3―3 流れるもの
拳に伝わった衝撃から、ラヴァスは勝利を確信していた。
硬質な物体を砕き、深部の柔らかい物体にまで衝撃が伝わった。常人ならば即死級の致命傷であることは疑いようもない。魔素再生があるシャルレスならば死にはしないだろうが、それでも確実に精神を削る一撃だ。
「――…………」
吹き飛ばされて膝をついたシャルレスは、腹部を手で抑えたまま動かない。
本来であれば自分から後ろに飛ぶことでいくらか衝撃をいなせたはずだが、屋敷を破壊しないために、シャルレスはその場で衝撃を抑え込む選択をしていた。結果的にほぼ全ての力が腹部に集中し、内部の組織は半壊状態のはず。いっそ両断された方が再生自体は容易だっただろう。
ほだぼたと血を吐くシャルレスの前にラヴァスは立つ。
「気分はどうですか?」
ラヴァスは追撃せず、少ない言葉でシャルレスを嘲る。目の前で膝をつくその無様な姿を見ることが、ラヴァスにとっては何よりの楽しみだった。
「こんなものに騙され、乱されて……つくづく理解に苦しみます。無意味な感情に踊らされる人間を見るのは心躍りますがね」
「…………」
シャルレスは何も言わない。動きもしない。再生の最中なのだろうが、ただでさえ傷を負い、精神を削られていた状態だ。再生速度そのものも大幅に落ちているだろう。
流れる血とともに魔素もまた流れていく。確実にシャルレスの余力が失われていく。
「……もう少しこのまま見ていたいところですが、生憎とあまり余裕もありません。終わらせましょうか」
無慈悲な宣告とともに、ラヴァスが拳を振り上げた。
ラヴァスの全力の一撃は、例えシャルレスがかわしたとしても屋敷を破壊する。その混乱に乗じれば、ただでさえ瀕死のシャルレスの排除と退却は容易だろう。
どう転んでもラヴァスの勝利は揺るがない。
万全を期して、ラヴァスは必勝の一撃を振り下ろした。
***
――少し時間は前後する。
屋敷にて、ニーナに化けたラヴァスとシャルレスが相対する、その五分ほど前。
グローズを追跡していたミカは、深い森に分け入っていた。
時間帯も相まって、森は鬱蒼とした雰囲気に包まれている。月明かりが入らず視界が悪い上に、風で不規則に枝葉が擦れざわめく。隠れるならばもってこいの場所だ。
先行していた〈天狩〉と〈疾乱〉には既に合流しており、この付近にグローズが隠れていることは間違いない。しかし、これだけ枝葉が茂っていれば〈天狩〉の視界は悪く、この障害物の多さでは〈疾乱〉の速度は発揮できない。神能“召獣”によって召喚された神獣は、一度破壊されると再生にインターバルを要するため、不要なリスクを避けるために〈ケルヌンノス〉に再格納されていた。
走力はグローズよりもミカの方が高く、平地を走ればミカに確実に追いつかれることを想定した上で見通しの悪い森に逃げ込んだのだろうが、それで姿を見失うほどミカは愚鈍ではない。
寸前まで神獣が集めていた情報に加え、周囲の地理的な情報、敵の思惑、わずかな痕跡といった、ミカが得る全ての情報が一点に収束していく。
「…………」
すぐ先にある茂みを見据えたミカは、無言のまま〈ケルヌンノス〉を構えた。
ぴたりと定まった剣が、一瞬のタメの後に振るわれる。
揺らぎない一振りから放たれた、宙を駆ける不可視の斬撃が、茂みを斬り裂く――寸前で、茂みの奥から飛んできた同じ軌道の斬撃に弾かれた。
ガィィィィン……! と硬質な音が森に響く。
「……隠し通せるとは思っていなかったが、早いな」
茂みから現れたのはグローズ・ノッグズ。潜伏は無駄だと悟ったのだろうが、堂々とミカの前に姿を晒しながら、焦りや緊張は見受けられない。
「こちらに争う意思はありません。お話を伺えれば、手荒な真似をする必要もなくなります」
「ほう。戦いたくないなら黙って斬られてくれ。それで全て終わりだ」
得物の長剣がわずかな明かりを反射し凶悪に輝く。少なくとも、おとなしく話を聞くつもりはなさそうだ。
神器使いにして私騎士団の団長であるグローズ、その実力は折り紙付き。しかし、それでもなおミカとの間には明確な実力差があることはグローズも分かっているはず。だからこそ戦闘を避け、逃げるように屋敷から離れたとミカは推測していたが。
「死ね」
端的な言葉とともに、グローズは猛然とミカに詰め寄り、その剣を振り下ろした。
瞬間、情報からミカの思考が導く脅威――その数、五件。
金属と金属が衝突する音が鳴り響いた。
「……チッ、この人数で仕留められないのか」
グローズが隠すつもりもない不満と共にミカを睨めつける。既にミカは先程の地点から離脱し、大きく後退していた。
そして、ミカが寸前まで立っていた地点を囲むように突如現れたのは、四人の神器使い。
「全員の生存を確認。概ね予想通りですね」
――それは、最近第三街区で行方不明になっていた実力者たち。報告があった顔ぶれと、この場にいる全員が完全に一致している。グローズが失踪した件とそれ以前の実力者の失踪にはやはり関連があったということだ。
これだけの人数を隠しておき、奇襲を仕掛けるための森。グローズの逃亡はこの地点にミカたちを誘導するための陽動。
計五人の実力者と相対しながら、ミカは冷静に周りを観察する。
神器使いたちは攻撃を仕掛けてこない。周囲を警戒しているのか、視線がわずかに揺らいでいる。恐らくはシャルレスの不意打ちに備えているのだろう。
現在シャルレスは屋敷内部で敵襲を警戒しているが、そのことを神器使いたちが知る由はない。ミカが屋敷を出てしばらくは〈蜃気楼〉によるシャルレスの幻を見せていたため、その情報が伝わっているのであれば、今もシャルレスがどこかに潜んでいるのではないかと疑うのは当然のことだ。
さらに言えば――
「あくまで陽動、時間稼ぎが目的ということですか」
恐らくこの神器使いたちは、ミカを殺すことを目的としていない。より正確には、足止めさえできれば十分、殺せれば僥倖程度の認識だろう。
粗雑な振る舞いではあるが彼らの思考は冷静かつ的確だ。自律的な行動を取り、集団での連携も問題なく行えている。複数人が同時に動いている以上、敵が化けている可能性も低いだろう。
――精神操作の類か。ミカはそう見当をつけた。この場で解くことができれば最上だが、ミカの能力ではそれも厳しい。
であれば、今最優先すべきは身柄の確保。
「戦闘を開始します」
〈ケルヌンノス〉ととに、ミカは片眼鏡を光らせた。
***
「…………」
拳を振り下ろした姿勢のまま、ラヴァスは硬直していた。
直前に振り下ろされたラヴァスの一撃は、シャルレスの頭部を捉えた。確実な手応えと音とともに、その一撃はシャルレスの頭蓋骨を砕いていた――はずだったが。
「…………死に損ないが」
拳の先にあったのは〈ミツハノメ〉。その刃でラヴァスの拳は止められていた。
シャルレスは接触の寸前に厚い氷を生成し、この氷を砕かせることで拳の威力を散らしたのだ。結果として屋敷を破壊させずに拳を〈ミツハノメ〉で受け止めることに成功していた。
それでも、上から力を加えられる体勢のラヴァスが圧倒的に有利。このまま押し込もうと力を込めたラヴァスは、しかし、そこで違和感を覚えた。
――押し込めない。どれだけ力を込めても、〈ミツハノメ〉の位置が変わらない。
「…………!?」
先程までの攻防から考えても、明らかに膂力はラヴァスが勝っていたはず。まして姿勢や消耗によるアドバンテージを加えれば互角なはずがない。
不可解な現象、そして、死に体のシャルレスの抵抗に苛立ったラヴァスは強引に〈ミツハノメ〉を弾き、全力を込めるべく振りかぶる。
「死ねッ!」
純粋な殺意とともに、シャルレスへと迫る拳。
いなすどころか威力を散らすことさえも困難な一撃に対して、シャルレスはゆっくりと短剣を引いた。
――体の内部では今もなお再生が続いている。体内外の魔素が蠢き、シャルレスの意識に関係なく組織を再生していく。
その魔素の動きを制御することはできない。ただ、動きを感じることはできる。瀕死に至るほどのダメージを受けたからこそ生じる爆発的な魔素の奔流を、今のシャルレスは明確に掴み取る。
ミカの“操魔”による魔素の固定を受ける中で、シャルレスは直感的に理解していた。自身の体内を巡る魔素、その流れと肉体の関連を。どのように魔素が固定されれば体が動かなくなるのか。どのように魔素が流れれば体が動くのか。
そしてそれはつまり、魔素の流れから肉体の動きをイメージできるということ。
今初めてシャルレスは理解する。“操魔”による訓練と、魔素の奔流を経て、自身の肉体が秘めていた可能性を。
迫りくる拳を、シャルレスが閃かせた〈ミツハノメ〉は容易く弾き返した。
「な…………ッ!」
相手の全力の攻撃を、真正面から弾き返す。それは、膂力で上回って初めて実現可能な芸当。
魔素の流れは操作できない。しかし、体内の魔素の巡りを把握し、自身の肉体操作を最大限に同調させることで、擬似的に身体能力を底上げすることはできる。
「…………〈魔流賦活〉」
前髪から覗くシャルレスの瞳がラヴァスを捉える。
感情の見えないその色が、ラヴァスに初めて明確な危機感を覚えさせた。
「――くッ!」
思わず守勢に回ったラヴァス。腕を引き戻し、防御を優先した構えに切り替えたときには、しかしシャルレスはその背後に立っている。
揺らぎない斬線が、ラヴァスの首筋に走っていた。