第47話
第47話
文化祭も終わり、生徒会活動も平常運転に戻った11月末。
僕は休日を利用して、常盤学園に来ていた。
常盤学園は、全国でも有数の私立学校で、本来僕のような庶民は、一生足を踏み入れることのない、別世界の存在だった。
そんな名門校を、僕が訪れることになったのは、学園の理事長である常盤総という人に招待されたからだった。
使いとして訪ねて来た静火・グレイフォードという女性の話だと、常盤さんが学園裁判所に興味を持っていて、発案者である僕の話を聞きたいのだという。
正直なところ、名ばかり発案者である僕としては複雑な心境だったが、せっかく興味を持ってくれている人の誘いを断ることもないので、招きに応じることにしたのだった。
「では、こちらへ」
送迎車で常盤学園に着くと、グレイフォードさんは僕を理事長室へと案内した。
「失礼します。旦那様、久世来世君をお連れいたしました」
グレイフォードさんが理事長室のドアをノックすると、
「入りたまえ」
常盤さんと思われる声が、ドアの向こうから返ってきた。
「失礼します」
グレイフォードさんがドアを開け、僕も理事長室に入った。そのとたん、僕の目に飛び込んできたのは、部屋中にビッシリと貼られたアニメのポスターだった。
それ以外にも、棚にはフィギュアが所狭しと並べられ、書棚には漫画やラノベが、これもビッシリと並んでいた。
「驚いたようだね」
常盤さんが、僕を見て苦笑した。
「まあ、無理もない。なにしろ、名門校と呼ばれる理事長の部屋が、漫画やアニメのグッズで埋め尽くされているのだからね」
「あ、いえ、僕は別に……」
「だがね!」
常盤さんは、椅子から立ち上がった。
「私は、この趣味に誇りを持っているのだよ! 皆、アニメや漫画といえば、子供が見るものだと軽視しがちだが、見たまえ! 昨今のドラマや映画を! 漫画を原作としているものが乱立しているではないか!」
常盤さんは、拳を握りしめた。
「これは、どういうことか? すなわち、ひと昔前の製作者には、漫画を大人が見るに値するものにまで、昇華させる才覚がなかったに過ぎないということなのだよ!」
常盤さんは、鼻息を荒げた。
「にも拘わらず! そんな能無しどもの情報操作によって、世間には漫画やアニメを子供が見るものだという先入観念が植え付けられてしまった! その結果、いまだ日本人のなかには、漫画やアニメ愛好家を、オタクとして卑下する傾向が見受けられる! 実に嘆かわしいことだ!」
常盤さんは、目頭を押さえた。
「だが! その傾向も、近年払拭されつつある! 当然のことだ。日本のアニメや漫画、いや、あえて言おう! オタク文化は、他の、どの国よりも優れているのだから。それは最新技術云々の話だけでなく、日本語という言語が、オタク文化を発展させるうえで、もっとも適した言語だからなのだよ」
「日本語が、ですか?」
僕には、理解できなかった。
「その通り! そのいい例が、一人称だ!」
常盤さんは爪先立ちすると、背筋を反らしながら、僕に人差し指を突きつけた。
「一人称?」
「そう! 考えても見たまえ! 日本語の一人称には、それこそ数え切れないほどの数がある! パッと思いつくだけでも「ぼく」「おれ」「わし」「わたし」「あたし」「わたくし」。古典的なところでは「それがし」「せっしゃ」「まろ」「よ」。その他にも、地方の方言や外国語の一人称だって、使おうと思えば使える。それに加え、文章にした場合には、平仮名、カタカナ、漢字と使い分けることができ、その各々において、読み手に違う印象を与えることができるのだ。こんな多種多様な一人称の存在する言語は、日本語をおいて他にはない! わかるかね? すなわち日本語は、エンタメにおけるキャラ立てという点において、他のどの国の追随も許さぬ、キングオブ言語なのだよ!」
常盤さんが、そう熱く語り終えた直後、
ビリ!
僕の背後で、紙が破ける音がした。
振り返ると、グレイフォードさんがアニメのポスターを破っていた。
「ぎゃああああ!」
直後、常盤さんの口から、悲痛な叫び声が上がった。
「すいません、旦那様。ポスターにゴミがついていたので、取ろうとしたら破れてしまいました」
グレイフォードさんは、淡々と謝罪した。その言葉が真実であるかは不明だったが、グレイフォードさんの顔には、悪びれた様子は微塵もなかった。というか、僕の家に来たときから、グレイフォードさんの表情に、まったく変化がないことに、このとき僕は初めて気づいたのだった。まあ、燃えるような赤毛と、メイド服姿のインパクトが強すぎて、細かいところまで気が回らなかったというのも、あるんだけど。
「ですが、形あるものは、いつか必ず滅びるもの。今日、ここで破れることが、このポスターの運命だったのでしょう」
グレイフォードさんはそう言うと、破れたポスターを丸めて、というか握り潰してゴミ箱に入れた。
「そんなことよりも、そろそろ本題に入られてはいかがでしょうか? こちらが呼び出しておきながら、無関係のキ、オタク談義を長々と聞かされては、久世君もいい気はしないでしょう」
「そ、そうだったね。では、本題に入るとしよう。かけてくれたまえ、久世君。それと、静火君は、お茶の用意を」
「かしこまりました、旦那様」
グレイフォードさんは一礼すると、理事長室を退室した。
「すまないね。趣味のことになると、年甲斐もなく興奮してしまってね」
「い、いえ、それだけ、お若いと言うことですし。それだけ熱中できる趣味があるのは、悪いことじゃありませんし」
僕は、軽くフォローを入れた。実際、他人がどんな趣味を持っていようと、そんなことはその人の勝手だと思うし。
「いい子だね、君は」
常盤さんは涙ぐんだ。
「いかんね。歳を取ると、涙もろくなってしまって。この年になると、人の優しさが身にしみてね。私の周りにいる人間は、誰も私の趣味を理解してくれなくてね。私の趣味を全否定する静火君を始め、何かと言うと「死ね、キモオタ」を連発する元ニートとか、それはもう扱いが酷くてね。私の趣味を理解してくれるのなんて、九十九君やマリー君など、ほんの一握りの人間だけなのだよ」
「はあ、そうなんですか。大企業の社長さんも、いろいろ大変なんですね」
僕は率直な感想を口にした。
「そうなんだよ。特に静火君は、何かと口実を作っては、私のコレクションを処分しようとしてね」
常盤さんは、ハンカチを目に当てた。
「火炎放射器で、私のコレクションを燃やすのなんて、日常茶飯事で」
常盤さんがそう言ったところで、グレイフォードさんが戻ってきた。
「この前なんて、チャリティーの名目で、私のコレクションを子供たちに全部あげてしまったりとか、本当に酷いんだよ」
目にハンカチを当てたまま話す常盤さんは、グレイフォードさんが戻って来たことに気づいていない様子だった。言ってあげたほうがいいのかな。
「そんな性格だから、七星君にドS女と呼ばれてしまっているのに」
話し込む常盤さんをよそに、グレイフォードさんは運んできた紅茶を、常盤さんと僕の前に置いた。自分の存在を、気付かれないようになのか。一切の物音を立てずに。
「まったく改善しようという気が見られないどころか、日毎に悪化する一方で……」
常盤さんは、その後も何か話していたが、グレイフォードさんの行動が気になって、僕はほとんど聞いていなかった。
常盤さんの話を聞くグレイフォードさんの表情には、やはり変化はなかった。しかし、その全身から放出される怒気に気づかないほど、僕は鈍くはなかったのだった。
そしてグレイフォードさんは飾り棚へと近づくと、スカートのなかに手を入れた。え、なんで、スカートのなかに?
僕がそう思った直後、グレイフォードさんはスカートのなかから、洗面器を取り出した。なんで、そんなものがスカートのなかに?
困惑する僕をよそに、グレイフォードさんは、またスカートのなかに手を入れると、一升瓶を取り出した。だから、どうしてそんなものが……。
そして一升瓶の中身を洗面器に注ぐと、棚に飾ってあったフィギュアを洗面器に放り込んだ。そして、その音で、ようやく盤さんも、グレイフォードさんが戻って来ていることに気づいた。
「し、静火君!」
常盤さんは青くなった後、
「……何してるの、君?」
いぶかしげに尋ねた。
「ここにある人形も、汚れているようなので、お手入れをしているところです」
「お、お手入れ?」
「はい、硫酸に漬け込んで」
「ぎゃあああああ!」
常盤さんは、再び悲痛な叫びを上げた。
「やめてええ! ボクのフィギュアが溶けちゃうううう!」
常盤さんは、涙目で訴えた。
「ご安心ください、旦那様。プラスチックは硫酸では溶けませんので」
「そ、そうなのかね?」
「はい、多少、変形するかもしれませんが」
「多少、嫌あああああ!」
「それと、塗装も少々」
「やめてええ! お願いだから、やめてええ!」
グレイフォードさんに取りすがる常盤さんを見ながら、僕は思っていた。
もしかしたら、僕は軽い気持ちで、とんでもないところに来てしまったのかもしれないと。




