02
「ゲームスタート」
このゲームは、音声認識で起動するという。有子が起動キーワードを口にすると、まるで眠りに就くかのように瞼が下りて視界が暗くなり、すっと意識が体から遠くなっていった。
「な、何……何これ、夢……?」
完全に眠りに落ちる前の瞼の闇で、ふわふわとどこかに浮いているような感覚。起きているのか、それとも実はすでに眠っているのか、それも有子にはよく分からない。ただ、その得体の知れない状態が怖いと感じた。
「夢と、言えば……夢、でしょう。……しかし、この夢は、眠らずとも見れる……夢です」
「!」
突然どこからか男性の声が響き、有子は身を強張らせた。鼓膜を介することなく直接脳裏に響いてきたこの声は、若そうなのに何故だか妙に気怠げな声である。
「驚かれ……ましたか。それは、失礼を……」
「あっ……」
まるで真っ黒な水から上がるように、闇の中から一人の青年の姿が浮かび上がる。
彼は一目で不健康、そして病弱そうだと思われる、濃い隈を作った顔色の悪い青年だった。古めかしいロッキングチェアに悠々と腰かけ、すらりとした長い脚と、細く長い指を組んでこちらを見つめている。有子も思わず青年を見つめ返した。
あまりにもリアルな青年の姿に、これは夢だと有子は一瞬思ったが、恐らくこれがゲームのキャラクターなのだろうと認識した。目の前の青年は、異常な肌の白さと濃い隈さえ除けば、現実にはまず居ないだろうレベルの美形だったからだ。もし彼が健康で睡眠不足でさえなければ、テレビに出ていてもおかしくは無いだろう。だからこそ、データ上の存在であると有子には思えた。
「初めまして……倉橋有子様」
「な、何で名前……」
「挨拶をされたら……返事くらい、するべきだと思いますが……まあ、お答えしましょう。失礼、ながら……貴方の頭の中を、覗かせて……いただきました」
「えっ……頭の中、を……!?」
「……ご安心を。貴方の、【トロイメライ・メルヒェン】における、PCを作る、ため……貴方の、身体データ……を、知る必要が、あっただけですので。……他意は、ありません。個人情報は……守ります」
有子はこの青年に名前はおろか身体データまで知られたことに思わずぎょっとしたが、青年は簡潔に謝罪をするのみで悪びれる様子は無かった。彼としてはシステム上したことなので、「勝手に」脳内を覗き見たことに対する罪悪感は一応あったようだが、見たこと自体は何とも思っていないらしい。
「そういえば、まだ……名乗っていません、でしたね。私は……ファウスト。H・ファウストです……GMとして、【トロイメライ・メルヒェン】のプレイヤーの……皆さんの、サポートをします。どうぞ、ファウスト……と。よろしく……お願いします」
「あ、あの……倉橋有子、です。よろしくお願いします……」
「はい……結構です」
青年、もといファウストは、今度こそ有子が挨拶を返したことに、満足そうに頷く。だが有子はと言えば、このゲームのキャラクターであるこの青年に、まるでリアルタイムで誰かと対峙しているような反応をされ、内心少し戸惑っていた。
「(普通のゲームって、こうしてゲームのキャラクターとも会話するのかな……?)」
【トロイメライ・メルヒェン】はVRである以前にMMORPG、所謂多人数同時参加型RPGと呼ばれるゲームだ。オンラインゲームとしてはポピュラーなジャンルで、各プレイヤーがクライアント(【トロイメライ・メルヒェン】の場合、クライアントは腕輪に当たる)を通じて同じサーバーにアクセスし、そのサーバー内に構築されたゲームの世界の中で、同時にプレイするものと思っていい。
こういったゲームでは、時に運営側が直接PCを操作していることもあるが、基本的にゲームの運営をスムーズに行うため、各所にNPCが配置されている。それはこのゲームの情報をプレイヤーに提供するための村人や町人だとか、イベントを発生させるための存在であったりだとか、ゲーム内でアイテムを売るショップを運営している存在であるとかの、「予め決められた行動」をするキャラクターだ。
もしこの青年キャラクターにAI(人工知能)が搭載されていたのだとしても、こういったオンラインゲームで利用されるのならば、その知能レベルはせいぜい、簡単な質問の受け答え程度である。こんな風に会話をしたり、始めに挨拶が返されなかったことに不満を零すことは無い。そう考えるとこの青年、ファウストの行動は、NPCのそれとは言えないものだ。そもそもGM(管理者、あるいはサポート担当)と名乗っているので、運営側の操るPCであると言える。オンラインゲームにちょっと手を出したことがあるような人間なら、有子ほどの驚きや戸惑いは無かっただろうが、有子はMMORPGはおろか、普通の家庭用ゲームにすら親しみが無い。MMORPGが他人と会話出来て当たり前だなんて知りもしないし、PCとNPCの違いだってよく分からない。
だが有子は元々【トロイメライ・メルヒェン】がVRという、間違いなく世界初らしい技術を使っているゲームであるため、戸惑いはしたものの、単純に「凄い技術が使われているのかな」ということで納得していた。
「さて……早速ですが、【トロイメライ・メルヒェン】における……貴方自身を、作成して頂きます」
「えっと……私自身、を?」
「貴方が操る、PCです……このゲームでは、貴方の体、そのもの……と、言って良いでしょう」
「プレイヤー……キャラクター?」
「はい」
有子はPCとやらが何なのか分からなかったが、ファウストはそんな有子には構うことなく、淡々と返事をして腕を軽く振るう。すると、暗闇から全身も映せそうな、大きな鏡が現れた。その鏡には、眠っているように目を閉じた有子自身が映っている。
「貴方の、身体データを、元に……作った、貴方の……PCの、素体……です。性別の変更は……不可、です」
「あ……そう、ですか」
「はい……しかし、種族の変更は、可能……ですよ」
「種族?」
「人間、エルフ、鳥人、獣人、魔族……この五種族から、お好きなものを……」
ファウストは「サンプルにどうぞ……」と気怠げに言い、再び腕を振って五枚の羊皮紙とモデルのキャラクターを闇の中に呼び出した。羊皮紙には五種類の種族の説明が書かれており、何をどうすればいいのかという指針を全く持たない有子は、それを食い入るように読んだ。
人間(Human)
最も平均的な能力を持つ種族。手先が器用で、どんなアバターであったとしても、平均以上に扱える。
種族固有能力/可能性
レベルアップした時、好きな能力値にボーナスを割り振れる。
エルフ(Elf)
魔法に長けた種族。魔力に対する耐性や資質が高いが、物理的な耐性や資質は低い。魔術系のアバターに向いているが、それ以外には向かない。
種族固有能力/マナの祝福
自然回復する魔力量が、レベル×0.1%分上乗せされる。
鳥人(Bird)
鳥の特徴を持った種族で、唯一自力で空を飛ぶことができる。空中戦が得意だが、夜になると視力が極端に下がる。素早い動きを活かすアバターに向いており、飛び道具を扱うアバターには向かない。
種族固有能力/追い風
素早さと回避能力が、レベル×0.1%分上乗せされる。
獣人(Beast)
様々な獣の特徴を持った種族。肉体的な能力に優れている。その獣の種によって得手不得手や種別能力が大きく異なるが、全体的に戦士系のアバターに向いている。
種族固有能力/獣の覚醒
魔力を消費することで、完全に獣の姿になる。元の姿に戻った時、最後に姿を変えていた時間の分だけ変身できなくなる。
魔族(Duman)
悪魔の姿をした種族。全ての能力値が優れており、その悪魔の種によって、個別に特殊な能力を持つ。だがレベルアップが遅く、昼間は能力が半減する。どんなアバターであったとしても、平均以上に扱える。
種族固有能力/ルナティック
夜間の間、月が満ちているほど能力値にボーナスが付くが、満月時には状態異常「バーサク」になる。
「(色々あるんだ……)」
どうやら種族ごとに特徴があり、それぞれ能力に差が出るらしい。それに見た限り、アバターとやらのタイプによって、種族の向き不向きがある程度決まっているらしかった。
そこで有子はふと気付くが、そもそもアバターとは何なのだろうか。ゲーム好きの弟なら分かったのだろうが、有子にはさっぱりだった。
「あ、あの」
「お決まりで……?」
「いえ……その、アバターって、どういうものなんですか……?」
有子がびくつきながらファウストに質問すると、彼は「ああ……」と、何か思い出したというように呟く。
「そうですね……お話し、して、おきましょう」
「お願いします……」
「分かり、ました。……アバターと、いうものは……そのPCのできる、ことを、示す……もの。と、言えば……いいでしょうか」
例えば魔術系のアバターなら魔術を使うことができるが、直接剣を振るうようなことは苦手。逆に戦士系のアバターなら剣を振るうことが得意だが、魔術を使うことは苦手。つまりは職業のような認識で良いようだ。
「……よくある、MMORPGでは……このアバターは、職業と呼ばれる……ことが、殆どです。後に……変更する、ことも可能な場合が……多いですが……しかし、【トロイメライ・メルヒェン】は……その職業を変更、することができません」
「そうですか……」
「【トロイメライ・メルヒェン】を、プレイする時……このアバターは、予め、腕輪によって……決まっています。PC、イコール、職業……そういう、意味を込めて、敢えて分身と……呼ぶんです……」
「そう……なん、ですか?」
「はい……ちなみに、貴方の腕輪は、シリアルナンバー1865……登録アバター、は……【Alice -Wonder Version-】こと、【アリス】……【不思議の国のアリス】と呼ばれる……アバターですね」
不思議の国のアリス。言わずと知れた世界的な童話だ。それが有子のアバターと言うが、どういうことなのだろうか。やはり有子にはさっぱりである。
「【トロイメライ・メルヒェン】の、アバターは……童話や、逸話などを、モデルに……しています。……貴方の、【不思議の国のアリス】の分類は、魔術系……特に、召喚師という、区分です……」
「召喚師……?」
「自分が……攻撃するのでは、無く、魔術で召喚したものを使役し……自分を守らせ、敵を倒させます。例えば、初期スキルに……〈白兎〉、というものがあります……これは……〈白兎〉を召喚するもの、です……貴方は、この〈白兎〉に、命令して……戦います」
気怠い声に反して、ファウストの説明はゲーム初心者の有子にとって、分かりやすいものであった。GMと言うだけあり、説明や解説は得意なのだろう。有子はとりあえず、自分のアバターは魔術師なのだ、という風に考えることにした。
「(魔術師なら、エルフとかがいいのかな……)」
どのゲームでも、基本的にエルフは魔力が高い種族として扱われる。【トロイメライ・メルヒェン】も例に漏れず、ファウストが有子に見せた種族紹介では、魔術系のアバターに向いた種族であると書かれていた。
有子はエルフの説明が書かれた羊皮紙をじっくりと読んだ後に、モデルのキャラクターへ視線を移した。基本的には人間と変わらないものの、耳がぴんと尖っているのがエルフの特徴だ。それに、人間が有子のようなアジア系の人種の面立ちをしているのに対し、エルフの面立ちはヨーロッパ系の人種のようである。訊くと、本来の顔をベースに種族毎に顔立ちは変わるのだそうだ。
「(どうせゲームなら……少しくらい、違う顔に、したいな)」
親からもらった体や顔に不満があるわけではないのだが、如何せん有子はとある理由によって、自分に自信が全く無い。そのため、アバターの相性ということもあるが、有子は種族を今の顔立ちから少しでも遠退くエルフにしようと決めた。
「あの、」
「……貴方はかなりの初心者、のようですし……無難に、人間にしておくのが……おすすめですよ……魔術系、アバターですが、人間なら……種族の、固有能力で……どうしても弱くなる、防御面にも、ボーナス、を、割り振れますし……」
「……………じゃあ、その、人間で……」
「承認しました……」
有子の蚊の鳴くような声を聞き、ファウストはさくさくと種族を決定してしまった。有子は自分の小心者具合に、かつてない程後悔の念を覚えた。自分の意見をきちんと伝えられないのは、有子の悪癖の一つだ。
「有子様……?何か?」
「いえ……」
「では……PCの細かいエディットを、しましょう……」
「はい……」
種族を決定した次に行ったのは、髪の色や眼の色、肌の色、それに髪型や体型などの設定だった。
設定は、ファウストがその部位のパターンを提示してはくれていたものの、別にそのサンプルの中から選ぶ必要は無く、有子自身がこうしたい、あんな感じが良いとさえ言えば、その言葉に沿って忠実にファウストがパターンを作成する、という手順で進められた(勿論、有子がきちんと自分の意見を言えたのかというのは別である)。
有子は初心者故に「ゲームって凄いなあ」程度の感想しか抱かなかったのだが、この【トロイメライ・メルヒェン】のキャラクターエディットは、破格の自由度だった。普通、色にしろ髪型のパターンにしろ、決められたパターンの内から選ぶものである。この機能はゲームの人気度を左右する要素の一つでもあり、このパターンの種類が豊富なほど、人気は高くなる傾向にある。そう考えれば、わざわざオリジナルでパターンを作成するなど、普通に考えてあり得ない仕様と言っていい。確実に本来なら課金レベルものだ。
しかも、このエディットが可能な範囲は、大雑把な体型や顔立ちだけではない。有子はこんなに細かい部分まで変える必要はないと考え、殆どスルーして終わらせてしまったのだが、プレイヤーが望めば、爪の形一つとっても細かな指定が可能だったのだ。
プレイヤーにとって、PCは分身。当然、かなりこだわりを持って作る人間は多い筈だ。有子すら、多少のこだわりは何とか青年に伝えたのである。そのすべての要求を事もなげに実現してしまうのだから、【トロイメライ・メルヒェン】に使用されている技術は、見る人が見れば全く恐ろしさすら感じる代物だった。世界初の技術というのは伊達ではないのだろう。
「それでは……貴方のPCは、これで良いですね……?」
「……はい」
有子は鏡に映されたキャラクターの姿を見て、ちょっとした満足感に浸っていた。
鏡の中に居るのは青いエプロンドレスを着た、少し青味がかった長い黒髪の少女だった。顔立ちは有子の面影を薄らと残しているが、ゲームのキャラクターらしく美形になっている。また、ファウストに大幅な体格の変更はしない方が良いと勧められたために、身長を伸ばしてみたりすることはしなかった。せいぜいが目や髪の色、髪の長さをいじった程度で、あまり現実の姿と変わらない(本当は有子も女性らしく、どうせならお腹周りだとか胸だとかをちょっといじりたいと思ったのだが、ファウストに頼む勇気は全く無かった)。
青いエプロンドレスと言うと、やはり一目で【アリス】という単語を連想するが、有子もまたそうだった。装備品である程度容姿は変わってしまうそうだが、デフォルトとなる衣装は必要である。なのでその衣装を決める時、自分のアバターが【アリス】ということで、有子は安直にそれを指定したのだった。
エプロンドレスなんて、春には大学生になる有子の年齢を考えると、少し少女趣味かもしれない。だが、エプロンに隠されないようにと、両サイドにたっぷりとドレープをあしらった青い膝下丈のドレスを、有子自身はなかなか気に入っていた。
「最後に……名前を、決めて下さい」
「え? ……名前、ですか?」
「はい、このPCの名前……です」
有子はファウストの言葉がいまいちよく分からなかった。自分の名前は倉橋有子、ならば【トロイメライ・メルヒェン】においても、倉橋有子の筈である。そう思っていたのだ。
「……ご自分の、本名を……不特定多数のプレイヤーに、教えて、回るつもりですか?HNを、名乗るのと……同じ意味、だと、言えば……分かりますか?」
どこか呆れたような響きを含んだファウストの言葉に、有子ははっとする。
HN。簡単に言ってしまえば、ネット上で使用する偽名である。
別にネット上で本名を使用することは禁じられていないが、実際に本名で活動した際、それを利用して悪意ある者が現実の人間に何かを仕掛ける可能性は無いとは言えない(例えば、【トロイメライ・メルヒェン】のようなMMORPGでプレイヤー同士がトラブルを起こした際、実名を使っていたことで相手が住所などを割り出し、嫌がらせを行うことがあり得る)。つまり、犯罪に巻き込まれないための予防策、個人情報保護の一つのようなものなのだ。
勿論、ロールプレイなどの意味でもう一人の別のキャラクターを演じるような場合にも使うが、大半の意味は上記と同じだろう。
「………ユウコ。カタカナで、ユウコで、お願いします」
「本名ですが、よろしいので……?」
「はい」
本当なら本名を割り出せないような名前を付けるのが望ましいのかもしれない。だが、有子はそれをしなかった。
この【アリス】のPCは、もう一人の有子だ。自分の面影を宿していることを抜きにしても、有子は既にこのPCに対して愛着のようなものが芽生えてきていた。だが、【アリス】自身が有子から離れて活動するわけではない。あくまで有子自身が「中」にいることが前提の、倉橋有子の一部というような存在であると、有子は思っていた。
……それと、違う名前で呼ばれた時、咄嗟に反応できないような気もしたためである。
「……承認しました……アバター【Alice -Wonder Version-】、PC名、ユウコ……ユーザー名、倉橋有子……【トロイメライ・メルヒェン】に、プレイヤーとして……登録します」
ファウストがそう言うと、鏡の中に映っていただけのユウコが鏡から抜け出し、その場で軽く一礼する。すると、たちまち有子の意識はユウコの中に溶けていき、有子は完全にユウコとなった。
有子がユウコになったことに驚き、しげしげと自身の体となったPCボディを確認していると、どこからか明るい効果音が響く。そして次の瞬間、目の前にメッセージウインドウが表示された。
PC名 ユウコ
アバター 【Alice -Wonder Version-】
Lv.1
たった三行の情報だったが、それが今の有子を表す全てだった。