2―3 渡されるもの
「…………ふっ!」
先手を取り自ら距離を詰めていくレイン。”翔躍“をまだ使っていないのは、不用意に近付くことのリスクを恐れたからだ。〈顕神〉を経ても異能が変化することはないはずだが、予想だにしない手をシウネが取ってくる可能性は否めない。
対するシウネはクナイを持つ手を素早く閃かせた。まだクナイの届く範囲ではないはず――と訝しんだレインの視界に、微かに黒光りする飛翔体が映り込む。
「…………!」
視界の奥、シウネの手に既にクナイはない。つまりシウネは一度クナイを適当な方向へ投擲し、”転慟“を用いてレインの視界外でクナイの向きを変えた。
気付いたときには、レインは反射的に”翔躍“を行使していた。まともに動いていたのでは間に合わないと即座に理解したからだ。
眼前に迫っていたクナイをまさしく神速の剣捌きで弾き返したレイン。クナイは相反する力を受けて吹き飛んだが、”転慟“がエネルギーの絶対値に作用できない以上、持ち主の元に帰るにはある程度の時間がかかる。レインにとっては十分な猶予となり得る時間だ。
絶好の好機と足に力を込めたレイン。しかし次の瞬間、その足に鋭い激痛が走った。
「がっ……!?」
不可解な痛みに足を見れば、ふくらはぎの部分に細い針が三本刺さっている。親指ほどの長さしかないごくごく小型のものだが、感じる痛みは明らかに異常と思えるほど大きい。
なぜこんなものが刺さったのかについてはすぐに分かった。シウネはクナイと共に、この小型の針を投げていたのだ。恐らくは気付かれにくい床すれすれを滑走させ、レインがクナイに意識を割いた隙に再び針を操作したのだろう。
そして、レインはこの針の真の恐ろしさを知る。
「……く、そ…………麻痺か…………!」
がくりと膝が折れ、床に手を着くレイン。その手すら震え、体を支えるのも困難になっていく。
針に塗られていたのは麻痺毒。神能や異能ではなく自然由来のものだ。特殊な力によるものならば“虚無”で無効化できるが、原理的に生物を蝕む毒を消すことはできない。
「か……っ、くは…………」
喋るどころか呼吸すらまともにできなくなるほどの猛毒。それも著しく即効性の高い致死毒だ。肩から床に倒れ、手足が急速に冷たくなっていくのを感じる。遠くから足音が近付いてくる。
もはや首も動かせないほどに自由を奪われたレインの頭の近くで足音が止まった。
「“漆黒の勇者”もこの程度? 案外あっけないわね」
呆れた――というよりも興味を失ったシウネの声がレインの耳朶を打つ。反論しようとすることさえもできず、掠れた呼吸音がレインの口から漏れ出た。既にレインが自由に動かせる部位はない。
本来ならば、レインが麻痺程度でここまで絶対的な窮地に陥ることはありえないのだ。神能、異能の類いならば“虚無”で解除でき、自然毒だったとしても適切な治癒魔法を使えば無毒化ないし軽減が可能なのだから。
しかしなぜか、この辺りには一切の魔素が存在していなかった。多少の空気の淀みはあれど、街の中に存在するこの廃屋でここまで魔素が欠乏しているのは不自然にほかならない。毒を軽減する治癒魔法の消費魔素は決して大きくないが、それすら使えないほど魔素が薄いのだ。
いよいよ呼吸ができなくなり、視界が霞んでいく。声を発することもできず衰弱していくレインは死を意識した。まさかこんなところで死ぬのか、シウネは本当に俺を殺すつもりなのかという疑問が次々に頭に浮かぶ。
悪魔ではなく人に、それも一応は仲間であるはずの神騎士に殺される未来を思い浮かべたとき、突如強い声が脳裏に響いた。
『己れの力を使え。加減はいらない。この空間を消去しろ』
「…………?」
タナトスの強い思念がレインの意識を無理矢理引き戻した。指示に対する疑問は浮かんだものの、それを問うている時間はない。
“虚無”は現実の物理的事象には効果を及ぼせない。例えばものや人を直接消すことはできないし、重力や静電気力といった一般の力を消すことも不可能だ。当然それは空間も同じで、空間そのものを消すなどということができるはずはない。
だがタナトスがそうしろと言ったのだ。レインはそれに従い、残っている精神力を振り絞って神能を発動させるのみ。
「……何をするつもり?」
異変を察したシウネが訝しむのと同時、タナトスから濃厚な闇が溢れ辺り一帯を飲み込んだ。
〈無能空間〉――“虚無”で満たされたこの空間では、あらゆる能力は打ち消され消滅する。
闇が廃屋全体を包み込んだとき、その壁に亀裂が入った。
「……! “鏡界”を…………!」
――いや、廃屋の壁そのものというよりも、壁のように見えていた透明な境界面がヒビ割れている。明らかに木ではない、甲高い音とともに亀裂は広がっていく。秒を追うごとに大きくなっていく亀裂は、やがて境界面を自壊させるに足る規模へと達した。
ビキリ! と一際大きな音が響いた途端、レインの霞む視界は純白に包まれ――
「…………え?」
――いつの間にか、レインは廃屋の扉の前に立っていた。
手足の痺れは全くない。それどころか〈顕神〉も解かれている。自分で解いたつもりはないにもかかわらず。
レインの手は扉の取っ手にかけられている。まるで、次の瞬間には廃屋の中に入るように――否、廃屋の中に入る瞬間の様子を再現しているかのように。
「…………」
ゆっくりと扉を開けたレイン。中ではシウネが腕を組んで仁王立ちしていた。〈顕神〉は解かれており、非常に不満気な雰囲気ではあるが、少なくとも先程までのような敵意は感じられない。
「今のは一体…………」
とレインが廃屋内部へと足を踏み入れ扉を閉めた瞬間、ごくわずかに――意識しなければ気付かないほど微かに壁が煌めいた。
「……!」
恐る恐る壁に触れてみるが、手触りは確かに木のそれだ。強めに押すと鈍く軋み、かなり脆いことが分かる。つまり〈無能空間〉で亀裂が入ったのはやはり壁そのものではなく、壁と同様に空間を包んでいた何かしらの能力ということか。
「――ま、及第点ってとこね。最後のは多少無茶な状況だったし、抜け出せただけでもいいことにしておくわ」
レインが廃屋の奇妙な仕組みについて思索に耽っていたとき、唐突にシウネが声を発した。
「及第点……つまり、合格ってことですか?」
「あくまで『最低ラインの』合格よ、勘違いしないで。あと敬語はいらない」
ぴしゃりと言い放たれてしまえばレインは口を噤むしかない。
シウネの口ぶりは不満そうだが、一応はレインも第零部隊に認められたということだろう。異論や反論の代わりに、山ほどある聞きたいことのうち、もっとも大きな謎についてレインは問うた。
「……さっきのは、あな……お前の神能か? 確か……」
霞む意識の中で、少女自身が口にしていた神能を思い出そうとしたレインに先んじてシウネは答えた。
「“鏡界”。それがアタシが持つ神器〈イシコリドメ〉の神能」
「“鏡界”…………?」
「現実の一定空間を模した仮想世界を創る能力。あくまで制限つきだけど」
シウネのぶっきらぼうな説明によれば――
シウネの保有神器〈イシコリドメ〉の神能“鏡界”。予め設定した一定空間を完全に再現した仮想の世界を一時間限定で構築し、任意の存在の出入りを許可する力。構築された仮想世界内に入ったものに対し、現実世界の時間効果は及ばない。つまり仮想世界で一時間を過ごしても現実世界では一秒たりとも経過していないということだ。
さらに、神器の持ち主であるシウネは仮想世界に対しいくつかの操作を加えることができる。それこそがレインが苦戦した理由の一つ。
「操作……魔素がなかったのもそのせいか」
シウネは無言で肯定する。恐らくは、廃屋の倒壊を防げたのも操作とやらのおかげなのだろうとレインは推測した。
この能力ならば、ここで起こった事象が誰にも察知できないというカイルの言葉の意味も頷ける。仮想世界内で何が起ころうと、それは現実世界に影響しない――そもそも何も起こっていないことと同義なのだ。
ミコトの過去と未来を視る異能“視知”も、あくまで世界そのものを視る力だ。一個人について過去を視る際には、個人の記憶や経験を参照している訳ではなく、個人周辺に規模を絞って世界を視ているだけに過ぎない。ゆえに、この仮想世界内での事象は察知できないはずだ。
「ここまで聞いておいて言うのも何だけど、そんなにぺらぺら話してよかったのか? 正直、俺のことはそんなに信用してないだろ」
シウネの瞳を見れば、そこからレインに放たれる視線が信用の色を含んでいないことは容易に分かる。レインとしても簡単に信頼を得られるとは思っていないし、ここから少しずつ距離を詰めていくしかないと思っているが、現時点ではシウネがレインに神能を明かす必要はないように感じた。
しかしシウネはそっぽを向きながら言った。
「どうせあんたも神器が目醒めてるんでしょ? だったら遅かれ早かれ分かることだし問題ないわ。それに、この神能を知っておいてもらわないと協力も何もできないじゃない」
「あ、そうか……」
至極当然の意見にレインは頷くしかない。出会い頭に戦闘になったせいで忘れていたが、レインとシウネはあくまで仲間、共闘関係にあるのだ。表立って何かを行う機会があるかは分からずとも、仲間の神能を事前に知っておくことは最低限必須なことだろう。
「じゃあ、俺の神器のことも」
「いい。イシコリドメが大体教えてくれたから。しかもこの目で見たし」
「…………」
“虚無”について説明しようとしたレインを遮ったシウネ。どうやら神器に宿る神が教えてくれたという。
〈顕神〉は人の体を通して神の力を再現する技だ。それはすなわち、人を依代にして神を体現することに等しい。極まった〈顕神〉はまさしく神――神器に宿る神そのものの復活を意味する。
それこそが神の「目醒め」であり究極の〈顕神〉だ。目醒めた神は自我を持ち、神器保有者とは独立する思考すらできる。実際に会話ができることからもそれは明らかだろう。
確かにタナトスもイシコリドメの神能に対して何かをレインに伝えようとしていた。タナトスがどれだけ他の神を知っているかは不明だが、タナトスがその神器を知ってさえいればレインが初見であっても情報を共有できる。実際にタナトスと情報を共有できるのは〈顕神〉を行使している最中に限られるとはいえ、大きなアドバンテージであることに変わりはない。
逆に言えば、神の目醒めを経験している神器使いと相対するときは、自身の神能は知られていると想定した方がいいということだ。
シウネもその方法で〈タナトス〉の神能を知ったらしい。であれば伝えるべきこともないだろうとレインは開きかけた口を閉じた。
「……あと、これ。団長があんたに渡せって」
シウネが言いながら放り投げた物体をレインは右手で掴みとった。手を開いてみると、そこにあったのはキラリと輝く銀の徽章。王冠とそれに集う剣の意匠が精巧に彫り込まれている。
「これは……“王属騎士団”の?」
「そう。それさえあれば“王属騎士団”の一員であることが証明できる。……まあ、アタシたち第零部隊は秘匿された部隊だから、堂々と見せびらかすことは歓迎されないけど」
シウネの口ぶりからすれば、実質的に使い道はないと考えていいようだ。万が一のときには“王属騎士団”の威光を振りかざせるという保険程度の認識で十分だろう。
具体的にこれを使う場面はすぐには思い付かないが、少なくとも持っておいて損することはない。目立たない鞘の端に嵌め込み、いつも通り透明化の術式をかけておく。
カイルが渡したかったものにしては、思いの外特別なものではなかった。もっとも彼が直接渡す訳にもいかなかっただろうし、レインが呼び出されたのは仕方ない話と言えるだろう。どちらかといえばシウネから課せられた試験とやらの方が重要だったようにも思える。
「じゃあ、俺はこれで……」
いずれにしろ、これで要件は済んだ。朝食を摂っていないことによる空腹を思い出したレインは、すぐにでも遅い朝食にありつくべく廃屋を後にした。
レインが、その後ろ姿を見送るシウネの視線に秘められた疑念に気付くことは、ついぞなかった。
***
「どう思う? アレ」
廃屋の中、一人シウネは呟く。返事はすぐにはなかったが、少ししてシウネの横の空間がぐにゃりと歪んだ。
歪みの中から現れ出たのは髪で目の隠れた青年と細身の男。男の腰には長剣が吊られており、青年の手には短剣が握られていた。
この二人もまた第零部隊に属する者たち。青年――カリム・キラフィスと男――ワクアー・ジル。
行使されていたのはカリムの神器〈オネイロス〉の神能“夢幻”。対象の「存在」を確約したまま実体を消すという特異な能力は隠密行動にこれ以上なく適している。単なる透明化や不可視化とは異なり実体そのものを喪失させるため、外部からの影響をほぼ無効化できるのだ。当然ながら光や音を直接捉えることもできなくなるが、魔法によって感覚を再現すれば問題なく外環境を感知できる。
「どう……って言われても。あれだけ〈顕神〉を使いこなせれば十分優秀だと思うけど。正直、僕は勝てないよ」
素直にレインを評価するカリムは短剣を握る手を開いた。落下する〈オネイロス〉は床にぶつかる前に霞むように消える。“夢幻”によって実体を失ったのだ。
「違うわよ。単純な強さじゃなくて、何というか……こう…………戦い方に違和感があったでしょ」
「えー……?」
カリムは首を捻るしかない。そもそも戦闘要員ではないカリムからすれば、先程のシウネの戦闘にもついていけていないのだ。動き程度は追えても、ああも白熱した剣戟は繰り広げられないだろう。
一方でワクアーにはシウネの違和感なるものに心当たりがあったようだ。
「あんな剣の流派は見たことがない。……違うか?」
ワクアーの推測に、シウネは「そう!」と大きく同意した。
第零部隊に課せられる任務は多様だが、他の軍団との大きな違いは「対人」であることが強く想定されている点だ。基本的に悪魔と相対することが多い騎士団とは異なり、第零部隊は王国内部での動きに特化している。よって当然ながら対人戦闘を経験することも多く、彼ら三人――特にシウネとワクアーの対人戦闘の経験は王国有数と言えるほど膨大だ。
そんな二人だからこそ見抜けたレインの異常性――つまり、レインの剣にはどの流派の影も見えないのだ。かつて見たことがない全く独自の形式なのである。聞けばまだ学生であるらしいレインが我流の剣を持つことに二人は違和感を抱いていた。
剣は持つ者によってその在り方を大きく変える。ゆえに長いときをかけて基本の剣術が原点と異なる作法を持つことは珍しくない。基本から逸脱し、ときに我流と呼ばれるそれらを体得した騎士は確かに存在する。
しかしそれは、たかだか十数年で得られるものではない。人が一生をかけて剣を振っていく中でやがて到達するものであり、学園の生徒がおいそれと手にできるものではないのだ。
「我流だから強いなんてことはないけど、そもそも妙なのよね。剣の振るい方に統一性がないのよ。神が憑いてたようには見えなかったのに」
「――確かに、我流にしては何に重点を置いているのか分からなかった。いや、我流というよりはむしろ、全く異なる剣を無理矢理一つにしたような…………」
シウネが無言で同意する。カリムには全く理解できない話だが、どうやら二人は確かに理解しあえているらしい。
神の目醒めを経験している場合、〈顕神〉中にかぎり、神が神器保有者の肉体を操作することができる。俗に「神憑き」と呼ばれるその状態では神が肉体を操るため、戦い方が大きく変わることもままある。
しかし戦闘中のレインからはそのような気配は感じなかった。最後までレイン本人が剣を振るっていたとしか考えられない。つまりレインは、戦闘において全く一貫性のない剣を振るっているということになる。
無言で思索に耽るシウネとワクアー。しかしカリムがその思索を中断させた。
「二人とも、彼の素性については気にするだけ無駄だよ。団長が彼を招き入れたのなら、僕たちが否定する理由はないはずでしょ」
第零部隊の掟として、カイルには絶対の忠誠を誓っている三人。カイルの考えを詮索するのもまたルール違反だ。彼らは命令さえあれば、時として人をすら殺す者たちなのだから。
「んん―……そうね。下手な勘繰りはやめておくわ」
シウネは渋々ながら思考を止めた。ワクアーもまた首を振る。カリムの言う通り、カイルの指示を否定するつもりは二人にはない。
「じゃあ僕は持ち場に帰るよ。ワクアーはどうする? 戻るなら一緒に行くけど」
「お願いしよう。この路地をまともに戻るのは面倒だしな」
「違いないね」と笑いながらカリムはワクアーに触れ自らに“夢幻”を行使した。実体を失った今、カリムに障害物は存在しない。どんな空間であろうと直線的に移動することが可能だ。
レインは“鏡界”の疑似空間ごと消去したが、疑似空間の外に出れば強制的に現実へと戻される仕組みだ。ほどなくしてカリムとワクアーがこの仮想世界から抜け出たことを察知したシウネは、維持していた神能を解き、自身も現実に戻る。
視界内の光景は変わらないものの、壁や床が一度だけ微かに光を放ち、“鏡界”が解除されたことを告げる。
「…………」
無言のまま、どこか釈然としない表情で、シウネは廃屋を出た。




