第一章・プチ合宿・その四
「今回の釣り場はここだぁ!」
大型リュックと二本のロッドケースを背負った歩が指差したのは、堤防から突き出した真っ平な地磯でした。
「もっと険しいところだと思ってた……」
八尋はちょっとだけガッカリしました。
せっかく磯用のスパイクシューズを持ってきたのに、これならサンダルでも行けそうな気がします。
磯はほぼ半円形で、台地のようなテーブルのような形をしていました。
ところどころに潮溜まりがあるだけで、ほとんど起伏がありません。
左側には消波ブロック帯が、右側には丘があって堤防が途切れ、道路は真新しいトンネルに入っています。
「あっちの丘に行った方がいいんじゃない?」
遠目に見てもゴツゴツした地形で、沖磯や小さな岩が海面から顔を出しています。
「陸女の二人はサンダルしか持ってねぇんだ」
堤防、しかも海釣り施設での釣行経験しかないので、そのサンダルさえ未使用の新品でした。
もちろん自腹で買った私物です。
「ぼくもサンダル持ってくるべきだった?」
「いや、八尋と風子にはスパイクと磯に慣れて欲しいんだ。そのうち、もうちょっと険しい地磯に行きてぇからな」
「あの丘に?」
向こうの地磯は、なんだかもの凄く釣れそうなオーラを放っていました。
「あそこは……少なくとも在学中はダメだ。部の規則で禁じられてる」
つまり大人になってから自己責任でやれという事です。
「そんなに危ないの?」
「足を滑らせたら命はねぇと思え」
「転んで岩に頭をぶつけるのも致命的ですが、落水したら服や装備に水が入って、自力では這い上がれないんですよ」
クーラーボックスを二つも乗せたキャリーカートを引いている小夜理が補足説明を入れました。
「うわ確かに怖いわっ!」
真っ平な地磯でも、海面との境界は岩壁のオンパレードで、落ちたら服が水を吸っていなくても登れそうにありません。
「ロープで引き上げるのも難しそうですね」
陸野女子高校の藍子と百華が青くなりました。
ロープは海水を汲むためのビニールバケツについていますが、女子の腕力で、足場の悪い地磯から水で重くなった人間を引き上げるとなると、救助どころか二次災害の危険性すらあります。
「俺たち釣り研が、なんでジャージで釣りをしねぇか、わかるか?」
「そういえば~、いつも制服で釣りするよね~」
風子は首を傾げます。
「俺たちゃ軽快なガキだから、ジャージでの釣行だと、いくらでも無茶ができちまう。でも制服は汚すとあとが面倒だから、放っておいても危険を避けるようになるだろ?」
「あっちの磯は丘の反対側から回らないと行けないんですよ」
丘の上には木々や叢が盛大に生い茂っています。
「絶対汚れるね~」
「ぼくの体力じゃ越えられないよ」
「崖もあるじゃんっ! あんなのイノシシだって通れないよっ!」
部活だからといって、なんでもジャージを着ればいいものではないと知った稲庭姉弟と陸女釣り研の二人組。
「それでも釣り師はいるんですね。あそこに……」
藍子が岩の合間から仕掛けを投げる中年釣り師を発見しました。
「全身汚れきって襟から草生やしてますね」
忍が通る獣道から強引に進入したようです。
「そこまでして釣りがしたいの……?」
あまりの執念に、八尋は開いた口が塞がりません。
「ジャージを着ていたとしても、ああはなりたくありませんね」
小夜理も冷めた目で眺めていました。
「まあ仕方ねぇよ。あそこはタイやヒラマサがウヨウヨいるんだ。俺も中学までは行ってたしな」
「私は行きませんでしたよ」
小学生の頃から歩の異世界釣行に同行している小夜理すら拒む難所でした。
「こっちは比較的安全だけど油断はするな。転んでも落ちても危ねぇのは一緒だからな」
「は~い」「わかった」「気をつけるよっ!」「走るのは厳禁ですね」
八尋と風子はスパイクシューズに、歩と小夜理は磯用の長靴に、藍子と百華はフィッシングサンダルに履き替えます。
「そうそう、これを渡しとかなきゃな」
歩がベルトポーチから磯鶴神社のお守りを出しました。
「そういえば日暮坂さんのおうちは神社でしたね」
「やっぱり釣行安全のお守り?」
「そんなとこだ。あちこち濡れて滑りやすいから注意しろよ」
「ありがたくいただきます」「さんきゅっ!」
「いいのかなあ……?」
歩が陸女の二人に手渡しているのは、どう見ても八尋たちの召喚マーカーに使われているのと同じものです。
つまり次回の魔海釣行から異世界に呼び出される可能性がある訳で……。
「そうだ、地磯に入る前に、一つだけ教えておく事がある」
歩が真顔になりました。
「眩暈がしたら座り込め。たとえ仕掛けに大物がかかっていても、取り込みの真っ最中でもだ。場合によっては竿やタモ網を放り出してもいい」
磯釣りの途中で召喚されたら、ふらついて海に転落するかもしれません。
もちろん、あっちの世界で眠ったまま帰還したら大惨事は確実。
「……たぶん今日あたりだと思うんだよなあ」
どうやら歩は、彼女たちを本気で異世界に連れて行く気のようです。




