5
萌葱は早く走ったつもりだったのに、いつもより自分が遅くなってしまったかのように感じていた。
馴染みの房に駆け込んだが、先ほどまで無駄話をしていたはずの女房たちは、忽然と姿を消していた。奥の御簾を乱暴に巻き上げてみても、やはり人影を見つけることはできなかった。
「なんで誰もおらんのっ?」
そういえば、いつもなら夜中に邸中を歩いて警備をしているはずの舎人すら、ここまで来る間に一人もすれ違わなかった。下人もいない。
月明かりがあるといっても、もちろんあたりを遠く見渡せるほどの光はない。それでもところどころに立てられている燈籠を頼りに、萌葱は庭を歩いてみる。
池のほうから東門に向かってみたが、そこにも人影はなかった。
すぐそばにあるのは……寝殿。
一般的な京の邸と、耀月珠穂宮は作りが違う。邸の中でもっとも荘厳であるはずの寝殿は、主人である赫映が住んでいるわけではないらしい。何かに使われている痕跡もなかった。
それでも名実ともに耀月珠穂宮の中心であることは間違いがなく、萌葱は遠くからしか見たことはなかった。一介の女童が足を踏み入れていい場所ではないし、どうせ蔀戸がしっかりと下ろされていて室内を覗くこともできない。
萌葱が十三年住んでいた小さな邑の小さな家と同じように木で作られているはずなのに、神に近い場所の邸というのはどうして違って見えるのだろう。
急に萌葱は自分がずいぶんと遠いところに来てしまったのだと思った。その急激な変化に、萌葱は恐ろしさすら感じた。
「あらぁ? 下女ふぜいがこのようなところで何をしていらっしゃるのぉ?」
突然の声に驚いて顔を上げると、庭の遠くのほうから手燭を持った幾人かの女房たちが、こちらを見て穏やかな笑みを浮かべていた。その中には、先ほど萌葱に揶揄の言葉をかけてきた者たちもいた。
「……なんや、みんなおるやん」
ほっとしたのもつかの間。
ぞろぞろと、その広い庭に何人もの女房たちが集まってきていた。
その誰もが、萌葱のほうに近づいている。ひどくゆっくりとした音は、上品なはずなのにどこか不愉快で……。
―――何かが、おかしい。
「ど、どうしたん……」
この広大な邸にいったい何人が働いているのか萌葱は知らなかったが、まるでそのすべてがここに集まってきているかのようだった。
「貴女……下女の分際で、寝殿に上がろうとしているなんて……」
「まぁ、なんて許されないこと」
「わたくしたちでさえ、赫映様のお側に侍ることなど、できはしないというのに」
「なっなに言ってんっ? 寝殿になんて赫映様はおらん!」
だが、彼女たちは聞いていないようだった。
「恐れ多いわ」
「ええ……恐れ多い……」
彼女たちはゆっくりとこちらに近づいてくる。萌葱もじりじりとあとずさるしかなかった。
「その上、羽衣媛様までも手に入れようとするなんて」
「まぁ……なんて怖いもの知らずなのでしょう」
―――羽衣媛?
彼女たちが突然そんな話を持ち出したことが、萌葱には不思議だった。
叉嗚邑ではさんざん笑われてきたのだから、萌葱は耀月珠穂宮にいても一度も赫映や倭皇に会いたいなんて言ったことはなかった。ましてやいるかどうかもわからない羽衣媛の話を口に出したこともない。
「卑しい姿で近づくなんて許さない」
女房の一人が手燭を投げつけてきた。
「ちょ……何するんっ!」
何を言われてもかまいはしないが、これはやりすぎだ。対の屋が燃えてしまう。
木造だからどこに身を隠しても同じだ。正気ではないと一瞬で判断した萌葱は、すべてを燃やされないようになるべく広い場所に向かって走った。
本当は水が大量にある池のほうに向かいたいのだが、庭は女房たちがすべて占拠していて近づけそうにはない。
倉の下をすり抜けて立ち上がったところで、誰かとぶつかる。
「―――童、東へ行け」
「え……? あっ」
はっと顔を上げると、おかしな格好をした男が迫り来る女房たちを凝視していた。この格好を萌葱は見たことがある気がしたが、すぐには思い出せなかった。
「……誰やったっけ、こいつ」
舎人には見えない。ましてや下男というにはずいぶん高貴に見えた。
(えっらい綺麗な顔しとる……)
他人の容姿になどまったく頓着しない萌葱ですら、こんな状況で思わず一瞬躊躇うほどの美貌の男。不思議な色合いの双眸がさらにそれを際立たせる。
こういうのを何色というのだったか。女房たちがよく話題にしていた襲ねの色で、何かあった気がする。
「急いで。そちらならまだ穢れがない」
美貌の男の背後からすっと現れたのは、大納言崚王だった。とりあえず知っている顔を見つけてほっとする。彼は狂気に晒されていないようだ。
「―――けんど、台盤所にな……っ!」
「知っています。貴女もけして食べないように」
思いもよらない返答に絶句する萌葱に、崚王は微笑してみせた。
けれどすぐに、真剣な表情に戻り、美貌の男のほうを向く。
「さすがにこの大人数だと、結界も抑えきれない」
「かまわん。壊させろ」
「君ねえ、あとで大変なのは私たちではないんだよ」
萌葱には意味の分からない、二人の会話が小声で続く。おっとりとした話し方からは、この危機感や緊迫感がまるで伝わってこなかった。
萌葱は踵を返して走り出そうとしたが、その足はすぐに止まる。いつのまにかその方向にも、数人の女房たちが集まっているのが見えたのだ。囲まれつつある。
「あぁ……ひどいわ」
「なぜそんな、下々とお話なさるのかしら」
女房たちは口々にそう呟きながら、萌葱たちのいるほうへ近づいてくる。まるで何かに引き寄せられているかのようだった。うつろな双眸は、すでに萌葱など映していないのかもしれない。
「ちっ、ここで来るか」
美貌男は不機嫌そうに萌葱を振り返ったが、ここにいろと短い一言を吐き出しただけだった。
女たちが手燭を捨て、次々と彼らの元に群がってきた。見ると、その爪が異様に長く発達している。
(なにあれ、人間やないの……?)
美貌男はいつのまにか、右手に小太刀を持っていた。
いつ地面を蹴ったのかも、萌葱にはわからない。
鞘に納まったままのそれで、彼女たちを次々と殴って気絶させていた。女たちの歩みはいつものように遅い。あっというまに萌葱が見える範囲にいた女たちは、地面に伏して動かなくなった。
生きては……いるのだろう、きっと。
萌葱はそう、信じておくことにした。呆然と立ち尽くすことしかできず、確認する術はなかったけれど。
だが、それで終わりではなかった。
「伏せて!」
「っ!」
崚王の声とともに美貌男が身を翻して萌葱を突き飛ばしたそのとき、空気を貫く鋭い音が萌葱の頭上でいくつも聞こえたのだ。
萌葱は反射的に頭を低くして軒下に忍び込む。
矢だ。
小太刀で次々と叩き落すものの、間に合わないほどの量だった。暗闇の中から放たれ、人影は見えない。
矢が尽きたかと思ったら、小石のようなものやら木の葉やらが、突風で次々に飛んできた。
「―――木行、火行、土行、金行、水行。静まれ、闇に帰らん!」
崚王の声が高らかに、澱みない水のように流れる。
しんと静まり返ったのは、一瞬。
飛来物は地面に叩きつけられ、あるいは弾き返されて暗闇の中からいくつもの悲鳴を生んでいた。
「何人雇ってるんだこの邸は。無駄じゃないのか」
「……そう言われてもね。私の管轄ではないし」
二人の冷静な声を聞いて、萌葱もやっと軒下から顔だけを覗かせた。
だが、二人は顔を見合わせたのち、一斉に萌葱を見おろした。
「な、なんや?」
「……まだ、何かいるね」
崚王の呟きで、萌葱は美貌男の腕によって軒下から引っ張り出される。
「なにするんっ」
「お前、何を連れている?」
「乱暴はやめなさい。軒下にいたんだから」
崚王が立ち上がる萌葱の背中に片腕を回した。だが、彼が背中に触れることはなく、代わりに身体が急に軽くなったのを感じた。見ると、崚王が黒色の狐の尻尾をつまみあげていた。
「こんなに簡単に狐が憑くとはね」
「空狐じゃないのかそれ」
高位の式神の名を萌葱は知らなかった。なぜこんなところに狐がいるのだろう、とだけ思った。
美貌男はなおも、萌葱を見おろす。いや、萌葱の後ろの軒下を見ていたのだ。
「いい加減に出てきたらどうだ?」
「……あはは……やっぱばれちゃった?」
早々に諦めたのか、ごそごそとわざとらしい音を立てて動く何かが、軒下から這い出てくる。
袍という男性の装束を纏った、若い男。
彼もまた、萌葱から見ても舎人のような身分の低い者には思えなかった。そもそも袍を纏えるということ自体が、官位があるという証だ。
「―――出て行け」
どこか敵意や胡乱を含めた様子に、おもわず萌葱までも緊張してぎくりと肩を震わせていた。
二人は知り合いではないのだと悟る。お互いを隔てるものが距離のほかにも見えた。
「なんでこんなものがいる?」
絶対零度の空気。他人を容易に威圧する声だった。
「あはは、いやあ偶然で」
長めの髪に指を入れながら、浅緋の袍を纏う男は、愛想笑いを浮かべて彼に答えた。
赤の他人同士のようでありながら、世間話のような気楽さも含めた彼の能天気な口調はこの場にそぐわず、緊張が溶けるほどの楽観的な雰囲気はどちらにもなかった。
「蔵人だろう―――誰の命令だ?」
自然と男の声が低くなる。
(―――蔵人っ? なして蔵人が?)
思わず叫びそうになってしまったが、口出しできる状況ではないのは明らかだ。この美貌男が誰なのかはわからないが、大納言と蔵人が対峙している。どちらも萌葱にとっては遠い存在。
「あーあ、やっぱりそこ気づいちゃう? でも今のおれはちゃんと倭皇様のために動いてる。だから伝えに来たんです。倭皇様の邪魔をしないでくださいって」
「たわごとを言うな」
男は一言で切り捨てた。取り付く島もない。
「―――お前らに言われる筋合いはないな。そもそも無理矢理介入してきたのはそっちだろうが」
崚王も口出しする気がないのか、静観しているだけで取り成すことすらしなかった。
だが、萌葱には会話の意図を推測することもできなかった。
「でもかの媛がほかでもない、貴方の手元に今はいる。おれはもう、それで十分だと思ったんだけど、そう思ってないひとがいるから厄介なんでしょう?」
彼はおどけるように肩をすくめる。深刻な話をしているようには見えない口調で、言葉を続けた。
「あの鏡本はもう返したんですよこっそり。それを悪用したのはおれたちじゃない」
美貌男は何も答えない。
奇妙な静寂。
息遣いすら聞こえないほどの。
「―――悪用させようとしたのはそちらでしょう」
そこで初めて、崚王が口を挟んだ。淡々としていたが、それが逆に萌葱には恐ろしかった。
蔵人の男は……まだ少年といってもいい年頃に見えたが、少し瞠目したようだが、やがて肩をすくめて苦笑した。
「だったら、大納言さま御自ら倭皇様の説得やってください。でも、それまでは勅優先ですよね?」
蔵人はすっと片手を差し出す。狐の尻尾を掴んでいた崚王がその手を離すと、まるで空気に溶けるかのようにそれは蔵人の手のひらの中に消えていった。




