epilogue その闇は蒼く深く
「にしても……〈顕神〉か。見てみたかったな」
「ふふん、そりゃあもうすごかったんだから。悪魔なんてイチコロよ」
「正直そんなこと考えてる暇はなかったけどね。何かもう無我夢中って感じだったよ」
翌日。学園に登校したレインとアリア、それにアルスは昨日の出来事について順番に報告をしていた。
昨日の内にも会って会話はしたのだが、諸々の事後処理や疲労により詳細を伝え合うことは出来なかったのだ。レインとアリアは寮で多少話したものの、そこまで込み入った話は出来なかった。そこで、アルスを加えて改めて報告しあおうと決めたのである。
「そっちはどうだったのよ。あの親玉はどれぐらいだった?」
「うーん……まあ、強かった。強かったけど、がっかりしたところもなくはない。正直、もう少し成長してると思ってたんだけど…………」
「? レイン君?」
「……ああ、いや。俺のことだよ。思ったより成長してなかったなって思ってさ」
レインは微妙に不自然な答えを返しつつもいつも通りだった。
その態度にアリアは微かな違和感を抱いたが、追及することはしなかった。何となく、触れてはいけないものだと感じたから。
「それで……シャルレスは?」
「ミコトさんがついてくれてるはず。まあ、魔素さえあれば傷は塞がるし体は問題ないと思うけどな。……でも、体以外の傷には全く効かないどころか、返って悪いかもしれない」
シャルレスが悪魔の体を持つということは、この三人とミコト以外に知られていない。知られればまた面倒だし、何かの火種になってしまう可能性もある。故に“王属騎士団”等にもそのことを伝えることはしなかった。
シャルレスが心に負った傷は、小さくもなければ癒えることもない。彼女はきっと、これから先もずっと十字架を背負って生きていかなければならないのだ。ミコトやレインがしたのは、十字架を投げ出すことが出来ないように、体に縛り付けてしまうことにも等しい。それが辛く苦しいものであると知りながら、シャルレスが諦めることを許さなかった。
シャルレスがレインやミコトの思いをどう受け取ったのか。こうしてもう一度考えてみて、レインはミコトが自身の選択についてあれだけ悩んでいた意味をやっと知った。
「いつかシャルレスが後悔する日が来るかもしれない。そうなったら……俺のせいだ。俺は、多分――」
「何でそんな馬鹿なこと言ってるのよ。今のをシャルレスが聞いたら、それこそ後悔するに違いないわ。『私は本当に生きるべきだったのか』って」
レインを遮ったのはアリア。
「え……?」
「あとで後悔するぐらいなら、というか後悔することを恐れるくらいならシャルレスは生きようとしなかった。あんたに『助けて』なんて言わなかったに決まってるじゃない。シャルレスは……あんたや学園長が自分を信じてくれたから生きようとしたの。自分を認めてくれる人がいるっていうのは、そういうこと」
アリアにはシャルレスの境遇は文字上としてしか分からない。ただ、孤独という一点においては何となく分かる気がする。
幼少の頃、アリアもまた孤独だった。貴族の跡継ぎになれない女として生まれたがために親族にすら疎まれ、誰にも救われない時を過ごしたことがあった。多少の差異はあれど、考えるのはたった一つ。
――どうして自分は生きているのだろう。自分は何のために生きているのだろう。
一度負に侵食された思考はもう元には戻れない。ぐるぐると同じところばかりを行き来し、負の循環に陥る。残るのは絶望だけ。
けれどそこに希望があれば。ほんの一部でも、自分を認めてくれる人がいれば。
「シャルレスはあんたや学園長に救われたのよ。そんなあんたが『後悔するかも』なんて、裏切りもいいところだわ。ただ黙って見守ってればそれでいいの。『後ろから見守ってくれる人がいる』ってだけで、人は頑張れるんだから」
「珍しく饒舌だね、アリアさん」
「うるさいわね、茶化さないでよアルス。……とにかく、あんたがシャルレスのこれからをあれこれ心配するのは論外ってこと。それはシャルレスが決めることなんだから」
アリアはそう言い切った。
予想もしていなかったアリアからの言葉。
レインは一瞬呆然とし――やがて、笑った。
「はは……うん、そうだよな。シャルレスは多分大丈夫だ。あいつは強いから」
シャルレスが最後に見せた瞳を覚えている。あれだけ強い輝きを持っているのなら心配など杞憂かもしれない。シャルレスならきっと、どんなことでも乗り越えていけるだろう。
「……シャルレスだけ?」
そんな時、ポツリとアリアが呟いた。
「は?」
「強いのは……強く見えるのはシャルレスだけなの?」
「……? ……えーと……?」
「レイン君、レイン君」
レインが戸惑っているとアルスが横から小突いてきた。アルスが顎でアリアを示すのを見て、レインはようやく意図を察する。
だが、何となく素直に認めてしまうのは気恥ずかしく、レインは不明瞭に言った。
「その、何だ。まあ……お前も強くなったかもな。一応」
「かもって何!? 一応って何!?」
途端にアリアはずいっと顔を近付けてくる。思わぬ事態にレインはどぎまぎしつつ、捲し立てるように告げた。
「つ、強くなったよ! 最初からしたら本当に! その……た、助かった。ありがとな」
「……っ!」
最後の方は意図的に小さく言ったが、アリアにはしっかりと聞こえたらしい。アリアは満足そうに――ほんの少し頬を染めながら――胸を張って笑った。
「最初からそう言えばいいのよ! ……でも役に立てたなら……嬉しい」
久しぶりに見る弾けるような笑顔にレインはどきりとした。それを表情には出すまいと気を張った瞬間に、始業の鐘が鳴る。
慌てて各自が席に着いた時、教室前方の戸が開けられ、少女が教室の中へと入ってきた。
「……って、何でミコトさんが?」
少女のように見えたのはミコト。この学園の学園長は、左腹の重傷をまるで感じさせない普通の挙動で教壇に立ち、言った。
「おはよう諸君。今日はアイリス教官が不在のため、私がホームルームを担当することになった。……そして、一つ重要なお知らせがある」
アイリス教官が不在ということは度々あるが、大抵は他教科の教官が来ていたはずだ。わざわざ学園長が来る必要はないだろうにとレインは思ったが、「重要なお知らせ」の内容を聞いて、レインはミコトがやって来た理由を知る。
「一人、生徒が正式に入学することとなった。今までは仮在籍という形であったが、今日から君たち二学年の新たな仲間となる。知っている者も既にいるかもしれないが、改めて紹介しよう」
ミコトが廊下の方を向き「こちらへ」と促す。開けられたままの戸から入ってきたのは。
「…………!」
青く長い髪。一歩ごとにはためく季節外れのマフラー。深い海の底のように、簡単に光を覗かせることを許さない青い瞳。
「……シャルレス・エリスティルです。よろしくお願いします」
”受心“を行使せずに、シャルレスがそこに立っていた。
「彼女も神器使いだ。これから仲良くしてやってくれ」
そう言うミコトの視線はレイン、アリア、アルスに向けられ、いつにもなく笑っているように思えた。教室がざわめく中、三人もまた密かに笑う。
そして、一斉に向けられた三人の視線に、シャルレスはよじるように顔をマフラーに埋めた。わずかに覗く白い頬は、微かに朱を帯びていた。
「……よろしく」
恐らく三人だけに聞こえたシャルレスの声。
ざわめく教室。微笑むミコト。三人は顔を見合わせ、やがてレインは言った。
「こちらこそ、よろしく」
直接窺うことの出来ないシャルレスの口許が、小さくはにかんだように見えた。
***
コノコ村の近くに立つ小さな山の中腹にある開けた場所。
中央に枯れた大木が座すその横には、小さな墓標が立てられていた。頭上の枝によって薄暗く見えづらいが、そこにはぼんやりと八つの名が刻まれている。
そしてさらにその横には、小さな芽。
朽ちてしまった大木の根元に生え、いずれ大空を目指すであろう木の芽は、小さくとも確かな強さを持ってそこにあった。近くに転がる氷が少しずつ解け、芽が大きくなるための準備を助ける。
例え周囲には誰もいなくとも。例えどれほど辛く苦しい環境であろうとも。きっと見えない誰かの助けはある。故に、何もせずに諦めることだけは絶対にしないと芽は踏ん張っていた。
枝々の小さな隙間から射し込んだ木漏れ日が、まるで祝福するかのように芽を照らしていた。




