外伝【豊臣秀吉の下剋上物語】 下
【観音寺城の陥落に秀吉の影】
永禄11年(1568年)9月12日に、足利義昭を奉じて上洛の途にあった織田信長。その障害となる観音寺城は、六角氏の手によって堅固に守られていた。信長は、この城を落とすことで、京都への道を開く必要があった。
城主は、朝倉氏の縁者であり、信長の進撃を阻む要塞となっていた。信長はこの城を落とすことで、京都への道を開きたいと考えていた。だが、城は堅牢で、情報が乏しかった。そこで、信長はある男に目をつける。
その男の名は、藤吉郎。後の豊臣秀吉である。
藤吉郎は、農民の出でありながら、その才覚と機転で信長の目に留まっていた。信長は彼に一つの任務を与える。
「観音寺城の情報を集めてこい」と。
藤吉郎は、この命に従い、観音寺城へと向かった。彼は、商人に変装し、城下町で耳を傾ける。夜は、城壁の隙間から中を覗き、兵の配置や物資の備蓄を探った。そして、数日後、彼は信長の元へと戻る。
織田信長
「 藤吉郎、お前の情報が正しければ、西の壁から攻め入ることができる。だが、城内への手引きはできるか?」
木下藤吉郎(秀吉)
「信長様、任せてくれだされ。城内に忍び込んで、内部からの手引きをやってのける。水源を断つ計画もばっちりでございます。」
織田信長
「よし、その計画を進めよ。城が落ちれば、お前の功績は大きい。」
藤吉郎は夜陰に乗じて城内へと忍び込む。城壁の隙間を通り抜けた、城内は静寂に包まれていた。兵士たちは疲れて眠り についていたが、藤吉郎は暗闇の中、目を光らせて進んでいった。そして、城内の水源へとたどり着いた。
木下藤吉郎(秀吉)
「(城内の水源を見つけて)こりゃ水源か。ここを断てば、城は俺たちのものになるな。」
藤吉郎は水源の場所を探し、管を切断する。水は滴る音を立てて止まった。城内の混乱を誘う。その隙に、信長の軍は西の壁から攻め入ろうと進軍していた。
秋の夜、観音寺城は静かに佇んでいた。城壁は堅固で、兵士たちは疲れ果てていたが、彼らは忠義に従い、城を守り続けていた。
信長の軍は、西の壁に集結していた。彼らは暗闇に紛れて近づき、城壁をよじ登っていった。足音はほとんど立てず、影の中で進む。藤吉郎(秀吉)の情報により西の壁には隙間があり、そこから城内への侵入が可能だった。織田兵は信長の命令を胸に、城壁をよじ登り、城内へと潜入した。
織田兵たちは武器を手に、暗闇の中で敵を探し回った。城内の混乱は瞬く間に広がり、六角氏の兵たちは次々と驚きと恐怖に包まれ城内で無残に斬殺されていった。
朝になると、観音寺城は織田軍の手に落ちていた。信長は藤吉郎に感謝の言葉をかけ、城の旗を掲げた。この一夜の戦いにより、観音寺城は陥落し、藤吉郎(秀吉)の名はさらに広まった。
阿坂城の落日と秀吉の奥の手1569年の阿坂城の戦いが行われた、織田信長が木下秀吉に命じて行われた攻城戦であった。この戦いは、信長の北伊勢侵攻の一環として行われ、秀吉は阿坂城を攻めることになった。阿坂城は、当時の伊勢国司であった北畠氏にとって重要な拠点だった。
信長は、阿坂城の遠くの輪郭をじっと見つめていた。空は鉛色に重く、大雨が降り続ける。この雨は、ただの天気ではなく、これから起こる戦の予兆のように感じられた。信長の心は、戦の準備でいっぱいだったが、自然の力には逆らえず、大雨が
やむまで攻撃を待つしかなかった。
城の中では、大宮含忍斎が静かに自分の運命を受け入れていた。彼は、信長の野望を知りつつも、自分の土地と人々を守るために、どんな犠牲を払ってもいいと決意していた。
秀吉は、阿坂城の影に立ちながら、雨の音を聞いていた。冷たい雨粒が頬を打つ度に、彼の心は揺れ動いた。信長の命令に従い、阿坂城攻めを進める役目を担っていたが、内心では違う願いがあった。
秀吉は和睦の道を探るべく、大宮含忍斎へ使者を送る。だが、忍斎は使者を拒絶し、戦への覚悟を固めた。このことを知った時、秀吉は複雑な感情に包まれた。彼は戦の悲劇を目の当たりにしてきた。血しぶきが舞い、人々が嘆き悲しむ光景を何度も目撃してきた。だからこそ、できれば和平を望んでいた。
「忍斎、あなたはなぜ戦を選ぶのか?」
秀吉は心の中で問いかけた。彼は忍斎の強い意志を尊重する一方で、その選択がどれほど多くの命を奪うことになるのかを理解していた。和平が成立すれば、少なくとも一部の人々は生き延びることができる。それが彼の願いだった。
使者が忍斎の拒絶を伝えると、秀吉の心は重くなった。彼は、自分の役割として戦を進める一方で、和平への望みを捨てきれなかった。夜が更けるにつれ、彼は神に祈りを捧げた。戦の前夜、木造城の中で、秀吉は静かに手を合わせた。
「どうか、できる限りの血を流さずに済むように…」
彼の祈りは、雨の音と共に消えていった。
次の日は小雨となり、阿坂城の周りには静寂が広がった。信長の命令により、秀吉隊は阿坂城へと進撃を開始した。数で勝る彼らは、城壁に向かって進んでいく。秀吉は、忍斎の意志を尊重しつつ、戦の準備を整えていた。
城壁の上では、大宮含忍斎が立ち、雨に濡れた髪を振り乱していた。彼は、自分の土地と人々を守るために、全力を尽くす決意を胸に秘めていた。忍斎の目は、敵の接近を見つめていた。彼は、戦の熱気を感じていた。この城が、彼の最後の砦であり、人々の命運を左右する場所であることを知っていた。
1569年(永禄12年)8月26日、秀吉隊は阿坂城へと攻め込む。数に勝る彼らは押し気味に進むが、忍斎もまた、城を守るために奮戦する。
秀吉隊と忍斎の兵士たちは、城壁の上で激しくぶつかり合っていた。大宮含忍斎は、城壁の最前線に立っていた。彼の目は、敵の接近を見つめていた。矢が飛び交い、兵士たちは命を賭けて応戦していた。忍斎は、自分の子息である大之丞吉行に目をやった。彼は、父の意志を継ぎ、城を守るために戦っていた。
大之丞吉行は、弓を引き絞り、矢を放った。その一矢は、雨の中を駆け抜け、秀吉の左脇に突き刺さった。秀吉は、痛みに顔を歪め、一瞬の間、立ちすくんだ。その隙をついて、忍斎の兵士たちが猛攻を仕掛けた。秀吉隊は、大宮含忍斎の奮戦によって、一歩も引かずに立ち向かっていたが、大之丞吉行の矢が、戦局を一変させた。
大将である秀吉が射抜かれたことにより、秀吉隊の士気が下がり、ジリジリと後退をし始め大宮隊が逆に優勢になった。
これにより秀吉隊は後方への撤退を余儀なくされた。秀吉にとって、この弓矢による傷は最初で最後の生涯の戦での傷となった。
しかし、秀吉には奥の手が残されていた。戦の前に敵方の遠藤源六郎との密会していたのだ。彼は、源六郎の心の隙間に入り込み、城内の武器・弾薬を水浸しにする計画を巧みに誘導した。源六郎の裏切りにより、城内の兵たちは戦意を喪失した。秀吉は、この瞬間を待っていた。
兵の数で勝る織田軍には多勢に無勢であり、これ以上の戦は無意味と、大宮含忍斎は城内の兵士の身の安全を条件に阿坂城を開城し降伏したのだった。大宮含忍斎と大之丞吉行は城下に落ち延びた。
阿坂城の戦いは、秀吉にとって大きな軍功となり、その後の彼の出世に大きく寄与することになった。また、この戦いは南伊勢の制圧への道を開く重要な勝利であり、信長の伊勢国全域の支配を確立するための一歩となった。阿坂城自体はこの戦いの後、廃城となった。
【比叡山焼き討ちと羽柴秀吉に改名】
1571年、織田信長は天下布武の旗のもと、比叡山延暦寺に向けて進軍した。延暦寺は「寺社勢力」として財力・武力・権力を強め、独立国のような状態にまで力をつけていた。信長はこの勢力に怒りを覚えていた。
信長は比叡山延暦寺へ夜のうちに3万の兵を送り、早朝に総攻撃を始めた。比叡山は古代から神山とされ、仏の罰が下るのではないかと恐れられていた。
信長の重臣は進言した。
「悪い僧は仕方ありませんが、修行を積んだ高僧は見逃したらどうでしょうか」と。
しかし、信長はその進言を無視し、比叡山からは4日間も黒煙が上がり続けた。
比叡山のほとんどが焼かれ、男女関係なく、比叡山にいた3000〜4000人が殺された。僧侶から女や子供まで手にかけた。信長は「第六天魔王」としておそれられた。「第六天魔王」は、仏教において「仏法を阻害する魔王」または「仏教徒の修行を邪魔する悪魔」と呼ばれる存在である。
秀吉はこの光景を目の当たりにし、心を痛めた。彼は信長の側で立ち尽くし、つぶやいた。
木下秀吉
「神も仏もないのか。なんと残酷な仕打ちですな。」
織田信長
「ハゲねずみ(秀吉のあだ名)、これが天下を取るために必要なことだ。お前もそれを理解するべきだ。」
秀吉は信長の野望と冷酷さを理解していたが、自らの道を歩むことを決意した。彼は人々に平和をもたらすために、神仏の存在を感じない世界で自らの力で天下を統一することを誓った。
この出来事は、秀吉にとって重要な教訓となり、「バテレン追放令」キリスト教布教の禁止など後の政策に大きな影響を与えた。比叡山焼き討ちは、秀吉の哲学と信念を形作る出来事となったのである。
1575年、木下秀吉は織田家の重臣としての地位を確立し、新たな名を必要としいた。彼は、織田家の重臣である丹羽長秀と柴田勝家から一字ずつを受け継ぎ、羽柴秀吉と名乗ることになった。この名前の変更は、彼の出世と織田家内での地位向上を象徴する出来事であった。
歴史小説【豊臣秀吉の下剋上物語】 完結




