第二章②
少女は外に出た。少し伸びをして入口に立てかけてあった箒を手に取って、つまり、この少女も魔女だった、クルクルと回した。音楽隊一行がワゴンに乗り込む乗車場の脇を通って、砂漠を渡る魔女たちが住む、巨大なテント群まで歩いた。近くには金属で組み上がった監視塔があり、上では双眼鏡を首にかけた魔女が居眠りをしていた。
少女はそちらの方を見上げてから、一番巨大なテントの中に入った。テントと言っても扉は木製で、その扉には『HAPPY BIVOUAC』と銀で刻まれていた。
「おっ、じゃましま~す」
テントの中は涼しく、部屋というものがないから開放的だった。天井は傘の骨組みのような構造になっていて外から見るよりも高く感じた。その骨組みに電源が通っているらしく等間隔で球体のライトが光っていた。様々な角度の明かりが影を消すから、外よりも明るく感じる。テントの円周上に箪笥、机、ベッド、箒、綺麗に畳まれたハンモックが置かれていて、テントのスペースのほとんどが柔らかい絨毯だった。魔女たちは絨毯の上に裸足で座っていた。ざっと数えて二十四人。皆、ひらひらのロングスカートと蝶のような胸元の大きなリボンが特徴的な同じ形の衣装を身に纏っていた。色だけがピンク、オレンジ、黄色、水色などと違う。
「靴を脱いで、お上がりなさい」
透き通る声が言った。輪の中心にいる水色の魔女だ。
「は~、はい」言われて少女はブーツを脱いで、脇にあった靴箱に入れる。絨毯の上を進んで魔女たちに近づく。魔女たちは声ひとつ立てずに少女をじっと見ている。全員ぺたっと絨毯の上に座っているから必然的に上目遣いだった。少女は複数のカラスに威嚇されているような気分だった。あまり怖くはないという意味だ。
「あのっ」少女は高い位置から口を開いた。
「ごめんなさい」水色の魔女がそれを遮る。
「え?」少女はどうして謝られたのか理解不能だ。
「もう誰かを雇える余裕はなくて、」水色の魔女は長い髪を掻き上げながら、力の抜けた姿勢で座っている。「ワゴンのイザベラの前では平気な顔をしているけれど、実はワゴンのせいでハッピー・ビバークの内部留保は壊滅寸前なの、だからごめんなさい、わざわざ私を頼ってやって来てくれたことは嬉しい、でも今は、この子たちを食べさせていくことで精一杯なの、でも、でも、どうしても私のところにいたいっていうんだったら、すっごく考えてあげてもいいよ、どうする?」
水色の魔女はなぜか素足を見せるようにスカートの裾を引っ張った。少女はその行為の意味が全く分からなかったが、どうやら水色の魔女は勘違いをしているようだということはなんとなく分かった。
「いいえ、違います」少女は首を振った。
「違う? 違うってどういうこと?」
「私はあなたに雇われたくてここに来たんじゃないっていう意味です」
「よく意味が分からないなぁ」水色の魔女は不機嫌そうに言う。目は微笑んでいるけれど。
少女は少し、言葉が素直過ぎたのかもしれないと反省する。「つまり、仕事を貰いにここに来たというわけではありません、でも、あなたを頼りにここに来ました」
「私はジュリエッタ、」水色の魔女が言った。「あなたは?」
「ミリカ、ミリカ・カミオ」少女ははっきりと言った。
「東洋人?」ジュリエッタはミリカを上から下まで観察して言った。
「日本人です」
「ニッポン?」
ジュリエッタはミリカの国のことは知らないようだ。それは仕方のないことだとミリカは思った。ミリカの国は小さくて、ユナイテッド・キングダムから遥か彼方にある。
「旅人?」
「いいえ、ファーファルタウに私の到着を待っている人がいるんです」
「砂漠を渡りたいの?」
「はい」
「急いでいるの?」
「はい、明日までに」
ミリカの返事を聞くとジュリエッタは困った顔をした。
「ごめんなさい、この砂嵐の中じゃ、いくら砂漠で仕事をしている私たちでもあなたを運んであげられない、砂嵐が止むまで待って」
ミリカは首を振った。「どうしても明日までに行かないといけないんです」
「命を捨てろと言うの?」ジュリエッタは怖い顔をした。
「違います、あなたたちに運んでもらおうなんて、そんな都合のいいこと考えていません、砂漠を渡る方法を教えて下さい、教えてもらおうと思ってココに来ました」
「一人で渡ろうというの?」
「はい」
ジュリエッタはバカを見るような目でミリカを見た。「方法なんてありません、死ぬよ、砂漠を甘く見ない方がいい」
「お金はあります、レクチャしてください」ミリカは麻袋を取り出して、金貨を見せた。ジュリエッタは表情を変えない。
「命の方が大事、そんな当たり前のことを言わせないで、ふざけてるみたい」
「ふざけてません、私は一刻も早く、ファーファルタウに」
「帰りなさい、いい子だから」
ミリカは怒られて、黙って引き下がった。
ブーツを履く。その背にジュリエッタは優しく声を掛ける。「砂嵐が止むまで待って」
それが懸命な判断であることは間違いないだろう。けれど、ミリカは急いでいる。
だからテントの外に出た後にミリカは監視塔をよじ登った。
監視塔の魔女は気持ちよさそうに眠り込んだままだった。監視塔からは砂漠が一望できる。この世の果てのように砂しか見えない。晴天時にはファーファルタウが見えるのかもしれないが、砂嵐が全てを遮っている。
ミリカは監視塔の魔女の頬を抓った。「おい、起きろっ」
「ぬおおおぉ、」変な呻き声を上げて魔女は目を覚ました。「はっ、ココは?」
「ねぇ、お願いがあるんだけど」ミリカは頬を抓ったまま言う。
「痛い、離せ、なんだ、お前!」
監視塔の魔女が叫ぶから、ミリカは手の平で口を塞いで、金貨を見せた。彼女は頭の回転が早かった。すぐに監視塔の魔女は静かになって、テントの方を窺った。誰にも見られていないことを確かめるとミリカがスマイルをしているだけで、小声で聞いてきた。
「何? 私は何をすれば?」魔女は幼い顔立ちをしていた。まだ子供だ。ミリカよりもずっと小さい。小さくてコレクションしたくなるほど可愛い。しかし、反抗的な目付きをしている。ミリカに、ではなくて、自分の今の境遇に満足していない、そういう目付だ。こういう女の子は信用できる。複雑じゃないからだ。
「あなたの知っていることを教えてほしいんだぁ」ミリカは笑みを作って言った。
「黙秘権は?」子供の顔だから、黙秘権という言葉がアンバランスだ。
「もちろんあるよ、」ミリカは笑いながら言った。「そうね、まず、名前は? 私はミリカ」
「セレナ」
「とっても素敵な名前ね、」ミリカは思ってもないことを口にする。「セレナはハッピー・ビバークの魔女?」
「違う、どこにも所属してない、まだ満足に飛べないから、連盟付けでずっと監視番」
「連盟って?」
「ビバークの代表者の連盟、それでいろんなことを話し合いで決めてる、ワゴンに対抗するにはどうすべきかとか、料金設定のこととか」
「砂漠の魔女たちって、どうして向こう側まで飛ぶことが出来るのかな?」
「あなたも飛べるでしょ?」セレナが不思議そうに聞く。
「もちろん、飛べるけど、砂漠の上は砂漠の魔女たちしか飛べないって聞いたことがあるから、どういう方法を使っているのかと思って、何か特殊な魔法でもあるの?」
「魔法は知らないけど、でも魔女たちは安全なルートを通って向こう側まで飛んでるよ、砂漠の魔女しか飛べないって言われるのは、そういうことじゃないかな?」
「安全なルート? そんなものがあるの?」
「うん、砂嵐が起こりやすい場所や風の強い場所や蜃気楼が発生しやすい場所、それを避けるような安全なルートがあるんだよ、そのルートには真っ赤なバルーンが浮かんでるから、それを目印にして魔女たちは飛んでいるんだ」
「へぇ、そんなバルーンがあったのね、」ミリカは感心する。「でも、そんなものを置いていたら魔女は渡り放題じゃない?」
「ミリカちゃんは見えないでしょ?」セレナは砂漠の方を見ながら言った。
「砂嵐に隠れて何も見えない」ミリカも砂漠の方を見た。
「ミリカちゃんは見えないんだよ」
「ああ、そうなんだ、」ミリカは理解した。「魔法を使っているのね」
「そ、連盟に所属している魔女しか知らないオリジナルな魔法を使わなきゃ、真っ赤なバルーンは見えない」
「教えて」ミリカは顔を近づけて頼み込んだ。
「……黙秘します」セレナは調子に乗っていろいろしゃべり過ぎたと反省しているようだ。
「教えて」ミリカは強引に金貨を握らせる。
「…………黙秘、します」セレナはいろいろ考えているようだった。まだ子供だから、本格的な駆け引きというものに戸惑っている感じだった。セレナはきっと生まれがいいのだろう。とても道徳的だ。道徳的だから、金貨をもう一枚握るためには様々な言い訳が必要に違いない。それを今、セレナは急ピッチで仕立て上げているのだろう。「……ミリカちゃん、私はずっとこんなところにいたくない、王都で暮らしたいの、だからお金を貯めるために砂漠の魔女をやろうと思ったの、でも、ワゴンのせいでお金なんて全然堪らないし、魔女たちは私に何も教えてくれない、ずっとココで砂漠を眺めているだけ、全然楽しくない」
そう言ってセレナは金貨をぎゅっと握って、ミリカに魔法を教えた。
「ああ、見えた、真っ赤ね、たくさんある」
「あんた、もしかして凄い人?」セレナが聞く。
「凄い?」
「失敗しなかった、この魔法、難しいのに」
「確かに複雑だったけれど、」ミリカは魔法のイメージを語る。「集中して、神経を研ぎ澄ませば、失敗は全くしなくなるわ」
「私でも?」
「セレナは一度大きな失敗をしないと駄目ね、まだ何も知らない子供だもの」
「ママみたい」セレナは呟いた。
「え?」
「なんでもない」セレナはその横顔に小さな微笑みを浮かべて、金貨の輝きみたいな精神状態で砂漠を見ていた。
「本当に凄い人はね、この砂漠の向こう側にいるの」
「え?」セレナはビックリした。突然ミリカが箒に跨り、監視塔の手すりに立ったからだった。絶妙なバランス感覚。大きな風呂敷を背負っているのが、セレナには信じられない。セレナの信じられないような表情が、ミリカには心地がいい。また会いたいと思える、素敵な表情。
「ちょっと、ミリカちゃん、砂漠を飛ぶ気!?」
「セレナのおかげよ、ありがとう」ミリカは集中力を高める。
「無茶だよ、バカなことだ、降りろ!」セレナはミリカの脚を掴んだ。
「セレナ」
「絶対に離さない、死んじゃうよ、絶対!」
「金貨一枚で素敵な衣装を仕立てなさい」ミリカの声は大きくないのにセレナの耳によく聞こえた。
「ミリカちゃんに言われたくない!」セレナはミリカの薄汚い服装を差して言った。「ああ、魔法なんて教えなきゃよかった!」
「もう一枚の金貨でワゴンに乗りなさい」
「え?」
「またね、セレナ、次に会ったら、お前を私の一番弟子にしてやるぜ!」
ミリカから風が吹いた。セレナは尻餅をつく。ミリカは監視塔から飛び立った。そしてすぐに砂嵐の中に消えた。
「ファーファルタウで、待ってるわ!」
その声は砂漠に浮かんだ蜃気楼のようで、セレナには信じられない夢のような声だった。