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婚約を捨てた記録魔法使いは、枯れない水路と恋をする  作者: 銀細工ナギ


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第13話 信じたい言葉ほど、言えない夜

 古い点検口の蓋を閉めた直後、地上から何人もの足音が響いた。


 ミレアは暗闇の中で息を殺した。狭い石造りの通路には、地下水の冷気と鉄の匂いが満ちている。隣ではレオンが小さな灯りを掲げていた。炎が揺れるたび、濡れた壁に二人の影が伸び縮みする。


「こちらです」


 ミレアは壁に手を触れた。


 禁令が出たばかりなのに、指先へ過去の流れが入り込んでくる。七年前、補助管を通った水の記憶。さらにその前、まだこの通路が建設されたばかりの頃の石工たちの声。幾重にも重なる記憶の中から、今夜の異常だけを探す。


 水が流れている。


 通常の地下水ではない。青い粉を含んだ濁流が、左の管から押し寄せ、弁室へ向かっている。


「急ぎましょう。弁はまだ完全には開いていません」


「止める方法は?」


「補助管の奥に、手動の圧力弁があります。そこを閉じれば、三つの弁を動かしている圧力が落ちます」


「君が先導してくれ」


 レオンの声は、いつもより静かだった。


 ミレアは頷き、暗い通路を進んだ。足元の水はくるぶしまで達している。急げば滑る。けれど、背後から追手の声が近づいていた。


「左です」


 角を曲がったところで、ミレアの手が何かに触れた。古い金具だった。記憶の中で、誰かがここに細い棒を差し込み、弁を外側から動かしている。


「誰かが、この場所を使っています」


 壁際の石を押すと、隠し扉が開いた。中には工具と濡れた外套が置かれていた。外套の内側に、王都水利局の徽章が縫いつけられている。


 レオンがそれを拾い上げた。


「局員のものだ」


「局長代理でしょうか」


「分からない。だが、これを持ち帰れば証拠になる」


 その瞬間、通路の奥で金属音がした。


 二人が振り向くと、濁流の向こうに人影が立っていた。濃紺の外套。南区で見かけた男だ。


「そこを動くな」


 レオンが剣を抜く。


 男は答えず、手にした棒を弁へ突き立てた。水圧が一気に高まり、足元の水が跳ね上がる。石壁が震え、天井から砂が落ちてきた。


「このままでは管が破裂します!」


 ミレアは叫んだ。


「男を追うより、弁を閉じる!」


 レオンは迷わず剣を収め、ミレアの腕をつかんだ。二人は流れに逆らって弁室へ走った。濃紺の男は奥の通路へ逃げていく。追えば捕まえられる距離だったが、レオンは振り返らなかった。


「レオン、逃げられます!」


「今は水を止める!」


 その言葉に、ミレアの胸が強く鳴った。


 弁室の中央では、三つの鉄輪が激しく震えていた。ミレアは壁の古い刻印へ手を触れる。記憶の中で、圧力弁を閉じる順番が浮かび上がった。右、中央、左。ただし、中央を先に回すと逆流が起きる。


「私が右を閉じます。あなたは左を。中央は最後に、二人で」


「分かった」


 ミレアは鉄輪へ手をかけた。冷たい水が肩まで跳ねる。腕に力を込めると、錆びた輪がわずかに動いた。


 同時に、レオンが反対側の輪を回す。


 轟音が地下を満たした。鉄輪が軋み、青い泡が二人の足元を走る。あと少し。だが、ミレアの手から記憶が流れ込んできた。


 この弁室を設計した男の声。

 補助管は、緊急時に水を逃がすためだけではない。

 誰かが記録を隠すため、弁の動きを見えなくする仕掛けを組み込んだ。


 壁の奥に、もう一つの空洞がある。


「レオン、中央の後ろに隠し箱があります!」


「今は弁を!」


「でも、改竄記録があるかもしれません!」


 レオンは一瞬、彼女を見た。


「水を止めてからだ。君の命より大事な記録はない」


 その言葉が、濁流の音よりはっきり聞こえた。


 ミレアは唇を噛んだ。嬉しいと思った。けれど、その気持ちを口にする余裕はない。今、信じたい言葉ほど、言えなかった。


「……分かりました」


 二人は中央の鉄輪へ並んで手をかけた。


「一、二の三!」


 輪が回り、弁が閉じる。凄まじい水圧が途切れ、弁室に静けさが戻った。しばらくして、遠くで別の水路へ流れが移る音が聞こえた。


 南区への濁流は止まった。


 ミレアはその場に座り込み、濡れた髪を払った。レオンも壁に手をついて息を整えている。


「隠し箱を探します」


 ミレアが立ち上がると、レオンは黙って手を差し出した。


 彼女はその手を取った。


 中央弁の裏には、小さな鉄箱が埋め込まれていた。蓋を開けると、油紙に包まれた記録帳と、数枚の命令書が現れた。


 命令書の署名欄には、局長代理の名がある。


 だが、記録帳には別の名が残っていた。


 かつてミレアの婚約者だった家の当主と、水利局長代理が、七年前から取引を続けていた証拠だった。


 水質異常を隠し、南区の管理人へ責任を負わせる。その見返りに、婚約者の家は浄化薬の納入権を得ていた。


 ミレアの指が震えた。


「私の婚約破棄も、この取引に関係しているのでしょうか」


「君の父親が記録に気づいたからだろう」


 レオンは帳面を見ながら言った。


「君を役立たずと呼んだのは、力を恐れたからだ」


 ミレアは笑おうとしたが、うまくいかなかった。


「もっと早く、そう言ってくれればよかったのに」


 レオンが顔を上げる。


「何を?」


「私の力を、必要だと」


 言ってしまってから、ミレアは視線を落とした。弁室の水音だけが二人の間に残る。


 しばらくして、レオンが低く答えた。


「必要だ。君の力も、判断も。君がいなければ、今夜の水は止められなかった」


 胸の奥が熱くなった。


「……それだけですか」


 問いかけは、かすかな声になった。


 レオンは答えなかった。ただ、差し出した手を離さずにいる。


 地上では、役人たちがまだ二人を探しているはずだった。禁令は撤回されていない。敵の正体も、すべて明らかになったわけではない。


 それでもミレアは、握られた手の温度を信じた。


 言葉にならないものが、今夜は確かにそこにあった。

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