表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

19/22

庇護の代償

 

 扉が開くより早く、香ばしい匂いがした。


 焼いたパンの匂いに、薄く混じる果実の甘さ。さっきまでいた貴族棟の会議室にはなかった、人の暮らしの匂いだった。


「お母さん、おかえりなさい。お昼ごはんのサンドイッチ出来てるよ〜」


 オニキス商会二階の扉が開いた途端、そんな明るい声が降ってきた。


 振り向いたリーゼロッテは、紫の上着の裾を揺らし、琥珀色の目をぱちりと丸くした。赤みのある髪が肩で跳ねる。


「あれ? ジャスパーくんも一緒なの? いらっしゃ〜い。お昼、一緒に食べる?」


 僕がいる理由を尋ねることもなく、リーゼロッテはそう言って笑っていた。


「いいの? じゃあ……いただこうかな」


「もちろん。立ったままじゃ食べにくいでしょ。二人とも早く座って」


 その気安さに、胸の奥で張りつめていたものが少しだけ緩む。


 エカチェリーナの前では、一言ごとに緊張の連続だった。

 でも、ここでは違う。


 そう思えただけで、僕はようやく息を吐けた。


 リーゼロッテが机の上の皿をてきぱきと並べ直していく。学院では明るい同級生という印象が強いけれど、商会では手慣れた様子で動きに迷いがない。


 (かご)に盛られたサンドイッチは形がきちんと(そろ)い、白い布の上には果実汁の瓶と三つの杯が置かれている。焼いたパンの香り、薄く塩気の立つ肉、果実の甘い匂い。さっきまで頭の中を占めていた契約書の文字が、ようやく少し遠のいた。


 アーデルハイトさんが上着を椅子の背に掛け、静かに腰を下ろす。


「話は食べながらにしましょう。空腹だと、ろくな判断ができないもの」


「それはそうよね」とリーゼロッテが笑った。


 僕も勧められるまま席につく。木の椅子の感触が妙に現実的で、そこでようやく、自分が昼を食べていなかったことを思い出した。


 果実汁の杯を手に取る。ひんやりした感触が指先に心地よくて、身体の力が少しだけ抜けた。


 ひと口目のサンドイッチを飲み込んだところで、リーゼロッテが僕とアーデルハイトさんを交互に見た。


「……それで、どうして二人で帰ってきたの?」


 問いかけは軽い。でも、気にならないはずがないのだろう。


 アーデルハイトさんは口元を(ぬぐ)い、静かに言った。


「良い知らせから話すわ。エカチェリーナ様から、オニキス商会への庇護(ひご)をいただけることになったの」


 リーゼロッテの目が、ぱっと輝いた。


「ほんとに!?」


「ええ。本当に」


 その返事は短いのに、重みがあった。


「これで、仕入れ先に妙な圧をかけられることも、貴族向けの販路が不自然に閉ざされることも、今までよりは減るでしょう」


「よかったぁ……!」


 リーゼロッテが胸に手を当てて、ほっと息をつく。


 僕はその横で、棚にぽつぽつと空いた隙間を見た。商会の中身までわかるわけじゃない。けれど、経営が決して楽ではなかったのだろうことは伝わった。


 リーゼロッテはへにゃっと頬をゆるめ、それから安心したみたいにサンドイッチへ手を伸ばした。


 けれど、アーデルハイトさんはまだ杯を持ち上げなかった。


 机の上に置かれた指先が、わずかに止まっている。


 その小さな違和感に気づいた瞬間、僕はまた息を詰めた。


 庇護という言葉のあとに、何が続くのかを知っているのは、この場では僕とアーデルハイトさんだけだ。


 リーゼロッテも遅れて母の顔を見た。笑みが、少しだけ揺らぐ。


「……お母さん?」


 アーデルハイトさんは短く息をついた。


「ええ。まだ話は終わっていないの。エカチェリーナ様の庇護は、決して善意だけのものじゃないわ」


 リーゼロッテの眉がきゅっと寄る。


「……どういうこと?」


「商会への後ろ盾と引き換えに、わたくし自身にも条件をつけられたの」


 そこで、リーゼロッテの表情から明るさが消える。


「条件って……商会の話じゃないの?」


「ええ。わたくし個人の話よ」


 アーデルハイトさんは一度だけ言葉を切った。


「再婚を前提にした条件があるの」


「……え?」


 リーゼロッテは、すぐにはその先を言葉にできなかった。


「再婚? お母さんが?」


 リーゼロッテは唇をきゅっと結んだ。


「私がいるのに」


 それでも、リーゼロッテは次の質問を絞り出した。


「それで……相手は、誰なの?」


 アーデルハイトさんの視線が、ちらりと僕に触れた。


 その一瞬で、相手の名だけは僕が言わなければならないのだとわかった。


「……僕、です」


 自分の声は、思っていたよりずっと小さかった。


 そして、リーゼロッテは言葉を失っていた。


 このまま黙っていたら、いちばん悪い形で伝わる気がした。乾いた喉で、僕はやっと言葉を継いだ。


「でも、すぐじゃない。フォルテが上級神の加護を得た時だけ、っていう条件つきで――」


 そこで、僕の言葉が止まった。何を足しても、弁解にしかならない気がした。


「それだけじゃないわ」


 アーデルハイトさんが静かに言葉を継ぐ。


「ジャスパーくんがフォルテ様に勝てるよう、必要な宝石を用意する話まで含まれているの」


 リーゼロッテは、母と僕を見比べたまま動かなかった。その顔からさっと血の気が引いていく。


 何か言いたそうなのに、言葉だけが出てこないみたいだった。


「……そんなの、おかしいよ」


 小さな声だった。けれど、部屋の空気を切るには十分だった。


「お母さん、ずっと嫌がってたじゃない。再婚なんてしないって、私がいるから十分だって、そう言ってたじゃない」


 アーデルハイトさんは黙っている。


 その沈黙が、リーゼロッテにはいっそう残酷だったのだろう。


「商会のためだからって、お母さんがそんな条件を受けなきゃいけないなんて、ひどいよ」


 そこで、リーゼロッテの視線が僕を逃がさなかった。


「しかも、ジャスパーくんって……そんなの、ずるい」


 こらえきれなくなったように、リーゼロッテは立ち上がった。


「だって、私、ジャスパーくんのこと……好き、だったのに」


 リーゼロッテは、立ち上がったまましばらく動けなかった。


 それから、はっとしたように顔を背ける。自分が何を言ったのか、遅れて呑み込んだのだろう。


「……もう、やだ」


 強がるように言ったくせに、声は震えていた。


「こんなの、私、知らない」


 次の瞬間、リーゼロッテはほとんど逃げるように扉へ向かった。


「リーゼロッテ」


 アーデルハイトさんが呼ぶ。


 けれど、彼女は振り返らなかった。


「お母さんの、ばか」


 吐き捨てるように言い残して、リーゼロッテは部屋を飛び出した。


 最初に動いたのは、アーデルハイトさんだった。


 深く息をつき、立ち上がる。


「……ジャスパーくん、ごめんなさい」


 僕は何か言おうとしたけれど、その前にアーデルハイトさんが小さく首を振った。


「今は、あの子を放っておけないわ」


 扉へ向かいかけて、ほんの少しだけ振り返る。


「悪いけれど、ここで待っていて」


 僕は頷くしかなかった。


 そして、アーデルハイトさんも扉の向こうへ消えていった。


 扉が閉まったあともしばらく、部屋の空気は沈んだままだった。


 僕はじっと、卓の上の果実汁とサンドイッチを見ていた。ついさっきまで昼食の匂いがしていたのに、今はその記憶さえ遠く感じる。


 ――だって、私、ジャスパーくんのこと……好き、だったのに。


 リーゼロッテの声が、頭の中で何度もよみがえる。


 驚いた。困った。何も言えなかった。


 少しだけ嬉しいと思ってしまったことまで、なかったことにはできない。


 それでも、今はその言葉を喜んで受け取れる立場じゃない。


 僕の秘密と契約は、リーゼロッテまで巻き込んでしまったのだから。




次話:秘密の宝石工房


「工房なら、フォルテ様に見つからずに魔法を使えるよ」


閉ざされた宝石工房には、宝石も、呪文も、勝ち筋も眠っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
好きな男の子が自分の親と結婚するなカオスな状況。 これからの事を考えると家に留まるのが辛く感じるかもと感じられますね。 この心のケアは出来るのか、楽しみにお待ちしてます。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ