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ちょっとならいいけど

その部屋の鍵は、最後に弾けるような感触があった。


六月の終わり、梅雨が長引いていて、夜になっても空気が湿っていた。大学の帰りにそのまま寄って、もらっていた合鍵で先に入った。冷蔵庫の水を飲んで、勝手にエアコンをつけて床に座った。ローテーブルの上にあった文庫本を開いてみたけど、栞が挟まっていたので閉じて、元の場所に戻した。


棚の上に小さな観葉植物があった。葉先まで青い。窓には床までの白いレースのカーテンがかかっていて、目に入るものの一つひとつが整っていた。



七時すぎに鍵の音がした。


「いる?」


「いるよ」


ドアを開けた彼女は、白いシャツの袖を折ったまま、肩からバッグをずり落とした。玄関に揃えられたパンプスは黒いエナメルで、片方の踵に小さな傷がついていた。


「ごめん、ちょっと遅くなった」


「おつかれ」


「ほんとに疲れた」


そう言って笑って、髪をまとめていたゴムを外す。腕を上げた拍子に、シャツの裾が引っ張られて、腰骨のラインが少しだけ覗いた。黒いウエストバンドに白い文字が見える。


Calvin Klein。


「何」


彼女が僕を見る。


「いや」


「今、見たでしょ」


「ちょっと」


「ちょっとならいいけど」


笑いながらそう言って、彼女はキッチンに向かった。僕はそのあとを半歩遅れてついていく。彼女が冷蔵庫を開けると、冷たい空気が足元に降りてきた。


「飲む?」


「明日早いんじゃないの」


彼女は缶を二本持って振り返った。


「一緒に飲むよね?」


「決まってるの?」


「うん」


缶を受け取るとき、彼女の指が少し触れた。缶は冷たくて、指は温かかった。


ソファに座って、適当な動画を流しながらビールを飲んだ。エアコンの風がときどき顔に当たって、彼女の髪をわずかに揺らしている。彼女は会社のことを少し話して、僕はゼミのことを少し話した。お互い半分くらいしか聞いていない感じで、でもそのくらいがちょうどよかった。


一缶飲み終わったころ、彼女が立ち上がってシャツのボタンを外しはじめた。指先がひとつめを外すと、鎖骨の線が見えた。


「え」


「何その反応」


「いや、急に」


「部屋着になるだけ」


「びっくりするから一応言って」


「毎回来るたび言うの?」


彼女はこちらをちらっと見て笑い、寝室のほうへ歩いていった。裸足の足音が、フローリングの上で小さく鳴る。少しして、黒いTシャツとグレーのスウェットで戻ってきた。足音がさっきよりやわらかかった。


「何、そんな見る」


「別に」


「見るならもっと堂々と見れば」


「それはそれで嫌でしょ」


「まあね」


彼女は僕の隣に座って、膝を抱えるようにして足を引き寄せた。僕の膝に少し触れる。その距離に慣れたつもりで、たまにまだ慣れない。


「さっき」と僕は言った。


「ん?」


「カルバン・クライン、履いてた」


彼女は一拍置いてから、ふっと笑った。


「報告ありがとう」


「いや、似合うなと思って」


「下着に似合うとかある?」


「あるでしょ」


「そう?」


彼女は缶の縁に口をつけたまま、少しだけ首を傾げた。


「楽だよ、あれ」


「楽なんだ」


「うん。馴染む」


「へえ」


「何。欲しいの」


「いらないよ」


そう言うと、彼女は声を出して笑った。


「でも気になったんでしょ」


「まあ」


「正直だね」


僕は何も言えなかった。缶の底に残ったビールが少しだけぬるくなっていた。

2026.4.18 第二版として改稿

2026.4.23 エピソード分割して短編から連載へ変更

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