鍵の音
「嫌いなわけないです!」
そう叫んで僕は執務室を飛び出した。
けれど、僕が追いつけたのはリーゼロッテじゃなく、閉ざされた扉だった。
さっきまで追いつけそうだった背中が、今は扉一枚ぶん遠い。
僕は扉に手を当てた。
「リーゼロッテ!」
呼びかけると、扉のすぐ向こうで気配が止まった。
「……ごめん、ジャスパーくん。一人にさせて」
その声は、僕にプロポーズした時の明るさが嘘みたいに消えていた。
このまま一人にしたら、リーゼロッテはもっと傷つくかもしれない。
そう思ったから、僕はここを離れなかった。
「扉越しでいい。少しだけ、僕の話を聞いてほしい」
扉の向こうは、しばらく静かだった。
やがて、布の擦れる音がして、小さな声が返ってくる。
「……聞いてる」
その一言に促されるように、僕は言った。
「男装の意味を知らなくて、ごめん」
知らなかったことは仕方ない。けれど、それでリーゼロッテを傷つけていいはずがなかった。あれは、冗談でも思いつきでもなく、本気の告白だったのだから。
それでも、リーゼロッテは僕を責めなかった。
「ジャスパーくん、ウルムの人じゃないもの。知らなくて当然よ」
僕は口を開きかけて、やめた。まだ言いたいことが残っている気がしたから。
「……私こそ、ごめんね。急に……あんなこと言って。困ったよね。驚いたよね。友達、やめたくなっちゃったよね」
「そんなことないよ」
その一言をやわらかく口にして、僕は続けた。
「友達をやめたいなんて、思ってない。困ってもいないし、嫌になったわけでもないよ」
少しの沈黙のあと、ぽつりと声が落ちてきた。
「……でも、ジャスパーくん、私みたいなの、好きじゃないでしょ?」
「どうしてそう思うの?」
「だって、そういう噂、学院で流れてるもん。ジャスパーくん、胸の大きい人が好きなんだって。胸だけを見て、いきなりプロポーズしたって。それに、ピアノ様にも……」
「それは違うよ」
そこだけは、すぐに否定した。
「いきなりプロポーズしたのは本当。でも、あのとき僕の目を奪ったのは、胸じゃなくて胸元のエメラルドだったんだ。だから、あの失敗を『胸が大きい人が好きなんだ』って噂にされるのは違う。ピアノ様とも、好きで話していたわけじゃない。あれも、ウルムに来る道中でフォルテを避けるためだった」
扉の向こうで、鼻をすする音がした。
「……そっか」
僕は息をついた。でも、本当に言いたいのはそこじゃない。
「だから、リーゼロッテを、胸がどうとか、そんなことで見てるわけじゃない」
扉に手を当てたまま、僕は続けた。
「リーゼロッテは、明るいだろ。よく笑うし、表情がころころ変わるし、思い立ったらすぐ行動するし、楽しそうに話しかけてくれる」
こんなふうに口にしてみると、リーゼロッテがどれだけまっすぐな子か、改めてよくわかった。僕にはないものを、リーゼロッテは持っている。
「僕は隠し事ばっかりで、人を避けなきゃいけないから……。そういうリーゼロッテが、すごく眩しい」
「……ほんとに?」
「本当だよ」
少し息を吸ってから、僕は続けた。
「それに、君は僕を助けてくれた。秘密を知っても、脅したりしなかった。あの夜だって、リーゼロッテが僕を見つけてくれなかったら、僕はどうなっていたかわからない。僕にとってリーゼロッテは、憧れであり、命の恩人でもあるんだ」
そんな素敵なリーゼロッテが、僕のせいで落ち込むなんて、僕は自分を許せない。
「だから、私みたいなの、なんて言われると困る。……嫌なんだ」
扉の向こうから、しばらく返事がなかった。
「……そんなふうに言ってくれるの、嬉しいよ。でも——」
ためらうような小さな声が返ってきた。
「それって、好きとは違うよね?」
胸の奥が締め付けられる。たぶん、その通りなんだろう。
「……うん。たぶん、違うんだと思う」
自分で言っていて、情けない。
でも、ここで分かったふりをする方が、リーゼロッテをいっそう傷つけてしまうだろう。
「恋とか、愛とか、そういうのは、まだ僕にはよくわからない」
うまく言えなくても、これだけは確かだった。
「でも、リーゼロッテを失いたくない。今みたいに僕に届かないところへ行ってしまうのも嫌だし、誰かの隣に行ってしまうのも嫌だ」
声が少し掠れた。
「だから、まだ恋とか愛とか、うまく名前はつけられないけど、僕にとってリーゼロッテが特別なのは本当だよ」
「……じゃあ、私、まだ諦めなくていい?」
リーゼロッテの声は小さかったけど、その問いだけはまっすぐだった。
「ジャスパーくんが私を特別だって言ってくれるなら、私、逃げないよ。エカチェリーナ様に取られたくないし、お母さんとの結婚なんて絶対だめ」
その言葉に、胸が熱くなる。
「うん。僕だって嫌だ。フォルテに勝ちたい。リーゼロッテ、僕に力を貸してほしい。その先の未来を、リーゼロッテと一緒に選びたい」
そこまで口にして、ようやくわかった。僕がほしいのは、それだけじゃない。
緊張で喉が乾く。けれど、言わなければ。
「だから、その……僕の婚約者になってくれないかな」
扉の向こうが静まり返った。
返事はないまま、僕の心臓だけがやけに大きく鳴っている。
やがて、かちゃり、と鍵の外れる音がした。
扉がほんの少し開いて、その隙間から目を真っ赤にしたリーゼロッテが顔をのぞかせる。
「……今の、ちゃんと婚約の申し込みなんだよね?」
「うん」
答えると、リーゼロッテは泣き笑いみたいな顔でうなずいた。
「じゃあ、ジャスパーくんの隣にいる」
それから、少しだけ照れたように笑って。
「よろしくね。……私の婚約者さま」




