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家賃滞納地雷ちゃん  作者: leemero


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12/12

会社で通知は鳴らないでほしい

 神谷優人は、会社ではなるべく目立たないように生きている。


 目立てば仕事が増える。


 仕事が増えれば帰る時間が遅くなる。


 帰る時間が遅くなれば、風呂に入る気力が減る。


 風呂に入る気力が減ると、人間として少しずつ終わっていく。


 だから目立たない。


 ほどほどに働き、ほどほどに謝り、ほどほどに修正し、ほどほどに疲れて帰る。


 それが優人の社会人生存術だった。


 その日も、朝から仕事は普通に忙しかった。


 メール。


 会議。


 資料修正。


 また会議。


 上司からの「ちょっといい?」という、ちょっとでは終わらない魔法の言葉。


 人類はなぜ働くのか。


 その問いを胸に抱えながら、優人はパソコンの前で資料を直していた。


 すると。


 ぶぶっ。


 スマホが震えた。


 机の端に置いたスマホ。


 画面が光る。


 地雷ちゃんからだった。


『今起きた』


 優人は画面を見て、静かに目を閉じた。


 今日は地雷ちゃんの勤務日ではない。


 休みの日だ。


 別に何時に起きてもいい。


 いいのだが。


 なぜそれを会社にいる自分へ報告するのか。


 優人は返信しないことにした。


 仕事中だ。


 反応したら負けである。


 資料の修正に戻る。


 ぶぶっ。


『褒めて』


 褒める要素がない。


 起きただけだ。


 しかも昼前だ。


 優人はスマホを伏せた。


 見なかったことにする。


 ぶぶっ。


『無視?』


 ぶぶっ。


『神谷?』


 ぶぶっ。


『監視員ー』


 優人はスマホを裏返した。


 通知を切ればいい。


 そう思った瞬間、上司が後ろから声をかけてきた。


「神谷くん」


「はい」


 優人は背筋を伸ばす。


 上司は優人のスマホをちらりと見た。


 画面は伏せてある。


 セーフ。


 だが、振動音は聞こえていたかもしれない。


「さっき頼んだ資料、進んでる?」


「はい。今、数字のところを直しています」


「じゃあ十五時までに一回見せて」


「分かりました」


「あと、通知すごいね」


「すみません」


「彼女?」


「違います」


 即答だった。


 かなり強めの即答だった。


 上司は少し驚いたように笑った。


「そんなに否定しなくても」


「違います」


「二回言った」


「違うので」


 優人は軽く頭を下げ、仕事に戻った。


 危ない。


 非常に危ない。


 会社で地雷ちゃんの存在を説明するのは難しすぎる。


 隣の部屋の家賃滞納中の女性が、起きた報告を送ってきています。


 そんな説明をしたら、優人の社会的評価が微妙な方向へ行く。


 優人はスマホを手に取り、短く返信した。


『仕事中です』


 すぐ返事が来た。


『働き者』


『用件は何ですか』


『暇』


『寝てください』


『起きたばっか』


『部屋を片付けてください』


『現実ハラスメント』


 優人は額を押さえた。


 会社のデスクで何をしているのだろう。


 まるで遠隔で生活指導をしているみたいだ。


 隣の席の後輩が、ちらりとこちらを見た。


「神谷さん、大丈夫ですか?」


「大丈夫です」


「すごい顔してました」


「資料の顔です」


「資料の顔?」


「資料が難しい時の顔です」


「そうなんですね」


 後輩は納得したような、していないような顔で作業に戻った。


 優人は深く息を吐く。


 地雷ちゃんのせいで、会社でまで変な顔をすることになるとは思わなかった。


 その頃。


 地雷ちゃんはおんぼろ荘の202号室で、布団にくるまっていた。


 今日は休み。


 昨日は銀行で残高を見た。


 百円ショップで洗濯ネットとメモ帳を買った。


 家賃一ヶ月分までの道を作った。


 かなり頑張った。


 だから今日は少し休んでもいい。


 そう思っていた。


 ただ、暇だった。


 暇というのは危険である。


 地雷ちゃんの場合、暇になると余計なことを考える。


 家賃。


 残高。


 仕事。


 次の勤務。


 部屋の散らかり。


 洗濯物。


 そして、神谷優人。


 あの男は仕事中だろう。


 今もスーツを着て、パソコンに向かって、死んだ魚みたいな顔をしているはずだ。


 そう思うと、少しだけ連絡したくなった。


 褒めてほしい。


 構ってほしい。


 というより、誰かが自分のことを少し気にしていると確認したかった。


 地雷ちゃんはスマホを見つめる。


『仕事中です』


 神谷からの返信。


 そりゃそうだ。


 分かっている。


 でも返ってきた。


 それだけで、少しだけ安心する。


「仕事中なのに返すんだ」


 小さく呟く。


 そして、にやっと笑う。


「やっぱ優しいじゃん」


 本人に言ったら全力で否定するだろう。


 だから言わない。


 地雷ちゃんは布団から這い出た。


 部屋を見渡す。


 服。


 袋。


 空のペットボトル。


 洗濯ネットの袋。


 メモ帳。


 床の上に生活が散らばっている。


 昨日、黒崎に「毎日記録」と言われた。


 神谷にも「部屋を片付けてください」と言われた。


 うるさい。


 現実がうるさい。


 でも、やらないとまた何かをなくす。


 地雷ちゃんはしばらく床を見つめた。


「……五分だけやるか」


 大人にとっては小さな一歩。


 地雷ちゃんにとっては、なかなか大きな決断だった。


 まずペットボトルを拾う。


 袋をまとめる。


 服を一か所に寄せる。


 洗濯するものと、まだ着られるものを分ける。


 途中で「まだ着られる」の基準が怪しくなったが、そこは考えないことにした。


 五分のつもりが、十分になった。


 十分のつもりが、二十分になった。


 部屋は劇的には変わらない。


 だが、床が少し見えた。


「……おお」


 地雷ちゃんは感動した。


 床が見える。


 床とは、部屋に最初から存在していたのだ。


 当たり前なのに、久しぶりに見た気がする。


 地雷ちゃんはスマホを手に取った。


 写真を撮る。


 床が少し見えている写真。


 そして神谷に送った。


『床が出た』


 送信。


 数秒待つ。


 既読はつかない。


「仕事中か」


 地雷ちゃんは少しつまらなそうにスマホを置いた。


 その頃、優人は会議室にいた。


 十五時前の確認会議。


 長い。


 無駄に長い。


 画面には資料。


 上司。


 同僚。


 部長。


 全員が真面目な顔をしている。


 優人も真面目な顔をしていた。


 顔だけは。


 頭の片隅では、地雷ちゃんの通知が気になっている。


 スマホは机の上に置いていない。


 ポケットの中だ。


 だが、たまに微かに震える。


 それが分かる。


 最悪だ。


 会社で一番気にしてはいけない相手を気にしている。


「神谷くん、このページどう?」


 上司が言った。


「はい」


 優人は資料を見る。


「ここの比較は、前月比よりも前年比の方が分かりやすいと思います」


「なるほど。じゃあそこ直そう」


「はい」


 仕事はできている。


 できているはずだ。


 だが、会議が終わった瞬間、優人はポケットからスマホを取り出してしまった。


 地雷ちゃんから写真が来ている。


 床。


 正確には、床が少し見える202号室の写真。


『床が出た』


 優人は会議室の端で固まった。


 床が出た。


 それは普通の人間にとって報告することではない。


 だが、地雷ちゃんにとっては大事件なのだろう。


 優人は思わず笑ってしまった。


 その瞬間。


「神谷くん」


 部長に声をかけられた。


「はい」


「何か面白いことあった?」


「いえ」


「笑ってたよ」


「資料の改善点が見えまして」


「改善点で笑うの?」


「はい」


 無理がある。


 かなり無理がある。


 部長は不思議そうにしながらも、それ以上聞いてこなかった。


 優人は心の中で地雷ちゃんに文句を言った。


 会社で床の写真を送ってくるな。


 優人は席に戻ってから、短く返信する。


『片付けたんですね。偉いです』


 すぐに返事。


『もっと』


『仕事中です』


『床だぞ』


『床ですね』


『床が出たんだぞ』


『大事件ですね』


『分かってるじゃん』


 優人はスマホを閉じた。


 後輩がまた見ていた。


「神谷さん、今日ほんとに大丈夫ですか?」


「大丈夫です」


「なんか、笑ったり困ったりしてます」


「資料です」


「資料って感情あります?」


「あります」


「あるんだ……」


 後輩は少し引いていた。


 まずい。


 このままでは会社で変な人になる。


 いや、もう少しなっているかもしれない。


 優人はスマホをサイレントにし、通知を切った。


 仕事に集中する。


 地雷ちゃんは床を発見した。


 それは良いことだ。


 だが、自分は働かなければならない。


 給料をもらうために。


 家賃を払うために。


 そしてたまに隣人の暴走を止めるために。


 夕方。


 仕事が終わる少し前、優人はスマホを確認した。


 地雷ちゃんから追加で何通か届いている。


『ペットボトル捨てた』


『服分けた』


『メモ帳見つけた』


『飽きた』


『寝る』


『起きた』


『腹減った』


 情報量が多い。


 そして最後だけいつも通りだった。


 優人は返信しようとして、やめた。


 腹減ったに返すと、何かを要求される。


 学習した。


 優人は定時を少し過ぎて会社を出た。


 駅へ向かう途中、会社近くのカフェの前を通った。


 中には仕事帰りらしい人たちがいる。


 優人は少しだけ足を止めた。


 コーヒーでも飲んでから帰ろうか。


 そう思ったのは久しぶりだった。


 家に帰れば、地雷ちゃんがいるかもしれない。


 翔がうるさいかもしれない。


 黒崎が正論を言うかもしれない。


 大家が家賃の話をするかもしれない。


 少しだけ一人の時間がほしい。


 優人はカフェに入り、ホットコーヒーを注文した。


 席に座る。


 周囲は静かだった。


 カップの音。


 小さな話し声。


 パソコンを打つ音。


 おんぼろ荘とは違う静けさ。


 優人は深く息を吐いた。


 スマホを見る。


 地雷ちゃんからまたメッセージ。


『神谷、今日何時帰る?』


 優人は少し迷った。


『少し遅くなります』


 返事。


『残業?』


『休憩です』


『サボり?』


『違います』


『大人もサボるんだ』


『休憩です』


『じゃあ私も休憩』


『あなたは今日ずっと休みです』


『現実ハラスメント』


 優人は思わず笑った。


 カフェの静かな空間で、少しだけ肩の力が抜ける。


 その時、さらにメッセージが来た。


『部屋ちょっと片付いた』


 写真。


 朝よりも少し床が見えている。


 隅にまとめられたペットボトル。


 服の山。


 洗濯ネット。


 完璧とはほど遠い。


 だが、確かに前よりはマシになっていた。


 優人は返信する。


『かなり進みましたね。偉いです』


 少し間が空いた。


 そして返事。


『今日の私、けっこう偉い?』


『偉いです』


『仕事してないのに?』


 優人はその文を見て、少し考えた。


 働いた日だけが偉いわけではない。


 部屋を片付ける。


 生活を整える。


 残高を見る。


 メモを書く。


 そういうことも、地雷ちゃんにとっては必要な仕事のようなものだ。


『仕事してない日でも、生活を直すのは偉いです』


 送信。


 しばらく返事はなかった。


 優人はコーヒーを飲む。


 少し冷めていた。


 数分後、返信が来た。


『神谷ってたまに優しいよな』


 優人は画面を見つめた。


 そして打つ。


『違います』


 すぐ返事。


『出た』


 優人はスマホを伏せた。


 何をやっているのだろう。


 会社帰りのカフェで、隣人の片付け報告に返事をしている。


 それは普通ではない。


 だが、悪くはなかった。


 少なくとも、今日の地雷ちゃんは少しだけ前に進んでいる。


 そして、それを見て少し安心している自分がいる。


 その事実が、また少し厄介だった。


 夜。


 優人がおんぼろ荘に帰ると、珍しく廊下に地雷ちゃんはいなかった。


 202号室のドアが少しだけ開いている。


 中から物音がする。


 ごそごそ。


 ガサガサ。


 まだ片付けているらしい。


 優人は自分の部屋へ向かおうとした。


 すると、ドアの隙間から地雷ちゃんの声がした。


「神谷?」


「はい」


「帰った?」


「帰りました」


「見て」


「何をですか」


「床」


 優人は少し迷った。


 部屋の中を見るのは気が引ける。


 本名もそうだが、地雷ちゃんには見られたくないものがあるかもしれない。


 それに、女性の部屋へ不用意に入るのも良くない。


「廊下からなら」


「じゃあ廊下から」


 地雷ちゃんがドアを開ける。


 優人は中には入らず、廊下から部屋を見た。


 散らかっている。


 普通に散らかっている。


 だが、床は見えていた。


 確かに見えていた。


 ペットボトルは袋にまとめられ、服は一か所に積まれ、メモ帳はテーブルらしきものの上に置かれている。


 大惨事から小惨事くらいにはなっていた。


「かなり片付いてますね」


「だろ」


「偉いです」


「もっと」


「今日は本当に頑張ったと思います」


 地雷ちゃんは嬉しそうに笑った。


 その笑顔は、仕事で褒められた時と少し似ていた。


「でも、まだ途中です」


 優人が言うと、地雷ちゃんはすぐに顔をしかめる。


「すぐ現実」


「大事なので」


「明日やる」


「明日は勤務ですか?」


「午後から」


「なら午前中に少しできますね」


「うわ、予定組まれた」


「自分で組んでください」


 その時、一階から翔の声が響いた。


「地雷ちゃん! 床出たってマジか!」


「声が大きいです」


 優人が反射的に言う。


 階段を上がってきた翔は、なぜか感動した顔をしていた。


「床って出るんだな!」


「翔さんの部屋も似たような感じなんですか」


「俺の部屋は情熱で満ちてる!」


「散らかってるんですね」


「そうとも言う!」


 後ろから黒崎も上がってくる。


 仕事帰りらしい。


 そして、202号室の中を廊下から見た。


「少し片付きましたね」


「黒崎さんも褒めて」


「ペットボトルをまとめたのは良いです」


「やった」


「ただ、服の山は洗濯物とそうでないものを分けてください」


「すぐ課題」


「課題は残っています」


「黒崎さん、先生?」


「違います」


 翔が笑う。


「よし、床出現祝いだ!」


「やりません」


 優人と黒崎が同時に言った。


 地雷ちゃんも少し遅れて言う。


「今日はやらない」


 優人と黒崎が地雷ちゃんを見た。


「え?」


「何その反応」


「いや」


「珍しいと思って」


「私だって疲れてるんだよ」


 地雷ちゃんは部屋を振り返る。


「今日は床出したから、もう寝る」


 それは、とてもまともな判断だった。


 優人は少し驚いた。


 黒崎も少しだけ目を細めた。


 翔は胸を張って言う。


「偉いぞ!」


「ありがと、熱男」


「おう!」


 地雷ちゃんは欠伸をしながら、ドアを閉めようとした。


 その前に、優人を見た。


「神谷」


「何ですか」


「今日、会社で通知うるさかった?」


「かなり」


「ごめん」


 素直な謝罪だった。


 優人は少しだけ意外に思う。


「……次から仕事中は少なめにしてください」


「うん」


「緊急ならいいですけど」


「腹減ったは?」


「緊急ではありません」


「床は?」


「内容によります」


「難しいな」


「普通です」


「普通こわ」


 地雷ちゃんは少し笑って、今度こそドアを閉めた。


 廊下が静かになる。


 翔は「床出現祝いはまた今度だな!」と言って一階へ戻っていった。


 黒崎も自分の部屋へ向かう。


 優人は201号室の前に立ち、スマホを見た。


 地雷ちゃんから最後に一通だけ来ていた。


『今日は通知ごめん。でも褒められてちょっと頑張れた』


 優人はしばらく画面を見つめた。


 そして返信する。


『次から少なめでお願いします。でも、片付けは本当に偉かったです』


 少しして返事。


『明日も床増やす』


 優人は小さく笑った。


 床が増える。


 普通の人なら意味の分からない言葉だ。


 でも、地雷ちゃんにとっては、たぶん前進の言葉だった。


 その夜。


 おんぼろ荘は珍しく静かだった。


 地雷ちゃんは部屋を片付けて寝た。


 翔は一階で何かをしているが、今日は叫んでいない。


 黒崎の部屋からは物音一つしない。


 優人はベッドに入り、目を閉じた。


 アパートの外で働く日。


 銀行で残高を見る日。


 会社で通知に振り回される日。


 そして、部屋で床を取り戻す日。


 地雷ちゃんの日常は、少しずつ広がっている。


 ただ騒がしい隣人ではなく、普通の生活へ戻ろうとしている一人の人間として。


 そう考えたところで、壁の向こうから声がした。


「神谷ー」


 優人は目を閉じたまま固まる。


「寝た?」


 返事をしない。


「ゴミ袋どこに捨てるんだっけ」


 優人は布団をかぶった。


 静かな夜は、やはり長くは続かなかった。

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