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赤と黒、そして始まる英雄譚~人が紡ぐ絶対神話~  作者: 紫閃
episode Ⅲ その闇は蒼く深く
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3─3 かつて少女は

 シャルレスはかつて、静かに人を殺める暗殺者だった。


 悪魔の体を手に入れ神器をも操る彼女の力は、到底一般人が太刀打ち出来る次元にはなかった。そもそも、彼女の姿を見ることさえ敵わないのだ。音もなく近寄り、短剣を振るう。それだけで首は落ちる。はらわたが切り裂かれる。血が吹き出す。物影に隠れる必要も、暗闇に紛れる労力もいらない。例え真昼の太陽の下ですら彼女は暗殺を可能とした。


 誰にも気付かれない。それはきっと彼女にとって救いだっただろう。もし誰かに知られていれば、他者の視線に晒されていれば、彼女は本当に壊れてしまっていたかもしれない。そんな微かな良心の抵抗があったことも知らず、彼女は人を殺めた。


 だからこそ、初めて悪魔になってからの自分を認識した彼女に、強い恐怖を感じた。


「君が……この辺りの連続殺人の犯人か?」


 果たして何人殺し終えた頃だっただろうか。満月の夜、コノコ村に通じる道の真ん中で、シャルレスはその女性……いや、少女に会った。地下の実験室に気付いたとされる、シャルレスの獲物だ。


 見えていないはずの真正面からの短剣の突き。本来なら首を貫通していた神器〈ミツハノメ〉は、その先端を小さな親指と人差し指ではさまれていた。決して弱くはないシャルレスの力でも、そこから微塵も動くことは敵わない。


「やはりと言うべきか……まともな体ではないな。悪魔の血か」


 そして、そんな少女が放った二言目に、シャルレスは一瞬息が止まった。


 気付かれている。自分の存在に、この歪さに。誰かに自分の全てを認識されるという初めての経験は、シャルレスに強い忌避感を抱かせた。大きすぎる動揺に、”受心トレース“による隠蔽が解ける。


「放せ……私は、お前を……殺す……!」


 一刻も早く彼女から離れたい。こんな仕事を終わらせたい。どこかの虚空へ消えてしまいたい。

 様々な欲求が途端に溢れてくる。久しく感じていなかった恐怖というたった一つの感情に裏付けられたそれらの欲求は、しかし少女によって叶えることは許されない。


 シャルレスがいくら力を込めても短剣はぴくりとしなかった。既に目の前の少女が尋常な存在でないことは分かっている。もはや殺すことなど不可能とは分かっていながら、シャルレスはあくまで短剣を突き立てることだけを考えていた。

 父や兄たちが暮らすあの家に、少女は間違いなく気付いたのだから。それを殺すことだけがシャルレスの存在価値……いや、存在理由なのだ。


「殺す……! 殺さないと……っ!」


 しかし、少女はたった二本の指で短剣を抑えながら聞いた。


「――それ・・は本心か?」

「―――」


 途端に、シャルレスの思考は一瞬で放散した。


「人を殺めることは、君自身が心の底から望んでいることか? 自ら望んでやっていることか?」

「私は……私は、人を殺すために生まれた。人を殺すためにこの体にされた、人を殺すよう教えられた悪魔だ! だから……殺さ、ないと……いけない……!」

「私には君がこんなことを望んでいるようには思えない。何よりも私にはそう視える。人よりは多少長く生きているからな、君がどう生きてきたのか程度は分かるさ。君はきっと悔やんでいる」


 少女の言葉は一つ一つが鋭利な刃物のようにシャルレスの胸を、体を抉る。短剣を突き立てようとしているのはシャルレス自身なのに。

 突き立てられ、抉られ、こじ開けられるような感覚。シャルレスが心を消してまで耐えようとしていた葛藤を掘り起こすような言葉は、容赦なくシャルレスを追い詰めていく。


「私は……私は……っ」

「……君に説教をしてくれるような大人はもう近くにはいないか。ならば私が叱ろう――いい加減にしろ、子供が」

「…………ッ!」


 その一言が、シャルレスの思考を完全に止めた。


「一体何人殺した。何度その短剣を振るった。一体どれほどの人間を傷付けた。人を殺すように教えられた? 下らない、それこそ思考を放棄した子供の行いだ。君がしてきたのは何の意味もない殺人だ。自分に出来ることを、自分がすべきことを投げ捨てた単なる自己保身だ」

「あ……あ……違う……違う、違う違う違う……!」

「違わないさ。君が人を殺して喜んだのは誰だ? 君を暗殺者に仕立て上げた者だろう。それが喜んで、君自身は嬉しかったか? 人を殺しても満足出来たか?」


 少女の言葉はシャルレスの心臓を確かに穿っていく。傷も瞬時に再生出来る体は何の役にも立たず、何物をも貫く短剣は今まさに進行を阻まれている。全てを失った子供のように、シャルレスは首を横に振り続けた。


「違う……。私は、こんな、体で……なりたくてなったんじゃ……違う……」

「君は道を間違えた。購うんだ。君が犯した罪が赦されるために」

「―――ッ」


 ――道を間違えた。その言葉が、やけにはっきりと聞こえた。


 自分は間違えた。そうだ。あの時死んでいれば良かったのだ。苦痛を味わい、友を失ってなお、何故生きようとしたのだ。何を望んでいたのだ。

 死んでいれば、こうして人を殺すことなどないままにいられたのに。


 微かな良心が、少女によって、大きな後悔へと姿を変えた。


「あ……あああああーっ!!」


 今まで必死に押し込もうとしていた〈ミツハノメ〉。シャルレスはそれを一気に引き戻した。少女の指が外れ、神器は束の間の自由を得た。


 ――もういい。これで全てが終わる。終わらせよう。


 シャルレスは短剣を逆手に持ちかえ、刃先を自らの首へと向けた。魔素再生オートリバイヴといえど、首が飛べば再生出来ないだろう。


 目を瞑り、シャルレスは一思いに首を掻き斬る――。


「だから君は子供だと言うんだ。君が死んで何になる」

「え……?」


 ――その刃先は、少女に止められていた。

 素手で、刃全体を握るように止めていたのだ。


「君が死んでも何も変わらないだろう。せっかく生き延びたんだ、それを無下にすることは許さない」

「あ……あ……」


 少女の手からは、ぽたぽたと真っ赤な血の雫が落ちていた。シャルレスの手から力が抜け、〈ミツハノメ〉が軽い音を立てて地面に落ちた。


「命は大切にしろ。君は人を殺すために生まれたんじゃない。人は人のために……人を生かすために生まれてくるんだ」


 その時、久しく流すことのなかった涙が溢れた。今まで流していなかった分の涙が一斉に流れるように、唐突に、止めどなく溢れ出る。

 膝から崩れ落ち、言葉を失って俯いたシャルレスを、少女は小さな体で抱き締めた。


「……今までよく頑張った。よく耐えた。君は悪魔なんかじゃない。人のように悩み、人のように後悔し、人のように泣ける……君は間違いなく、血の通った人間だよ」

「……! ごめんなさい……ごめん、なさい…………っ」


 ごめんなさい、ごめんなさいと繰り返す。そんなことしかシャルレスには出来なかった。限界寸前まで膨れ上がっていた後悔が堰を切ったように溢れ出るのを止められなかった。


「君は確かに罪を犯した。だが、それを購うことはきっと出来る。――救え。君が出来ることを全力で行い、一人でも多くの人を救え。それが唯一の贖罪だ」


 少女は血に染まっていない右手でシャルレスの頭を撫でた。どこか懐かしくも感じるその手に、シャルレスの胸からまた何かが込み上げる。ずっと自分を殺し、考えないようにしていた感情までもが溢れ出す。それを、シャルレスは声を押し殺し、必死に我慢した。


 少女はいつまでもそうしてくれていた。シャルレスが泣き止むまで、一時も離れることはなかった。


 そして、ようやく顔を上げたシャルレスに言ったのだ。


「私の名はミコト・フリル。どうだ、私と一緒に来ないか?」


  ***


 瞼を開けると、視界にはいくつもの楕円形の容器。怪しく光る照明の数々。不快な臭い。

 隠れ家の最奥である研究室で、どうやらシャルレスは寝てしまっていたらしい。楕円形の容器に背中をもたれかけ、膝を抱え込んだ状態で寝たらしく、少し腰が痛む。


 寸前まで見ていたのは夢ではない。むしろ無意識の回想と言うべきだろう。今でもはっきり覚えている。あの日、シャルレスは父と兄たちから解放された。ミコトという恩人の手によって。

 まさかこうしてここへ戻ってくるとは思わなかったが、今度こそ本当の決着をつける時だ。明後日の作戦決行時にシャルレスは悪魔たちと対峙することになる。自分のことは自分でけりをつけなくてはならない。そのためにミコトには悪いことをしたが、彼女はあの程度では死なないだろう。


 正直、いまだにミコト以外の人間には親しみや親交の念が湧くことはない。自分がこんな体だということが知られればどうなるのかという恐怖もある。しかしレインやアリア、アルスのような人間がいることもシャルレスは学んだ。彼らだけはこの件に巻き込みたくないと思う自分がいる。


「…………」


 レインは自分の話を聞いてどう思っただろうか。自分を恐れただろうか。近寄りたくないと思ったかも知れない。だが、それでいい。ほんの少し胸のどこかが痛むが、もとからそういうものなのだと割りきれば、さして苦しくはない。


 『人を救え』。ミコトに言われたあの言葉を胸に今日まで生きてきた。ならば最期までそれを信じてシャルレスは動く。神騎士学園ディバインスクール〈フローライト〉を壊させるなんてことを許す訳にはいかないのだ。


「明後日……。勝手な主人に最期まで付き合ってよ……〈ミツハノメ〉」


 手にとった神器は、この不思議な光が散乱する部屋の中でも、決して褪せることも、何かに交わることもない輝きを宿していた。

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