第一章・プチ合宿・その六
「わひゃああああっ⁉」
今日の犠牲者は百華でした。
「ななななんで抱きついてくるんですかっ⁉」
「そりゃ仕掛けのつけ方とか教えるために決まってるだろ。これが一番手っ取り早いんだ」
歩との二人羽織でルアーの準備。。
いつも八尋がやられている教導法です。
大柄な歩ならではの教え方ですが、下手に離れると仕掛けや鈎が引っかかって危ない、という安全上の理由もありました。
「お前ぇ八尋に負けず劣らずちっこいな」
歩が大きすぎるだけです。
「余計なお世話だよっ!」
百華は身長百四十四センチ。
歩は約百七十五センチ。
八尋は百四十センチ(自称)。
長身の歩にかかれば、百五十センチ以下の子はみんな巨乳に埋もれてしまう勘定です。
「ってゆーか胸が乳がおっぱいが首に食い込んでいや首から下がおっぱいに埋まってどんだけあんのこれっ⁉」
「九十二のE」
「マジかよっ!」
「この前ブラジャー新調したんだ」
歩はちょっと苦々しい表情になりました。
どうやらまた大きくなってしまった様子。
「バスロッドで六百号の胴突きオモリぶら下げてるみてぇだ……」
錘の号数は匁単位なので二・二五キログラムに相当します。
「大きい以前に重いんだねっ!」
六百号までくると釣り具メーカーの規格から外れて、極太の鉄筋を流用したものになり、やわなバスロッドで無理に引き上げようとすれば、簡単にへし折れてしまいます。
キャスティングはもちろん吊り下げるのも不可能。
つまり歩のブラジャーは、大物を掬い上げるタモ網な訳で……。
「生々しいよ!」
男子がいるのにプロポーションの話はやめて欲しいです。
八尋は歩や百華と底物組に参加していました。
選んだ理由は単純で、青物組が狙っているアジやヒラマサは、スーパーでも買える魚で物足りない気分だったからです。
どうせなら魚屋でも売っていない魚を釣りたい食べたい眺めたい。
できれば図鑑で見たオニカサゴを釣ってみたい。
カサゴといえば怪獣のモデルにもなったゴツい魚ですが、オニカサゴは、どちらかというとオコゼに近く、全身のトゲに猛毒を持っています。
船釣りで有名なオニカサゴは大抵イズカサゴで、こちらは信仰毒(限りなく気のせいな毒)を持ち、【鬼カサゴ】と書き分ける船宿や、【本鬼】を名乗ったりする船宿があったりなかったりと混乱中。
もちろん八尋が釣りたいのは本物のオニカサゴ。
毒魚なんてショウサイフグしか釣った事がないのに、いきなりハイレベルなトゲトゲだらけの魚を狙うのが厨二病というものです。
八尋に中二はまだ早い気がしますが、それはいわないであげてください。
「女子トークは夜にやってよ!」
堪らず駆け出す八尋。
「おっと逃がさねぇ」
襟首をムンズと掴まれてしまいました。
こうなると小柄で非力な八尋は脱出できません。
「せっかくだから見て行けよ。ワームのつけ方教えてやるから」
「また抱きつくつもりでしょ⁉ ぼくは本で予習してきたから平気だよ!」
八尋は自分のバスロッドを突き出します。
「ほら、電車結びだって練習したんだから!」
電車結びとはリールに巻かれたナイロン糸の先に、重く沈みやすく摩耗に強いフロロカーボン糸を結ぶ方法です。
竿に並んでついている、道糸を通すリング状のガイドに引っかからないように、細くムラなく結びつける必要があり、人によってはライン結び器を使うくらい難しい、ルアー釣りには必須の作業です。
八尋は不器用なので、夏休みに入る前から練習して、昨日ようやくキャスティングに抵抗なく使えるレベルまで上達しました。
使いやすい様に先をチチワ結び(輪投げみたいな結び方)にして、すでにスナップ(小型の接続金具)を取りつけています。
「おおっ、よく頑張ったなぁ。ちょいと見せてみろ」
「うん。ほら、よく見て!」
もちろん罠でした。
「捕まえたぁ!」
「わあっ⁉」
「うわははははははははっ! 両手に花とはこの事だなぁ!」
「騙されたー!」
八尋を騙すのは赤子の手を捻るより簡単です。
「うわっ、いい匂いっ!」
一緒に抱かれている百華が驚きました。
「こいつ姉弟で同じシャンプー使ってるからなぁ」
お子様あるあるでした。
きっとお母さんも同じものを使っています。
――その時、なにかが三人の足元を駆け抜けました。
カサカサカサカサッ!
「わあっゴキブリ⁉」
ビックリして危うく気絶するところでした。
「Gじゃねぇよ。こいつは海岸名物フナムシ様だ」
しかも一匹や二匹ではありません。
よく見ると波打ち際にウジャウジャいます。
「虫なのは一緒だよ!」
「いや虫っつーよりエビだろ」
「確かワラジムシの仲間だよねっ!」
百華は海釣り施設でジャリメやアオイソメを使っているせいか、ウネウネやモジャモジャは平気なようです。
「やっぱり虫じゃないか!」
思わず歩の巨乳に顔を埋める八尋ですが、恐怖でまったく気づいていません。
「八尋もTVで見た事あると思うけど、深海の映像でよく出る変なエビいるだろ?」
「う、うん……深度が何千メートルもあるのに生きてるやつ」
水深一万メートルのマリアナ海溝の底にも棲息するカイコウオオソコエビ。
フクロエビ上目のヨコエビ亜目で、海岸から深海まで生息域の広いグループです。
「そうそう。そいつの仲間だ」
親戚と称するには、ちょっと親等が遠い気がします。
「あとダイオウグソクムシなんかもいるよねっ!」
八尋の頭をクンクン嗅ぎながら、百華が相槌を打ちました。
「でも動きが完全にゴキブリだ……」
チョロチョロカサカサ、しかも集団で這い回っています。
「そうかそうか。じゃあ八尋のルアーはこいつで決まりだな!」
歩がウエストバッグからソフトルアーの入ったビニール袋を取り出しました。
それを八尋は、歩の胸と脇の下の隙間から覗き見ます。
「……それフナムシ型?」
全長四センチ弱で、ゴムの玩具みたいなブニブニした茶色い塊。
なぜかエビのような尻尾がついていて、引っぱるとヒラヒラ動いて魚の目を引く仕掛けになっています。
パッケージには『セクシー』とか書いてありますが……。
「足が余計についてるだけで、ほぼゴキブリじゃん」
むしろ足が多い分だけ気色悪いかもしれません。
「でも八尋って、疑似餌は割と平気だったろ? いつもイソメ風の使ってるし」
本物のアオイソメやジャリメは、いまだに触れません。
「まあ、これなら大丈夫かな? そんなにリアルじゃないし」
「嘗めんなよ。これでも魚にとっては本物に勝るリアルなんだ。いや、リアルに見えるかはお前ぇ次第なんだけどな」
細部を作り込むのではなく、遠目で本物と誤認させ、釣り師の腕で食欲を誘う。
それがルアーというものです。
「魚ってフナムシ食べるかな……?」
「海に落ちたら、ほぼ確実に食われる。だから波打ち際で屯ってんだ」
「なるほどっ! あたしもそれ使いたい!」
魚の前に百華が食いつきました。
「色違いがあるから、そっち使ってくれ。いろいろ試して探りを入れようぜ」
「おっけーっ!」
百華が別の袋を受け取ります。
「仕掛けは……そうだな、直リグで行くか」
現れたるは、ナス型錘の接続部に大きな鈎が直接取りつけられた簡易な仕掛け。
「そうそう根がかりはしねぇと思うが、まぁ念のためだ」
鈎やルアーより先に錘が着底するので、ゴロタ場(石積みの海底)などの障害物に強いのが直リグの利点。
元々は水草の多い河川域のバス釣り用に生まれた仕掛けですが、その威力から海釣りにも用いられるようになったものです。
「そろそろ始めるかぁ。リグつけたらルアーの仕掛け方を教えるぜ」
「うん……わあっ歩さんごめんなさい!」
大きな胸に顔を埋没させていた事に、いまさら気づいた八尋でした。
「なにをいまさら……」
召喚室でお互い全裸を見せ合った仲です手遅れです。
もっとも八尋はその時、女の子になっていましたが……。
「ああっ! いい匂いする頭が離れちゃったよっ!」
百華は残念そうでした。