第六話 総大将になりました。
羽柴秀吉のいなくなった大阪城は一部で抵抗もありました、徳川家康が入城、
僕の息子を救出しましたが、今度は徳川家康の人質になってしまいました。
大阪城で政務を行うようになった徳川家康。
それに反発する諸大名から、僕が仲裁に入るようにいわれました。
全国の大大名が揃って戦後処理の話し合いになりました。
関東地方の徳川家康
北陸地方の前田利家
越後地方の上杉景虎
中国地方の毛利元就、宇喜多秀家、
四国地方の長宗我部元親
九州地方の島津義弘
滋賀県の小大名、僕 中田玄白は明智光秀と石田三成を連れてきてます。
織田信雄は清洲城を与えられ一国の大名になりました。
話が違うと反乱を起こすも、徳川家康に鎮圧され出家、島流しです。
会議の方ですが領地の配分を巡って、取っ組み合いの喧嘩になりました。
あのー息子を返して欲しいんですけど徳川家康に頼みました。
ダメだそうです。はい無理でした。(よし暗殺しよう)
話し合いは物別れとなり、
それぞれの国に戻り戦の準備を始めます。
皆に天下を取れるーチャンスがきたわけです。
◻◻◻
それから3年の月日が流れた。
僕は西軍の総大将となって関ヶ原の戦場にいた。
勝手に政務を行っている徳川家康がキリスト教を完全に禁止。
迫害を始めたのだ。(バテレン追放令)
九州地方のキリシタン大名の中心メンバーが集まり。
僕が総大将に選ばれました。神がおっしゃったそうです。
僕はキリシタン大名だったの忘れてたよ。
デッカい十字架が運ばれてきました。
負けたら僕はこの十字架に磔にされそう。
勝ったら全国でキリスト教だらけになるな。
東軍の総大将はもちろん徳川家康です。
向こうにつく大名は何人いるのかな。
こちらに味方するふりをして裏切る大名もいるでしょう。
全ては戦況しだい。やることはやった。
お祈りの時間だそうです、アーメン。
敵が突撃してきました。お祈りは後でやろうね・・・
隣にいる弥助はブードゥー教だそうです。
キリスト教に近いけどイエス様あまり出てこないそうです。
僕は中田軍に命令を出した
「カタパルト部隊!前方の敵めがけて一斉に投石!」
戦いはどうなったか、話すと長いので続きは歴史の教科書見てね!
僕の戦国時代 最後まで読んでいただき有難うございました。
終わり
⬜︎⬜︎⬜︎
にしようかと思いましたが、関ヶ原の戦いまでの経緯も
書いてみようかなと思います。
関ヶ原の戦いが起きる3年前。
今日出会う人は今日しか出会えない
新鮮な気持ちで会う。
何の事かというと部下の石田三成君の親友
大谷吉継に茶室にて会うこととなりました。
彼はハンセン病を患っており、顔面を白い布で覆い隠して
います。目は腫れぼったくなって暗い室内では眼光
は見えません。
【ハンセン病】(らい病)
らい菌という細菌による感染症。
感染力は弱く入浴、飲食などでは感染しない。
知覚障害、視覚障害を引き起こし。皮膚粘膜、鼻の粘膜
目を好んでおかす。指が曲がったり顔面神経の運動麻痺を
起こす。
戦国時代、ハンセン病は原因不明の病であり人体に触れるだけで
感染するとおもわれていた。
僕はお茶を立てて大谷吉継に差し出した。
大谷吉継は顔面をミイラののようにぐるぐる布で巻いて
いた。それをクルクルと布を外し始めた。
この表現は適切ではない事を非難承知で言います。
顔面のあらゆるところから膿が吹き出している。
差別的な表現で言えば顔面ゾンビだなと僕は思った。
周りの武将も見たくないものを見てしまった
と目をそらしている。
大谷吉継は指が曲がっており視覚障害も
あるのだろう上手く茶碗を持てないらしく
ブルブル上半身を振るわせていた。
そして顔面の膿もしくは鼻水が鼻の頂点より
ポタリとお茶の中に落ちた。
「・・・・・うごぐがあか」
大谷吉継は涙を流して嗚咽をもらした。
茶室の室内は異様な空気となった。
その茶碗は次のものに渡され、みんな飲む素振りだけをして
次のものに渡して行った。そりゃそうだ膿の入ったお茶を
好んで飲むものなどいない。
そして石田三成のところへ膿入りのお茶が回ってきた。
すると石田三成は一気に飲みほした。
「殿、結構なお手前でございます。」
「そうか、お茶の先生に習ったとおりやってみたんだが上手くできたかな。」
「喉が渇いていますが故、もう一杯いただき等ございます」
それを見た周りの武将は石田三成は鈍感でどうしようもない奴だと
嘲笑ったが大谷吉継は帰りの道中で感謝号泣したという。
僕は石田三成という人物は冷静沈着で
残酷な男という勝手な思い込みから
義を重んじる熱い男なんだと
自分の評価を変えることとなった。
【大谷吉継】おおたによしつぐ
関ヶ原の戦いでは
最初は東軍(徳川家康)に参加しようと進軍していたが
関所で石田三成に説得され、命を捨てる覚悟で西軍に参加した。
徳川家康がしびれをきらし、小早川秀秋の軍勢に鉄砲隊をけしかけ
家康が怒ったとびびって裏切った小早川秀秋の軍勢へ正面から向かい合い
一時は500メートルまで押し返したが、圧倒的に数に勝る
小早川秀秋の軍勢により敗れ去った。
自害した首は地中深く埋められ見つかることはなかった。