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ウィタミーキスの探命日誌  作者: MasauOkubo
生き、捕える網は地下に
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時間経過に伴う特異菌糸災害の拡大

 リーピとケイリーに身体を支えられつつ、大層難儀しながら執事服から寝間着へと着替えたカッシングは、途中だった朝食の卓ではなく、寝床へと戻ることになった。


 フィンク市長一行が去ってから、かなりの時間が経過してはいた。


 それでも市長らによる訪問は、老人を心身ともに疲弊憔悴させるに十分な気疲れを伴わせていたのだ。寝間着の袖に腕を通すだけの動作でも、カッシングは弱々しくも乱れた息遣いを整えるような有様であった。


 もはや完全に自動人形たちによって全身を持ち上げられて運ばれ、ベッドの上に寝かされたカッシングは、全身が一回り小さく萎んだかのようにまで見えた。


 リーピが台所へ戻っていくのを横目に、ケイリーは老人の枕元に跪き、彼の呼吸がある程度落ち着くのを待ってから伝える。


「食欲が戻る様子は……無さそうだな。朝食であなたがひと齧りしたトーストは、廃棄処分として構わないか?外出困難な状況で食糧は貴重だが、しかし雑菌の繁殖機会を増やしてしまう方がよほど高いリスクとなる。」


「えぇ、構いませんよ。私が口をつけていなければ、あなた方にお譲りするところだったのですが……理想的な焼き加減でしたよ、かつてのお屋敷……思い出します。」


「たびたび意識から抜け落ちているかもしれないが、私もリーピも自動人形ゆえに食事は必要ではない。」


「あぁ……そう……でしたね。」


 返答するカッシングの口調はいよいよ曖昧となっていき、彼が極度の疲労を感じていることは明白だった。


 先ほど起床したばかりゆえに眠気は無い様子だったが、今は目を細めて天井をじっと見つめるばかりとなった老人の体力消耗を考慮し、ケイリーは寝室を一旦離れ、リーピのもとへと移動した。


 台所から見渡せるリビング、ダイニング、そして玄関から裏口に至るまで、家の全ての窓と扉の隙間には水を入れた樹脂袋……いわば水嚢が置かれ、浸水に備えられている。


 さらに、強まる風雨によって飛来物が樹脂窓を破損する可能性に備え、リーピは家中から板状の物をかき集め、すぐ動かせるよう壁面に立てかけていた。


「粘着テープがストックされていればよかったのですが、このような事態への想定はさすがに為されていませんね。ケイリーも手伝ってください、大型のテーブル天板は浸水発生の際に止水板代わりとします。」


「分かった。壁際に立ててあるテーブルの脚は、外して構わないんだな?」


「えぇ、緊急事態に陥ってから作業を開始している猶予はありませんし、このテーブルはもとより物置となった奥部屋に積まれていたものです。……現在使用している以外のテーブルを、今後カッシングさんが使う可能性はごく低いです。」


 むろんリーピが語っているのは、カッシングの年齢や身体能力、そして周囲の状況を踏まえた上で下される正確な推測である。


 自動人形としては正常な思考の結果を、それでもリーピは口にする際に僅かに言い淀んだ。製造間もない頃であれば、躊躇なく言い放つことが出来ただろう、余命いくばくもない老人には不必要な家具であると。


 さておき、今は作業の手を止めていられる状況ではない。


 ケイリーは自動人形の腕力をもってテーブルから脚を取り外していった。年季の入った重厚な木目調のテーブルは、おそらく製造されてから数十年は経っているだろう。脚が外された痕には、長きにわたって外気に触れていなかった、生々しくも乾いた木肌が白々としていた。


 家の内外を区切る箇所のみならず、屋内の廊下にもリーピとケイリーは即席の止水板と水嚢を準備していく。完全に床上まで浸水したとしても、廊下の随所で段階的に雨水の流入を食い止め、カッシングのいる寝室への浸水を最大限食い止めるためだ。


 重量のある水嚢や、止水板として機能し得るだけのテーブル天板を運搬するのは、老人には確実に不可能な重労働であった。


 リーピとケイリーは、カッシングの生命が続いている限り、自分たちに為せるだけの全てを実行しようと考えていた。長く続くことのない奉仕であると、共に予感していた。


「止水板が動線を阻害しないように、廊下の隅に立てかけて準備しておく。あとは私がやっておくから、リーピは改めて寝室のカッシングの様子を見に行ってくれ。」


「万が一の際は、即座に浸水対処可能な状態でお願いします。」


 ケイリーに返答しながら、リーピは窓の外へチラと目を向けた。ケイリーもつられて同じ方向を見て、共に動きが一瞬固まった。


 既に庭は茶色く濁った水で満たされ、濁流の流れる川のようになった道路と庭先の境界も既に視認できない。


 紛れもなく水害と称して差し支えない光景の中、もはやちょっとした小屋のごとき大きさまで繁殖し膨れ上がった菌糸の塊が、続々と流れていく。


 緊迫した光景に、不気味なまでに似つかわしくない、ふわふわとした柔らかい綿の塊が、あちらこちらで悠然と移動している。その表面は雨に打たれ風に吹きちぎられて、数え切れぬほどの菌糸の塊となり、まるで雪のごとく宙を舞いながら風雨に白い彩りを添えている。


 人間にとっては無論のこと、あらゆる生命にとって悪夢のごとき光景だった。


「もはや、通行人が生きているはずはありません。全ての植物も養分を吸い尽くされて枯れたでしょうね……虫類や、特異菌糸以外の雑菌までも死滅しているでしょうから、ある意味では“清潔”な環境ではあるかもしれませんが。」


「だがこうなってしまっては、この豪雨が収まったとしても、本来通りに人間が住める環境を取り戻すのは至極困難だろう。」


 今後、晴れ間から陽光が注ぐ時が来たとしても、たっぷりと水分を吸い込んだ土壌を下地に、街全体を覆い尽くした特異菌糸の塊は相応に生きながらえるだろう。


 滅菌剤をもってすれば、その場の菌糸だけは死滅させられるだろうが、しかし街全体を覆う程の菌糸が相手となれば、はかりしれぬ量の滅菌剤が必要となる。モース研究主任による状況予測は正確であり、だからこそロターク社は最初から街を包囲し、完全に封鎖し続ける作戦を選択したのだ。


 彼らが現在、本社から搬送してきたありったけの粘液タイプ滅菌剤は、街を取り囲む防壁の上部からの散布、および地下部への流し込みに費やすだけで精一杯だろう。


 そして何よりも……既に大量に発生しているであろう、特異菌糸罹患者の集団は混乱を確実に助長する存在である。


「無理に養分や水分を摂取する必要が無い環境では、菌糸罹患者は健常者といよいよもって区別困難となるかもしれません。これまでの罹患者たちは、いずれも多少なりと強引な手段で養分や水分を獲得するため、身体に変異を来たさざるを得ない存在たちでした。」


「罹患者が生存者とほぼ同じ外見、さらに振る舞いも生前の人間そのものであるとなれば……豪雨や冠水が収まった後の救助や復興は、罹患者の脅威と隣り合わせになるだろう。」


「菌糸罹患者同士が連携して行動を起こすことも考慮すれば、街全体が相当危険な治安状態に陥ることは容易に推測できます。」


 雨が止んで晴天が広がっても、カッシングが庭に出られる日は遠いだろう。


 健常者と見分けのつかない罹患者がいつ襲ってくるとも知れぬ状況では、警戒を緩めていられる瞬間は無い。武器や暴力を振りかざしての襲撃だけではなく、無害な訪問者を装っての接近にも油断できないのだ。穏やかな暮らしを老人が取り戻すことはごく困難だと思われる。


 話している内にケイリーは止水板を準備する作業を終え、リーピと共に寝室を覗きにいく。


 呼吸も神経も落ち着いたのか、カッシングは相変わらず嗄れた喉を微かに鳴らしながら、目を閉じて寝息を立てていた。何の夢を見ているのか、穏やかな表情を浮かべながらも唇は微かに何か喋っているかのように動いている。


 窓外の光景が認識外にさえあれば、そこは窓越しに雨音がそっと忍び込んでくるだけの、静かな寝室であった。


(どうか、このまま……。)


 リーピとケイリーは、共に全く同じ文言を思考回路内に浮かべ、そして共に口には出さなかった。


 カッシングの生活介助を行い、老人が一日でも長く健やかに過ごせるようにするのが、今の自分達の仕事である。


 だからこそ、まだ泥水が家の中に流れ込んでこないうちに、地獄と化した街の様相を目の当たりにせぬうちに……穏やかに、静かな部屋で眠っていられるうちに、安らかに息を引き取るのがカッシングにとって一番の幸せなのではないか、との考えは浮かんでも声には発さなかったのだ。


 それは人間の生命維持を価値観の原則に置いているはずの自動人形が、本来決して至らぬはずの結論でもあった。


―――――


 街の中でも高級住宅地に位置するカッシング宅内からの光景しかリーピとケイリーには見えていなかったが、下町の、すなわち低所得者層が住まう街区の光景は既に危機的状況を明確に示していた。


 雑居ビル内の一室に入っているチャルラット医院、その窓を遮っているブラインドの隙間から看護師ディスティは路上の様子を見下ろしている。


 こちらは既に地区全体が沼地のごとき状況であった。路上を覆っている泥水は、水深が人間の膝上あたりにまで達している。


 ……そう知ることが出来たのは、実際に通行人たちの姿があったためだ。


 雨にまじってちぎれ飛んだ菌糸の塊が舞い、濁流と共に道を塞がんばかりの菌糸の塊が流れてくる、そんな中でも平気で歩き回っていられる存在が、真っ当な人間であるはずがなかった。


 人間であれば、菌糸感染のリスクを無視できないばかりか、そもそも膝上にまで達する冠水状態でマトモに歩けはしない。


 雑居ビルに近付いてくる人影をディスティがなおも見つめていると、背後からチャルラットが警告を発した。


「ディスティさん、あんまり外を覗いてたらあきませんで。ここにまだマトモな人間がおる、って気づかれたらアカン。」


「ですけど、今歩いて来られた方々は、足どりもしっかりしていて、理性的に状況確認を行いながら移動しているように見えます。もしかすると、救助隊かもしれません。」


「えぇ?ちょっと見せてみ……アカンわ、あの人ら、思いっくそ半袖で肌出してはりますやん。アイツに菌糸が入ってへんわけあらへん。もうえぇ加減、いっぺん窓から離れましょ。」


 静かに語りながらもチャルラットの声の響きに切迫したものを感じ取ったディスティは、不承不承といった表情ながらも指示に従い、窓外を覗くのをやめる。


 外の様子が気がかりであり続ける、ディスティの思いも尤もではあった。


 昨晩、ケイリーから特異菌糸活性化およびロターク社滅菌部隊による街封鎖を事前に知らされたおかげで、不用意な外出もせず、短時間内に出来る範囲とはいえ物資も備蓄できたまでは良かった。だが、封鎖がいつ終わるとも知れず、それどころか屋外に一歩出た時点で危険な環境になるとまでは予想していなかったのだ。


 外部からの救助が来た、と確認できればどれほど心細さが癒されることだろう。


 しかし、先ほどチャルラットが断言した通り、現在外を歩き回っているのは確実に菌糸罹患者の集団であった。


「でも自動人形だって、同じように行動できるんじゃないですか?警邏隊の方たちはほぼ全員が自動人形らしいですけど、街の見回りを行っているのでは?」


「そんなん、ホンマに今朝がたの話だけですがな。警邏隊の隊長さんは全市民を平等に助けようとしてはったやろうけど、状況がこうなってしもたら富裕層の方々が黙ってはるわけあらへん。朝に展開してた警邏部隊は、もうとっくにお偉いさんたちの避難護衛のためにことごとく引き上げてしもてますわ。」


 長年にわたり裏社会から政治家を見続けてきた、闇医師チャルラットの推測は正しかった。


 街封鎖から間もない早朝には全街区にまんべんなく配備されていた警邏部隊が、ほどなくして警察本部からの指令を受けて富裕層市民の住まう街中心部へと再招集されていたのだ。言わずもがな、警察組織の上層部が、政治家や金融関係者、そして他でもない自分たちの身の安全を盤石とするためである。


 親が議員秘書だったディスティにとっても、それを推測することは難しくなく、彼女は腑に落ちた思いと呆れ顔の混じった表情で椅子に腰を下ろす。


 為すすべなく時が過ぎるのを待つしかないチャルラット医院内も、静寂を雨音が満たし続けていたが、ほどなくしてチャルラットは視線をあげた。


 雨音に紛れ、かすかな音が、耳に届いたのだ。


 それは現状況で最も聞きたくない音であり、しかし最も警戒すべき音でもあった。


「……誰か、階段をのぼって来てる音……聞こえません?」


「はい、私も……聞こえます。」


 チャルラットに小声で応じつつ、ディスティも椅子から腰を浮かしかけながら耳をすます。


 医院とは自称しているものの、実質は闇医師が顧客からの依頼に応じて死亡診断書を作成するのが主たる業務であるチャルラット医院。患者の搬入や通院は全く考慮していないため、階段で登ってくるしかない雑居ビルの上階に入っている。


 当然のことながら、その足音は階段を上がってくるごとにハッキリと聞こえてきた。


「このビル、他は空き部屋ばっかりのはずやけど……ここに人間がおる、って気づきよったんか。」


「ごめんなさい、私が窓から外を覗いてたせい、かも。」


「今はそんなこと言ぅててもしゃーない、音をたてんように扉の前に物を置いてかんと。」


 小声のまま、チャルラットはディスティを急かすように立ち上がり、手近なオフィス用デスクの片方を持つよう手振りで指示を出した。


 菌糸罹患者が来てしまう恐れを十分に予測して備えられていなかったのは悔やまれたが、階下からの足音に早めに気づけたのは幸いではあった。


 入り口扉を塞ぐように置いたデスクの上、さらに重量のある書類ケースをそっと載せている内に、足音は更に近づいてくる。複数名であることは、容易に聞き取れる。


 照明もつけず、窓のブラインドもおろしたまま、薄暗い医院内でチャルラットとディスティは、その足音の主たちが通り過ぎてくれることを切に願っていた。


 だが……嫌な予感通り、足音はチャルラット医院の前で止まった。


 ノックの音、そして遠慮なく呼ばわる声が響く。


「すみません、お医者様はおられますか?ちょっと開けてもらえるでしょうか!ウチの子供が、熱を出してぐったりしてしまって……どこの病院も開いてないんです!このまま放っておくと、どんどん酷くなっちゃうかも……!」


 当然ながら、チャルラットは闇医者である以上、看板を大々的に掲げたりはしておらず、大多数の一般市民はここが医院であると知るはずがない。仮に知っている者であったとしても、チャルラットが町医者のごとく診療を行いはしないと承知している。


 人間の腕力が出せるとは思えぬほどの打撃音が、入り口の金属扉を激しく震わせている。


 一切の返答が為されなかった結果、自分たちの正体に気づかれたと来訪者たちは察したのだろう。それは既にノックではなく、扉を破壊しようとするための殴打と化している。


 チャルラットとディスティは音をたてないよう椅子から立ち上がった。何も手を打たずにいれば、助からぬ状況には違いなかった。

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