2―4 黒勢襲来
神壁の上に佇む悪魔二体。二組の双眸が見据えるのは、遙か彼方に存在する神騎士学園〈フローライト〉。
「遂にこのときが来たのですね。何故でしょう、体の震えが止まりません。今すぐにでも忌まわしき人間どもを斬り捨ててしまいたい!」
向かって右に立つ悪魔が隠しきれない笑みを浮かべながらそう言った。一見すれば繊細そうな美男子だが、微かに吊り上がった口の端から覗く牙が悪魔の本性をあらわにしている。
“四選魔”が一体、クリューエル。鎧の類いは身に付けておらず、礼服のような黒い衣装を纏っている。腰に吊られた長剣の鞘は禍々しい装飾がなされており、騎士が用いるものとは似ても似つかない。
「落ち着け。貴様らは事を前にすると短絡的になる癖がある。大局を見ろと常に言っているだろうが」
他方、クリューエルを窘める悪魔、ベル。“四選魔”の直属の上司にあたる存在で、その絶対的な覇気は一切の生物を近付かせない。本能ある鳥獣は逃げ出し、抵抗する愚者は無残に散る運命を辿るからだ。
並び立つ二体は間違いなくこの世界に存在する悪魔の最上位に君臨する者たち。その位は上位級と表現することさえ愚かだ。神王国ゴルジオンのような悪魔への備えが万全な国でさえなければ、一体で国一つを落とすことも容易い災厄そのもの。
そんな悪魔たちが狙いを定める学園が絶望で満たされるのは、もはやそう遠い未来ではない。
「手筈は説明した通りだ。いついかなる時だろうと俺の命令には絶対に従え」
「仰せのままに。必ずやご満足いただける結果を勝ち取ってみせましょう」
仰々しい口調と共にベルへと一礼するクリューエル。ベルはそちらを一瞥もせずに〈フローライト〉を見据える。
ゴルジオン陥落を目指すにあたって最大の鬼門となるのがこの第二街区だ。他にも厄介な組織や神騎士がいることは否定しないが、そんなものは“四選魔”を一斉にぶつけてしまえばどうにかなるとベルは踏んでいた。
ベルが今回〈フローライト〉を襲撃するにあたって“四選魔“を全員召集させなかったのは、ミコトの未来視を恐れてのことだ。あの忌々しい瞳は、起こり得る事象の不確かさが小さくなれば小さくなるほど正確に未来を視通す。容易に事象をねじ曲げられる存在がいれば予測をかき乱せるが、それは同時に事象を確定させる因子が含まれるほど確実に未来を視透かされてしまうことを意味するのだ。
つまり、不用意に未熟な人員を増やせば増やすほど、ミコトは正しく未来を視ることが可能になる。ベルですら事象に関わっていることを視られてしまうのだから”四選魔“ならば尚更だ。もしも”四選魔“を全員投入しようとすれば、ミコトはすぐにそれを察知し王国内の戦力を集結させるだろう。
それを防ぐための最低戦力がこの二体。残りの”四選魔“たちに各街区を襲撃させる可能性を残せば、ミコトとて戦力を一極集中させる訳にもいかなくなる。ミコトが「王国」の平和を目指す以上それは間違いない。
「……忌々しい…………」
小さく苛立ちを漏らすベル。あの瞳の真に厄介な点は、このようにして敵戦力すら戦わずして削がれてしまうところにある。特に不意打ちを狙う側からすれば相性は最悪と言っていい。
『読み合いには自信がある』とかつてミコトは言っていたが、ベルに言わせれば読み合いに勝てるかどうかなど関係ないのだ。なぜならば、読み合いに勝とうとしたときにはもうベルの駒が制限されてしまうのだから。未来視を無視して真正面から全面戦争をするか、十分な戦力を注ぎ込めないまま五分五分の争いを仕掛けるかの二択に絞らされてしまう時点でベルには不利なのである。
そう、これは一種の賭けだ。認めたくはないが、〈フローライト〉が擁する戦力は十分に強大であり、ベルたちが必ず勝てるという保証はどこにもない。一見追い詰めているようでありながら、実のところ追い詰められているのは悪魔側なのだ。ミコトの瞳があるかぎり、時間は悪魔に味方してはくれない。
――もちろん、ベルが勝算なく挑むはずはないが、全てはその策略が上手くいくかどうかである。傲岸不遜に振る舞いながら、ベルは自身を含めた全滅をも覚悟していた。
周りの魔素がざわめくのを感じる。それは拒絶ではなく親愛の表れだ。近しいもの――否、深く祖をたどれば同一といっていい存在たちを前にして、魔素が活発に動いているのだ。
「――頃合いだ。始めよう」
一言ベルは呟き、同調するように笑みを深めたクリューエルと共にその姿はかき消えた。
***
『各員に通達。悪魔襲撃が視えた。至急〈フローライト〉へ集合せよ』
同時刻、神騎士学園〈フローライト〉学園長室にて、そんな短い通達がミコトの口から発せられた。
〈天声〉にて各神器使いに届いた声は、事前に取り決められていた応援要請のためのもの。神器を持つ一部生徒と“王属騎士団”の上位騎士に向けられ、直にこの〈フローライト〉へと集まるだろう。
未来の不確かさは時を追うにつれ小さくなっていく。その様はまるで漏斗のように、時間が進めば進むほど事象の在り方は収束していくのだ。ミコトの瞳もまたそれに呼応し、近い未来ほど確実に視ることが可能になる。
そんなミコトの瞳が捉えた未来で、悪魔たちの襲撃が確定した。実際に起こるのは一時間後か三十分後か――いや、ベルを前にしてそれほど早く視ることができるとは思えない。
立ち上がり、学園長室を出たミコトは、校章を用いた通話で学園の教官に一斉に指示を出す。万が一の場合の対応は既に確認済であり、迅速に校内放送が流れ、生徒たちの避難が始まった。生徒たちは一切の事情を知らされていないが、常日頃からこうした有事の際に備えた訓練をしているため動きはスムーズなはずだ。
加えて今日は授業のない日曜、校内にいる生徒の数はいつもよりも少ない。混乱さえ起きなければ一般生徒の避難は問題なく進む。
そんなことを考えながら学園を出たミコト。そこには防衛の任を任せられた教官たちが既に整列しており、長の準備を待っていた。
「すまない、諸君。面倒をかけてしまうな」
「今さら何をおっしゃいますか。この程度の面倒事など、学園長のお守りに比べれば可愛いものです」
そんな軽口を叩いたのは普段から学園長の補佐を務めるノルン。強化聖具を振るう実力者でありレインたちの担任教官でもある彼女は、こんな事態にも全く動揺していないようだ。
いや、ノルンどころか慌てる者などこの場に一人もいない。各自が数多の経験に裏付けられた自信を持つ猛者であること、そして学園の絶対的守護者であるミコトがここにいることが、彼らから不安を取り除いていた。
頼もしい面々を一瞥して、ミコトは微笑みを浮かべた。
「――確かにそうかもな。まだ仕事が残ってるんだ、悪魔にはさっさと撤退してもらって書類を片付けなければ」
ミコトが振り向き見上げた先。広い校庭の上空に浮かぶ二つの影。
瞬間、ビリッと場に緊張が走った。そこにいるのが紛れもない災厄なのだと全員が認識し、気を張ったのだ。
静かに集中が練り上げられていく中で、しかしミコトは気負う様子もなく一歩前に出た。
「久しいな、ベル。今日こそ覚悟はしてきたか?」
視界に収めることさえ体が拒否してしまうほどの災厄に向け、半ば挑発じみた言葉を投げ掛けるミコト。対する災厄――ベルは薄く笑った。
「そちらこそ、今回は準備も万端のようだ。せいぜい楽しませてくれ」
前回ミコトとベルが会したとき、ミコトは重傷を治すために体力を消耗しており、万全とは到底言い難い状態だった。そのときに比べ、今はミコトの傷も完治しており全力を振るうことができる。
ミコトの傷の完治によりベルにとっては不利な状況のはずだが余裕は崩れない。顔に貼り付けられた笑みからはいかなる感情も読み取れなかった。
「なるほど、アレが例のミコトとやらですか。確かにクロノスの気配を宿しているようですね。……私が先に相手をしても?」
口を出したのはベルの横に浮かぶ礼服姿の悪魔。ベルが返事をする前に既に剣のグリップを握り締めており、いつでも抜ける状態だ。急襲を予期した教官が素早く臨戦態勢を取るが、結果的に剣が抜かれることはなかった。
「……ん?」
ズパッ、と。
いつの間にか、悪魔の手首から先が切断されていたのだ。
「ふざけるなクリューエル。つい先程言ったばかりだろうが」
斬ったのはベル。右の人差し指の周りで魔素が可視化されるほど異様に蠢いていた。教官たちには黒い瘴気が見えたことだろう。
ベルはその表現し難い色の瞳をクリューエルへと向けた。
「それとも――もう一度眠りにつきたいか?」
圧。感覚的なものではない。直接向けられた訳ではない教官たちが確かに力として感じるほどの威圧。
魔素再生によって右手を再生したクリューエルは姿勢を正し、下手に何かを言うことはせず後ろに下がった。共に最上位の悪魔とはいえ、絶対的な差がこの二体の間にはあるのだ。
「……なるほどな。貴様に塗り潰され全く視えなかったが、増援を喚んでいたということか」
ベルの威圧を目にしてなおミコトに萎縮する様子はない。ベルもまた、ミコトの反応に対して驚くことはなかった。
視線を戻したベルは、一度周囲を見回し呟く。
「ふむ……まだ奴はいないのか。まあいい。やれることはやっておかなくては」
掲げた右の手のひらの上に魔素が集まっていく。自由自在に魔素を操るベルが創り出すは巨大な魔方陣。一つではなく、上空を埋め尽くすほど大量の不吉な陣だ。
「〈悪魔の軍兵〉」
転移魔法が行使され、陣は怪しい光を放ちながら次々に悪魔を吐き出していく。産声を上げるかのように怒声を響かせ、地面に落ちた悪魔たちは一様に教官たちを睨めつけた。
下位級がほとんどだが、数が多い。百は下らないだろう軍勢が校庭の一部を埋め尽くしている。醜く涎をたらし、目からは生気というものを一切感じない。殺戮のみを目的に、悪魔はそのときを待っている。
「学園長、お下がりください――」
ノルンがミコトに先んじて剣を抜く。
雑兵の処理はミコトがするべき仕事ではない。周りの教官たちも各々の武器を手に突撃の構えをとったが。
「いや、諸君たちこそ下がりたまえ」
ミコトはいつの間にか〈クロノス〉を抜き放っていた。
「ここは私一人で十分だ」
チン、と〈クロノス〉が鞘に納められ――悪魔が一匹残らず斬り伏せられたのだと教官たちが気付いたのは、悪魔の残骸が校庭に散らばってからだった。
「…………!」
〈クロノス〉の神能、“時操”。自身の時間の流れを操作するその力で、ミコトは悪魔を瞬きの内に滅したのだ。
斃れた悪魔の屍体は、たちまち靄のように姿を変えた。瘴気にも見える悪魔の成れの果ては誰に命じられることもなくベルのもとへと集まっていく。本来、生粋の悪魔は死しても屍体が残るはずだが、どうやらベルに魔素が回収されているらしい。
「諸君らは生徒の避難の応援に向かってくれ。悪魔が湧いているのはここだけではないようだ」
ミコトの鋭敏な感覚が、学園の各所で湧く悪魔の気配を捉えていた。悪魔は性質上より多くの人間に集まるため、黙っていれば生徒たちが集合している避難場所へと群がってしまうだろう。
避難中の生徒の中にはまだ十分に戦うことのできない者たちもいる。既に十余人の教官が避難を誘導してはいるが、この悪魔の数を考えると安心はできない。
ノルンたちもすぐにミコトの意図を汲み取った。自分たちが避難の応援に行くということはつまり、この場にミコトを残していくことになるが、ミコトが「一人で十分」と判断したのなら指示を拒否する理由はない。「了解しました」と短く応え、ノルンたちはすぐに避難場所の方へと向かった。
「クリューエル、お前もあちらへ行け。指示通りに事を成せ――俺を失望させるな」
ベルもまたクリューエルに指示を出す。クリューエルは恭しく一礼すると、教官たちと同じ方向へと飛んでいった。教官たちへ攻撃を加えるつもりならばミコトとて黙ってはいなかったが、クリューエルは大人しく後をついていくだけのようだ。
さしものミコトといえどベルを相手取りつつ“四選魔”の一体と剣を交えるだけの余裕はない。少なくとも今はベルの方が優先度が高いと判断し、クリューエルの後は追わずベルに意識を集中させる。
浮遊していたベルはゆっくりと降下し、やがて地面から拳一つ分ほどの高さで止まった。
「……さて、これで邪魔は消えた。また下らない問答でもするか? 俺はそれでも構わないが」
空気がざわつく。辺りの魔素が一斉にベルのもとへと集まっているのだ。これだけ活発に魔素が引き寄せられるのであれば、魔素切れは期待するだけ無駄だろう。
「いや、もはや聞くこともない。ここで貴様を倒せばそれで終わる。……貴様が直接出てくるということは、それだけ悪魔も後がないということだろう?」
全てを見透すミコトの瞳――“視知”がベルの過去を暴いた。“四選魔”が各街区を攻めるという計画が明らかになったのだ。
他の街区は“四選魔”に任せたベルが第二街区の侵略に加わった理由は容易に見当がつく。つまり、ベルはこの第二街区を落とせるかどうかに賭けているのだとミコトは見抜いた。
防衛できれば人類の勝利。落とされれば悪魔の勝利。
王国の命運は、間違いなくこの戦いに委ねられている――
「死ね」
漆黒の刃がミコトの腹部を貫いたのは、そんなことを考えていたときだった。
「…………?」
腹から生える不定形の刃。ベルが宙に生み出した凶刃が背後から容易くミコトを串刺しにしていた。
ミコトの表情は変わらない。貫かれたことをまるで理解していないような無機質な表情のまま血を吐くこともなく――
「――!」
――ジジ……と霧散した。
「〈永遠なる刹那〉」
パリィィン!! とベルの周囲で硬質な音が響き渡ったのは、ミコトの姿が霧散した次の瞬間。
ベルの眼前にはミコト。砕け散ったのは障壁。
〈残存する過去〉。“時操”によって移動速度を制御し、残像を最大限に残すミコトの技。ベルの刃が貫いたのはあくまで過去のミコト。
そしてミコトが砕いたのは〈魔障壁・延衝〉。従来の〈魔障壁〉に衝撃遅延の効果を付与したベルの独自魔法だ。衝撃そのものを防ぐ性能は〈魔障壁・阻〉等に劣るが、受けた衝撃の伝播を阻害し術者に時間的余裕を与える。攻撃や魔法の完全遮断を目的としている訳ではないので、障壁に覆われた空間にも外部から魔素が供給されるのが特徴だ。
対ミコト用にベルが練り上げた障壁が計十枚。ミコトが砕けたのは八枚まで。“時操”を以てしても、障壁を貫通することはできない。
追撃は危険だと判断し飛び退ったミコト。その間隙にベルは無詠唱で障壁を張り直す。同時に十枚の障壁を張るなど常識では考えられない技術だが、この悪魔に対しては常識など端から通用しないと考えていい。
本来障壁は定位置に固定して張られるものだが、〈魔障壁・延衝〉はベル自体を常に覆うように行使されているらしい。よって、ミコトが隙を突いて急襲しても障壁を掻い潜ることはできない。ミコトにとっては相性は最悪と言えるだろう。
「その程度か? 貴様の力とやらは。外見も能力も随分と可愛らしくなったものだ」
「この姿を褒められるのは久しいな。案外悪くない」
皮肉に軽口で応えてミコトは一度〈クロノス〉を鞘に納めた。グリップから手は離さず、いつでも抜剣できる状態のままベルを見据える。
片や人間。片や悪魔。
そしていずれも極に達した者。
極限の戦闘の火蓋は、ついに切られたのだ。




