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エレナがゆっくりと俺の前まで歩いてくる。金色の髪が揺れ、白いドレスの裾が床を撫で、一歩一歩が俺の心臓の鼓動と重なるように響いた。
ただまっすぐに俺の方へ向かってくる。
そして、エレナは俺の目の前で立ち止まった。
俺とエレナ、二人の距離は一メートルもない。手を伸ばせば届く距離。ナイフを振るえば一瞬で彼女の命を奪える距離だった。なのに、俺は動けなかった。身体が言うことを聞かず、ただナイフを握る手が震え続けるだけで、見えない鎖に縛られたかのように身動きが取れなかった。
エレナが、俺を見上げている。
その青い瞳には恐怖がなく、憎しみもなく、ただ優しさだけがあった。殺そうとしている相手に向けるべきではない、温かく包み込むような光が瞳の奥に揺らめいていた。すべてを理解しているかのような、すべてを受け入れているかのような、穏やかな光。
「大丈夫だよ、レイスくん」
エレナが囁くように言った。
声は小さかったが、不思議とはっきりと俺の耳に届いた。遠くで聞こえる悲鳴も、床に倒れたガウェインの呻き声も、すべてが遠のいて、ただエレナの声だけが世界に響いているように感じられた。
「君は、悪くないから」
言葉が、俺の心を貫いた。
悪くない。そんなはずがない。俺は今日だけで六人も殺した。血まみれのナイフを握って、今まさにこの子を殺そうとしている。俺は化物だ、人殺しだ、暗殺者だ。そう叫びたかったのに、声が出なかった。
喉の奥が詰まり、息が苦しくなり、視界が滲んでいく。何かが溢れそうになり、必死に堪えようとしたが止められない。温かいものが頬を伝い落ちていく感触があった。
涙だ。
俺は、泣いていた。
七年間、一度も流さなかった涙が、今、止めどなく流れ出していた。感情を切り離したはずなのに、何も感じないはずなのに、凍りついていたはずの心が、エレナの優しさに触れて融け始めていた。少しずつ、少しずつ、俺の中の冷たい塊が崩れていく。
「ごめん……ごめんなさい……」
俺の口から、言葉が漏れた。
謝罪の言葉が、勝手に溢れ出てくる。誰に謝っているのか分からない。エレナにか、それとも殺した六人にか、あるいは自分自身にか。ただ謝らずにはいられなかった。
「俺は……俺は……」
言葉にならない。俺自身が、何を言いたいのか分からない。ただ、胸の中で渦巻く感情が、言葉になる前に涙となって流れ出していった。七年間押し込めてきたすべてが、堰を切ったように流れ出していた。
「泣いてもいいんだよ」
言葉が、また胸を突く。
「ずっと我慢してたんだよね。一人で頑張ってたんだよね」
そうだ。俺は、ずっと我慢してきた。ヴァルダード家で生きるために、感情を殺し、痛みを無視し、恐怖を飲み込んで、ただ耐え続けてきた。誰にも弱音を吐けず、誰にも助けを求められず、ただ一人で抱え込んで。
「辛かったよね」
エレナの声が、優しく響く。
「怖かったよね」
涙が、さらに流れる。
「痛かったよね」
嗚咽が漏れた。声にならない悲鳴が、喉の奥から漏れ出す。俺は、もう堪えきれなかった。
「この世界に来てから、大変なことばかりだったよね」
心臓が、激しく跳ねた。
まるで雷に打たれたかのような衝撃が全身を駆け抜け、思考が一瞬白く染まった。この世界に来てから?
それは、つまり──。
俺の涙が、一瞬止まった。驚愕が、悲しみを上書きする。
なぜだ。なぜそんなことまで分かるのか。
俺が転生者だということを。前世があり、この世界に来たということを、なぜエレナが知っているのか。
未来を視る力だけでは説明がつかない。転生という概念自体、この世界では一般的ではないはずだ。
だが、エレナは知っていた。俺が別の世界から来たことを、前世があることを、そして――。
「君は、本当は優しい人なんだよ」
エレナが続ける。
「人を殺すなんて、本当は嫌だったんだよね。でも、そうしないと生きていけなかったんだよね」
すべてを見透かされている。
俺の心の奥底、誰にも見せたことのない本音を、エレナは正確に言い当てていた。
「どうして、そんなことまで……」
「視えるの」
エレナは静かに答えた。
「君の心が。君の過去が。君の痛みが」
青い瞳が、優しく俺を見つめる。
「君の心は、今、とても傷ついてる。真っ黒な霧に包まれて、苦しんでる」
エレナの表情が、少しだけ悲しげになった。
「でも、それは君のせいじゃないの。誰かが、君の心に悪いものを植え付けたんだよ」
「悪いもの……?」
俺は呟いた。意味が分からない。悪いものとは何だ。
「取り除いてあげる」
エレナが、小さく微笑んだ。
「頭の中に、悪い虫さんが居るみたいだから」
虫? 頭の中に?
エレナの言葉は比喩のようで、それでいて妙にリアルで、俺の混乱した頭では理解が追いつかなかった。
エレナが、ゆっくりと手を伸ばす。
小さな手が、俺の顔に向かってくる。俺は呆気に取られて、ただ立ち尽くしてエレナの手が近づいてくるのを見ているしかできなかった。
手から神聖な光が漏れ始めた。
白く柔らかい、今まで見たことのない種類の光。温かく優しく、それでいて圧倒的な力を秘めている。魔法の光とも違う、生命の源のような光。
聖属性。これが聖属性の魔力なのか。予知も、回復も、すべてこの力に分類される。だが、今彼女が使おうとしているのは、予知でも回復でもない何か別の力。
小さな手が、俺の頭に触れた。
瞬間、温かさが頭全体に広がった。心地よい熱が頭蓋骨の内側に染み渡っていく。だが、それは物理的な熱ではなく、もっと精神的な、魂に直接触れるような感覚だった。
「……居た」
エレナが、小さく呟いた。そして、彼女は何かを掴んだ。
俺には見えないが、確かにエレナの手に何かが掴まれている感覚があった。それは頭の奥深く、脳の中心部、あるいは魂の核心部に巣食っていた何かで、ずっとそこにあったのに今まで気づかなかった異物。
エレナが、ゆっくりと手を引く。
すると、紫色の霧のようなものが、俺の額から引き出されてきた。それは半透明で、蠢くように動き、まるで生き物のように見えた。
頭がクリアになった。
まるで長年詰まっていた鼻が通ったような、圧倒的な開放感が頭全体に広がった。思考が明瞭になり、感覚が研ぎ澄まされ、世界がより鮮明に見えるようになった。
今まで、ずっと何かに邪魔されていたのか。俺の思考が、感情が、判断が、すべてこの「蟲」によって歪められていたのか。
「痛っ!」
突然、エレナが小さく悲鳴を上げた。
彼女は掴んでいた紫色の蟲を、慌てて手から放す。指を噛まれたのだろうか、エレナの人差し指に小さな赤い痕がついていた。
紫色の霧が、空中に漂う。
それは蠢き、膨張し、形を変えていく。次第に密度を増し、液体のようになり、そして人間の形を取り始めた。ぼんやりとしたシルエットが次第に輪郭をはっきりさせ、顔の造形が現れ、服の形が浮かび上がってくる。
白髪、長い髭、皺の刻まれた顔。
俺は、その人物を知っていた。
「まったく、余計なことをしてくれおって」
低い、不機嫌そうな声が響いた。
そこに現れたのは、何を隠そう、俺の曾祖父、ゼイン・ヴァルダードだった。
S級暗殺者「毒蟲」。齢百五十を超える伝説の暗殺者。一晩で王族十三人を暗殺した男。俺の家族の中でも、最も恐れられている存在。
だが、今の曾祖父の姿は、いつもと少し違っていた。実体があるようで、どこか半透明で、輪郭が微かに揺らいでいる。まるで幽霊か、あるいは魔法で作られた幻影のような、不安定な存在。
曾祖父が、俺の頭の中にいた? あの紫色の蟲が、ゼインだった?
何が起きているのか、全く理解できない。
ゼインは、エレナを見下ろした。
「小娘、余計な真似をしてくれたな」
声には、明確な不快感が込められていた。
「せっかく良い具合に育っておったものを……台無しにしおって」
育てる? 何を?
俺の混乱は深まるばかりだったが、ゼインはエレナを睨みつけたまま続ける。
「ワシの『呪い』を解くとは……貴様、ただの予知能力者ではないな」
呪い。
言葉が、ゆっくりと俺の意識に染み込んでいった。




