない。
好きな色を聞かれたら「特にありません」と答える。これは我慢ではない。四十二年間、本当に、特になかったのだ。
◇◇◇
夏の初めに、辞令が来た。
『国民のペット飼育率が五割を超えたため、貴殿に金魚一尾を貸与する。品名、和金一尾。用途、標準的飼育。標準観察期間、六か月。貸与期間、当分の間』
辞令と一緒に、小型水槽一式と、水の入った袋が届いた。袋の中で、赤い金魚が所在なさそうに揺れていた。
なぜ犬や猫ではないのかと課へ尋ねたら、住居の広さと飼育費と鳴き声を標準化した結果、和金一尾になったという。標準化されたペットは、鳴かない。
私は金魚を飼ったことがない。統計上、私は今日からペットのいる側の国民になった。国民は思ったより急に、ペットのいる側になるものらしい。
餌の袋には「一日数回、適量」とだけ書いてあった。
適量。平均の親戚のような言葉だ。身内なのに、何も教えてくれない。
三日目の朝、金魚が浮き気味になった。私は慌てて、大きな水槽のある店を記憶から探した。
一軒だけ、あった。
駅の裏の、朝五時に開く定食屋だ。試験中の「早朝バス路線」に乗るために通りかかって、一度だけ見た。入り口の横に、私の腕でも回らないほどの水槽があり、立派な和金が泳いでいた。
◇◇◇
朝五時の定食屋は、揚げ物と味噌汁の匂いがした。
無口な大将に金魚の写真を見せると、大将は餌の袋を一瞥して、指を二本立てた。二回という意味か、二粒という意味か、判断がつかなかった。
「餌、やりすぎです。それ」
カウンターの隣から、声がした。
作業着の女の人だった。生姜焼き定食に、大盛りのご飯。年は私より少し下くらいに見えた。箸を左手に持っている。
「浮いてるのは、食べすぎのサインですよ。二日ほど絶食。金魚は、ちょっと可哀想なくらいで、ちょうどいいんです」
「……詳しいんですね」
「実家が金魚の養殖場なので」
彼女は事もなげに言った。金魚農家、という職業を、私はその朝まで知らなかった。統計の職業分類では、たぶん「その他」に丸が付く。
星野さん、というのが彼女の名前だった。駅の向こうの製パン工場で夜勤をしていて、仕事明けにここで食べるのが日課だという。
大将が私の前に、湯呑みを置いた。
「食べてくの」
「……では、あちらと同じものを」
「あいよ」
朝五時に生姜焼きを注文する日が来るとは、思っていなかった。人生の予定表は、金魚一尾で簡単に狂う。
「朝五時の生姜焼きは、朝食ですか」
「夕食です。私の一日は、これで終わるので」
朝の五時に夕食を食べる人を、私は統計でしか知らなかった。深夜勤務者、全体の約一割。その一割が、隣で味噌汁をすすっている。
「佐藤さんは、何のお仕事です?」
「平均です」
「はい?」
「平均をやっています」
守秘義務の範囲で説明すると、星野さんは箸を止めて、しばらく笑った。
「大変ですねえ。私、平均やれって言われたら、三日で失格ですよ。夜に働いて、朝にご飯で、左利きで」
「左利きは、関係がありますか」
「ありますよ。世の中のハサミ、ぜんぶ右利き用ですし。駅の改札も、タッチする場所は右側だけ。お玉も、急須も、みんな右の人のかたちです」
言いながら星野さんは、卓の急須へ右手を伸ばし、少し考えて、左手に持ち替えた。注ぎ口が、彼女の側からは逆を向く。それでも器用に、湯呑みへ注いだ。
「誰も意地悪してないんですけどね。多い方に合わせて作ると、そうなるってだけで」
誰も意地悪していない。多い方に合わせて作られているだけ。
私が二十年「問題ありません」と書いてきた世界の作り方を、彼女は定食一つ分の言葉で説明してしまった。
「統計には入っています。ただ……丸められています」
「ああ、四捨五入」
星野さんは、ご飯粒を一つ残らず食べ終えて言った。
「私、切り捨てられる側の〇・四なんですよ。ずっと」
その言い方に、暗さはなかった。事実を言う声だった。
事実にも、人の声があることを、私は初めて知った。私はそれまで、事実というものを、報告書の文字としてしか知らなかった。
その朝の生姜焼き定食は、統計のどこにも載っていない味がした。
◇◇◇
私は定食屋に通うようになった。
金魚は絶食二日で元気になった。報告書には「経過良好」とだけ書いた。朝五時の生姜焼きと、星野さんのことは、書かなかった。
報告しないことがある、というのは、私には新しかった。
起床時刻が、少しずつ早くなった。国民の平均起床時刻より、九十分早い。朝五時の店に間に合う時刻だ。
星野さんは、橙色の古い自転車で通勤していた。ある朝、信号の向こうからその橙色が来るのを見て、私は気づいた。
好きな色を聞かれたら、橙、と答える準備が、私の中にできている。
四十二年で初めての、答えの在庫だった。
「金魚、名前は付けました?」
ある朝、星野さんが聞いた。
「まだです。……平均的な名前が、分からなくて」
「名前に、平均って要ります?」
星野さんは味噌汁の椀を持ったまま、心底ふしぎそうな顔をした。
要らない、と思った。思ってから、自分の四十二年のどこまでが「要らない平均」だったのか、少しだけ怖くなって、私は生姜焼きを口に入れた。
月に一度、統計局で「生活標本測定」がある。起床時刻、歩幅、食事の内容、笑った回数まで測られる。
秋の測定のあと、課長に呼ばれた。
「佐藤くん。君、最近、標準じゃないね」
「はい」
「はい、じゃないよ。起床時刻が九十分ずれてる。それから、先月、君は平均より十四回多く笑ってる」
笑った回数を国家に指摘される国民は、世界でも私くらいだろう。
「君が標準じゃないと、国が困るんだ」
課長は悪い人ではない。課長の仕事は標本の管理で、標本は私しかいない。困るのは本当だろう。私は「気をつけます」と答えた。何に気をつけるのかは、言わなかった。
◇◇◇
冬に、深夜料金を引き上げ、そのぶん昼間を安くする新料金を試験した。
私の生活で試した。私はもう、夜の九時に寝て、朝の四時半に起きる。深夜に電気をほとんど使わない。
問題は、なかった。私には。
星野さんの工場は、電気代の上がった月から夜間の操業を減らす、という掲示を出した。夜勤が減れば、夜勤手当も減る。そして星野さんは、休みの日も夜に起きて暮らす人だ。
この制度は、彼女の給料と光熱費を、両側から削る。
報告書を書く手が、初めて止まった。
胃の上を押さえる代わりに、私はペンを握り直した。
私は生まれて初めて、報告書にこう書いた。
「問題があります。この制度は、夜に働く人の生活費を上げます。夜に働く人は全体の約一割います。一割は、少なくありません」
一週間後、報告書は差し戻された。付箋が一枚付いていた。
『試験国民の職務は標本の提供であり、意見の提出ではありません』
課長は、気の毒そうな顔で言った。
「佐藤くん。標本が意見を持ったら、それはもう標本じゃないんだよ」
「はい」
「数値も戻ってない。次の測定までに、戻す気はあるかね」
「ありません」
自分でも驚くほど、すっと出た。
「初めて、直したくないズレなので」
課長は長いこと黙った。年度末まで、あと三週間だった。
課長は書類を引き寄せ、更新欄の「否」に、ゆっくり丸を付けた。解雇ではなく契約満了という扱いは、課長の精一杯だったと思う。
「あの……貸与品の金魚は」
「…………在庫管理上、そちらで飼ってください」
課長は最後まで、書類から目を上げなかった。
◇◇◇
無職になった最初の週、私はラーメン屋で、今年三回目の替え玉を頼んだ。
国民平均、年に二・三回。残っていた〇・三回分を、まるごと踏み越えた。
麺は、ただの麺の味がした。たいへん、うまかった。
◇◇◇
私の後任は、見つからなかったそうだ。
指数がゼロに近づく人間は、もう現れなかった。当然だと思う。「平均的な国民」という人格は、最初から、数字の上にしかいなかったのだ。私は偶然、そこへいちばん近くに立っていただけだった。
私の最後の報告書が、あのあとどこへ回ったのかは、知らない。
春に、新聞が小さな記事を載せた。
『試験国民制度、一名から千名に拡充へ。「平均」から「幅」へ』
新しい試験国民は、公募で選ばれるという。車椅子の人。左利きの人。夜に働く人。九十歳の人。この国の言葉を勉強中の人。目の見えない人。子育て中の人。
募集要項の隅に、小さな枠があった。
「元・平均だった方 若干名」
世界で一人しか応募資格のない求人を、私は初めて見た。
面接で、志望動機を聞かれた。
「二十年、平均をやっていました。平均に合わせて作られた制度の癖は、体で覚えています。ですから、その制度がどこで誰に当たるかを、たぶん誰より早く見つけられます」
面接官は三人いた。真ん中の一人が、書類をめくって言った。
「前職の退職理由は」
「標本が、意見を持ったからです」
三人は顔を見合わせた。左端の一人が、遠慮がちに手を挙げた。
「失礼ですが、あなたはもう、平均ではありませんね」
「はい。ですが、平均だった頃の癖は抜けていません。ハサミを右手で使い、改札を右手で通り、朝五時の定食の味を知りません……知りませんでした。この国の制度は、だいたい、私の癖と同じかたちをしています」
真ん中の一人が、初めて書類から顔を上げた。
面接室を出るとき、私は膝を緩めずに礼をした。二ミリぶん、高いままで。
採用通知は、一週間後に来た。今度の報告書には、感想を書く欄がある。
◇◇◇
新しい仕事の初日、調査票を渡された。氏名、年齢、職歴。そして趣味の欄。
これまでの私は、この欄に「特になし」と書いてきた。それが正解だったからだ。
今回は、書きたいことがあった。少し考えて、一行だけ書いた。
「朝五時の夕食」
係の人は首をかしげたが、何も言わずに受け取った。何も言われない、ということが、この調査票の正しさだと思った。
金魚には先週、名前を付けた。「はじめ」という。理由は、特にない。
理由がなくていいことが、まだ少しだけ、めずらしい。
「はじめ、ですか」
定食屋で報告すると、星野さんは箸を止めて言った。
「いい名前。平均が、入ってませんね」
「ええ。おかげさまで、書類上の標準観察期間も超えました。餌は、ちょっと可哀想なくらいにしています」
「もう何もかも、超えていくんですねえ」
星野さんが笑い、大将が黙って麦茶を足した。
朝五時の定食屋には、今も通っている。橙色の自転車が先に停まっている日は、生姜焼きを二つ頼む。
先週知ったのだが、私が遅れる日は、星野さんが先に二つ頼んでいるらしい。大将が無言で、指を二本立てて教えてくれた。
夜勤明けの星野さんの「夕食」と、これから出勤する私の「朝食」は、同じ卓に、同じ湯気で並ぶ。
統計上、この食卓は存在しないことになっている。
存在しないにしては、今日も、ずいぶんうまい。
(了)
最後までお読みくださり、ありがとうございました。
仕事をしていると、平均から大きく外れた事情に、しばしば出会います。あまりに多いので、それもまた普通と呼んでいいのかもしれません。でも、と思うのです。誰にでも当てはまる「普通」なんて、実は最初からなかったのだ、と。この話は、そんなところから着想を得ました。
「平均的な使い心地」という言葉を見るたび、それは誰の手の大きさの話だろう、と考えます。
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