なんでだろうね
彼女はシャワーを浴びると言って立ち上がった。浴室のドアが閉まり、水の音が始まる。しばらくはタイルを叩く無機質な音だったけど、不規則な音に変わっていく。窓の外で、まだ雨が降っていた。
僕はキッチンでレトルトのスープを温めた。鍋はコンロの右側、奥の棚にラップと一緒に入っている。封を切るとコンソメの匂いが立った。冷凍してあったごはんを茶碗によそって、テーブルに置いた。鍋の中で泡が小さく弾ける音と、ドア越しに水が肩に当たっている音が混ざっていた。テーブルの端に社員証が裏返しに置いてあった。
シャワーの音が止んで、少し間があって、ドライヤーの音に変わった。
シャワーを終えた彼女は、まだ毛先の湿った髪のままテーブルについた。
「ありがとう」
「雑でごめん」
「いいよ。こういうので」
「いただきます」
彼女はスープをひと口飲んで、「おいしいね」と微笑んだ。
食べ終えて、彼女はマグカップを流しに置いたあと、クローゼットの上の棚に手を伸ばした。Tシャツの裾がまた少し浮いて、スウェットのゴムのあたりが覗いた。明日着るらしいブラウスを出して、ハンガーにかけた。皺を手のひらでのばすと、布のこすれる音がした。椅子の背にかける。
「ちゃんとしてるね」と僕が言うと、彼女は背中を向けたまま笑った。
「ちゃんとしないと、明日の自分が困るから」
「俺、そういうのないかも」
「知ってる。前にそっち行ったとき、床にシャツ三枚落ちてたし」
「それは見なかったことにして」
「無理」
彼女は振り返って、「でも」と言った。
「そういうとこ、ちょっといいよね」
「適当ってこと?」
「適当とはちょっと違う」
彼女はそれ以上言わなかった。
僕もうまく返せなかった。椅子の背にかかったブラウスの白が、部屋の照明の下でやけにきれいだった。
彼女はベッドの端に座って、片足を立ててスマホのアラームをセットしていた。
うなじに、乾ききらない髪が何本か張りついている。
「何」
また彼女が言う。
「いや」
「今日ずっとそれだね」
「見てただけ」
「見られてるのはわかる」
「嫌?」
彼女はスマホを置いて、こちらに体を向けた。並んで座っていると少し下からの角度になる。首を傾げたまま、僕を見た。
「嫌だったら合鍵渡してないよ」
僕は何も言えなくて、先に布団に入った。シーツがひんやりしていた。
「……何してんの」
「急に眠気が」
彼女は少し笑って、僕の肩口の布団を整えた。ベッドから立ち上がり、スマホをベッド横の棚の上に置く。
「そんなに気になるなら、今度ちゃんと見せようか」
「え?」
「カルバン・クライン」
僕はしばらく黙った。
「冗談」
彼女はおかしそうに笑った。
「別に」と僕は言った。「見たいとかじゃないし」
「じゃあ何」
「なんか、似合ってたから」
「だから、下着に似合うって何」
彼女はそう言って笑ったあと、少しだけ声のトーンを落とした。
「好きなんだよね、これ」
そう言って、自分のTシャツの裾をつまんで少し持ち上げた。確かめるように、自分の腰のあたりを見る。黒いバンドが見えた。
「なんでだろうね」
彼女はそれだけ言って、裾を戻した。そのままベッドに入って、布団の中で肩まで潜り込む。
「電気、お願い」
「うん」
部屋を暗くした。
小さく彼女の息が聴こえて、少しだけこちらに背中を寄せてきた。眠いときだけ、そうする。
「おやすみ」
「おやすみ」
布団の中で、彼女の体温がかすかに伝わってくる。
暗い中で目が慣れるまで、僕はしばらく天井のほうを見ていた。枕から、さっきとは違う洗剤の匂いがする。
目を閉じた——。
白い文字の並びが、まだ浮かんでいる。
2026.4.23 エピソード分割して短編から連載へ変更




