2―2 第零部隊
「や……やっと着いた…………」
占い師と分かれた後、散々路地を駆け回ってついに例の廃屋を見つけたレイン。前回訪れた時と違い今は昼間だが、周りが明るいだけにその陰鬱な様相はさらに度合いを増していた。
占い師と分かれた地点から遠くはなかったものの、直接たどり着ける道を見つけられなかったのだ。あの金網の奥には人気がなかったため、そこで近くの家屋の屋根に登って確認すればよかったと今さらながらレインは思った。
どうやらここが第零部隊の集合場所の定位置らしく、これからも度々ここに呼ばれることは容易に予想できる。道順を覚えないと……とレインはため息を吐いた。
そして――まだ廃屋から十歩は離れているというのに感じる不機嫌な気配。発信源はもちろん廃屋の中。恐らくはレインの到着を待っているのだろうシウネのもの。
「…………」
かつてない危険を本能が告げている。例えるならばそう、シャルレスのために剣を振るうミコトと相対したときのような。いや、不満を表すベクトルの向きは決して同じではないのだが、絶対値として似たものを感じる。
つまり今は、レインにとって極大の危機であるということで。
死にたくないなあ――と深く深く思いながら、レインはゆっくりと廃屋の扉を開けた。
「遅い」
途端、頬を撫でた死の気配。
「…………ッ」
レインがその一撃に反応できたのは直前から危機を警戒していたからだろう。集中していなければ、斬られたことにすら気付けなかっただろう致死の攻撃。
首を斬り裂く鋭い一撃をすれすれでかわしたレイン。何かを考える余裕もなく、体が半ば反射的に背に吊った剣のグリップを握る。
振り向いた先に、以前見た少女の姿はなかった。
二度、微かに聞こえた何かを叩くような音。いや――壁を蹴る音か。
確認するよりも早く、レインは反転の勢いを乗せた剣を思いきり振り払った。
手応えはない。しかし宙に一束の桃色の髪が舞った。
「はぁ!? 女の子に反撃とかあり得ないから!」
「いやいや、いきなり殺しにかかるとかあり得ないから!?」
レインの言い分を聞いた訳ではないだろうが、声の主は動きを止めた。レインの頭上、廃屋の梁の上。今にも折れそうな一本材は、しかし軋むことなく少女の体重を受け止める。梁が予想以上に頑丈――というよりは、単純に少女が軽いのだろうか。
少女はパーカーにショートパンツ、その下に黒いスパッツというラフな服装で、桃色の髪は後頭部の高い位置で一まとめにされている。手に持つのは短剣にも似た独特な形状を持つ武器だ。握る部分は輪のようになっており、そこと繋がる金属部分はおおよそ四角錐、先端に至っては鋭く輝いている。
レインも実際に目にするのは初めての、クナイと呼ばれる珍しい武器だ。恐らくは神器だろう。
シウネ・グロノア。学園に在籍していたならばまだ中等部生にしか思えない身なりでも、“王属騎士団”第零部隊に所属するれっきとした神騎士。異能や神能は不明だが、あのカイルが認めるほどの腕前を持つということは確かだ。
そのクナイを持つ手にさらなる力が込められるのを見て、レインは慌てて言葉を繋いだ。
「ちょっと待て、戦うつもりは――」
「アンタに戦うつもりがなくても、これは試験なの。手加減無用、本気で殺す!」
「手加減無用って俺側のことじゃ……うおっ!」
梁を蹴ったシウネのクナイがレインの頬を掠める。かわしきれず血が滲み、ピリッと痛みが走ったが、そんなことを気にしている場合ではない。
残像を追って振り返っても、すでにそこにシウネの姿はない。この狭い廃屋の壁や天井を使って跳ね回っているのだ。身軽というレベルを超えて、重力を無視しているかのような動きである。
シウネを一瞬見失ったレインの背後から迫るクナイ。狙いはやはり首。
「……殺されてたまるか!」
理不尽な現状への不満を込め、“翔躍”を解き放つレイン。先程と同じ、振り向き様、横薙ぎの一閃。
「…………!」
床を滑るように近距離まで接近していたシウネの目が驚きに見開かれた。
鈍い音を立ててクナイと〈タナトス〉が激突する。しかしレインの一撃はそれだけでいなせる威力ではなかった。シウネの細腕に、凄まじい力が加わる。
「ちっ!」
刹那の判断で、シウネは剣を受けながらも上に飛び、辛うじて無傷で剣撃をやり過ごす。だが――当然、剣そのものの威力は打ち消せるはずもなく。
勢い余ったレインの一撃の余波によって、廃屋に斬線が走った。
「…………あ」
気付いたときにはもう遅い。もとよりいつ倒壊してもおかしくないほどの荒屋がさらなる損傷を受ければ、たどり着く結果は一つ。
「崩壊」をありありと予期させる、何かが裂けるような音と共に、廃屋は崩れ――
「……〈現実回帰〉」
――突如、景色が揺らいだ。
レインの視界上の全てがぐにゃりと歪み――しかし次の瞬間には何事もなかったかのように景色は元通りになった。
そう、何事もなかったかのように元通りに。崩壊したはずの廃屋すら元通りに。
「何が…………?」
呆然とするレインに、シウネは告げる。
「今ので分かった通り、あんたが何をしてもこの空間は何一つ変わらない。アタシがいる限り絶対にね。だから、遠慮なくかかってきなよ」
「どういう意味……、ッ!」
思考する暇は与えられなかった。シウネが真正面から距離を詰めてきたのだ。
攻撃をかわしたところであの変幻自在な動きで撹乱されるのは容易に想像がつく。いっそこの廃屋を粉々にすれば厄介な移動も封じられるだろうが、どうやらシウネにはそれを無効化する手段があるらしい。
ならば――抑え込むまで。
「神剣技――〈真閃剣〉!」
「!」
シウネは眼前に迫ったレインの剣を受けた。いや、あまりにも速く接近していたがゆえに、避けることはできず受けざるを得なかった。
その初撃をきっかけに始まったのは今のレインが成しうる最大速度の連撃。相手に動く隙を与えない、乱舞にも似た剣の嵐だ。
上下左右、あらゆる方向からシウネを攻め立てるレインは、しかし勘づいていた。シウネはこの速度でも余裕を持って対処している。いつでも離脱できる余裕がありながら、レインの強さを推し測っているのだと。
それがレインの癪に触った。
キィン! と一際高い音を響かせながら大きくクナイを弾いたレイン。自ら連撃を途切れさせたレインをシウネが訝しむ。
「何のつもり? 自分から優位を手放すなんて――」
レインは一言だけ。
「目醒めろ〈タナトス〉」
途端、レインを包んだ漆黒。
シウネを含む第零部隊にはもとからレインの正体を知られている。初めて会ったあの夜に、レインの同意を得たカイルが告げたのだ。
もとより、ただの聖具使いが第零部隊に選ばれるはずはない。「試験」とは恐らくそういうことだ。
第零部隊にふさわしいかどうか、お前の力を見せてみろと、レインは試されているのだ。
「――〈顕神〉」
ボロボロの黒いコートに包まれ、仮面に覆われたレインの左瞳がシウネを捉えた瞬間、シウネの背を怖気が走る。
反射的にその場から飛び退ったシウネ。危機感ゆえに体が勝手に動いていた。
「……へえ。面白いじゃん」
その頬を流れた赤い雫。それは奇しくも――否、意図的にレインが受けた傷と同じ位置。
敢えて顔面を狙った突きは、レインの挑発に外ならない。
「“漆黒の勇者”だっけ? その実力、見せてみなよ!」
シウネは獰猛な笑みを浮かべ、深くしゃがみこむ。レインは敢えて動かずに剣を構えた。
「――“転慟”ッ!」
蓄えられたエネルギーは次の瞬間、音もなく放出される。
――絶え間なく続くのは軽い衝突音。発生源はこの廃屋の壁のいたるところから。
先程よりも速いシウネの高速移動。壁を蹴って移動しているだけとは思えないほどの速度だ。さらに、単なる高速移動というだけでなく、角度をつけた動きによって常に視野から外れるために、神器使いでも位置の把握は困難だろう。
どうやってこの動きを再現しているのかについては細かくは分からないが、恐らく異能によるもの。純粋な身体能力を以て壁を蹴っているだけならば、確実に壁に足が埋まってしまうはずだ。シウネが壁を破壊せずに跳び跳ねられるのには特殊な力が働いているとみて間違いない。
しかしいずれにしろ、レインには関係のない話で。
突如右腕を閃かせたレイン。振るわれた〈タナトス〉は一寸の狂いもなくシウネのクナイを弾いた。
「…………!」
キキキキンッ! と小気味良い音が連続して響く。それはすなわちレインがシウネを見切っていることの証明にほかならない。動かず、首も回さず、レインは高速で動くシウネを完全に捉えている。
「……なめるなッ!」
苛立ちを募らせたシウネがレインの懐に潜り込み、低い姿勢からの突き上げるような一撃を放った。やはりレインに防がれる――が、勢いは殺しきれず、レインの体が大人一人分宙に浮く。
シウネが口の端を吊り上げた。
レインが宙に浮いたそのわずかな時間で壁を蹴り、レインの背後から突撃したシウネ。狙うは左脇腹、空中に留まるレインに体勢を変える術はないはず――
「……なめてるのはお前だろ。異能、”翔躍“」
――そんなシウネの思惑は、レインの呟きによってかき消された。
クナイは、弾かれることなく空を裂いたのだ。
「……!?」
何もないはずの空中で右足を軸に舞うように反転し、レインはクナイをかわした。その足元には宙に張られた〈魔障壁〉。無詠唱で行使した透明な足場を用いて、一瞬にしてレインはシウネの予測を上回ったのだ。
レインの速度は、シウネを捉える捉えられないという次元をとうに超えている。“翔躍”をも用いたレインにとって、この程度の芸当は朝飯前のこと。
「神剣技――〈彗沈撃〉」
遅延する世界で、がら空きのシウネの背に向けて、地に叩きつける一撃を放ったレイン。
しかし。
「〈無理軌道〉ッ!」
――ヴンッ、と〈タナトス〉は空を斬った。
「…………!」
シウネが〈タナトス〉から逃れるように真下に降下し、致命的な一撃を避けたのだ。何もないはずの空中で、寸前のレインと同じように体勢を――いや、運動の進行方向を変えた。
〈魔障壁〉やその他の移動の助けになるようなものはなかった。つまり、恐らくこれこそがシウネの異能、“転慟”。
四つん這いで床に着地したシウネは、前方に翻ると素早く体勢を整える。やや遅れてレインも地に足を付けた。
不満を隠そうともしないシウネの猛々しい表情にも臆せず、レインは淡々と呟く。
「……なるほど。運動の向きを変える力か」
レインの呟きにシウネも一人言のように言葉を返した。
「力を増幅する異能なんて……生意気ね」
エネルギー量そのものを飛躍的に上昇させるレインの異能”翔躍“に対し、シウネの異能”転慟“はエネルギーの向きを操る力だ。
”翔躍“も負の方向への増幅によりエネルギーを逆方向へ転じさせることはできるが、あくまで本来の向きの直線上から逸脱させることはできない。一方”転慟“はエネルギーの絶対値には干渉できないものの、その向きを制限なく変化させることができる。似た力を持っているからこそ、レインとシウネは互いの能力を正しく察した。
「だからこそのあの動きか。ようやく理解できたよ」
シウネの縦横無尽に廃屋内を跳ね回る動きも”転慟“によるものだ。壁を蹴る際に発生する、壁向きの力を反射させることで、足が壁に埋まることを防ぐのと同時に強い加速力を得ていたのである。
力の向きを操作できるということは自身に向けられた力も反射できるのか――とも思ったが、レインはそれを否と判断した。レインの異能である”翔躍“が適用できるのはあくまで自身が発生させたエネルギーのみで、外部からの力には大きな制限がついてしまう。似た力である”転慟“もそれは同じのはずだ。第一、外部からの力を操作できるとすればシウネが頬に傷を負うことはなかったはず。
油断を誘うために敢えて傷を受けた可能性は否定できないが、いずれにしろ”翔躍“を使えばシウネの速度を上回ることができる。勝ちの目は見えずとも、現時点では負けの目は存在しない。
「お前の異能は分かった。もう終わらせよう」
余裕すら振り撒きながら宣言し、剣を構えたレイン。もちろんハッタリだ。シウネの底はいまだ見えず、第零部隊の一員を易々と屠れるとは思えない。だが、シウネは挑発が有効な手合いに思えたのだ。
「……それはアタシのセリフよ…………!!」
予想通りと言うべきか、シウネは激昂しクナイを握る手に力を込める。精神面は外見相応の幼さなのか、誘導は容易そうだ――と思ったレインだが。
「アタシを馬鹿にするとか……許さないから……!!」
「…………?」
シウネの覇気が変質していく。いや、ただ様相を変えるに留まらず、威圧感が膨れ上がっていた。これは――
『主、あの神器に宿る神は既に目醒めている。注意しろ』
タナトスが直接脳裏に声を送ってきた。神が目醒めている……それはつまりタナトスと同様に自我を取り戻した状態であるということで。
「……つまり?」
嫌な予感を覚えたレインの質問にタナトスは簡潔に答えた。
『主と同じく、完全な〈顕神〉が可能、ということだ』
絶望的な情報をタナトスが告げるのと同時に眩い光が視界を埋め尽くした。
完全な〈顕神〉を行使した場合、その戦闘力の伸びを推し量るのはほぼ不可能だ。単純な身体能力に加え神能や異能さえ強化されるのだから、〈顕神〉以前の強さなど当てにならない。人だけでは到達し得ない次元へ行使者を引き上げてくれるのが〈顕神〉なのだ。
光が収まったとき、そこにいたのは、やはりと言うべきか先程までとは別人のような風格を放つ者だった。
可愛いげのあった服装とはうってかわり、灰色に近く薄暗い色の、隠密に適したような装束。首から下で肌が露出している部分はなく、その様は暗殺者を思わせる。鮮やかだったはずの桃色の髪ですら明度を下げたように感じた。
『奴の神器はイシコリドメのもの。主とて侮れば喰われるだろう』
タナトスが淡々と宣告する。どうやらあの神器は〈イシコリドメ〉というらしい。
「〈イシコリドメ〉の神能は――」
とレインが聞くよりも早く、レインの腹をクナイが掠めた。
「ッ…………!」
接近を察知し体を捻ったのだが間に合わなかった。コートが裂け、その下のシャツさえ斬り裂いて血が滲む。ほんのわずかでも回避が遅れていれば致命傷だっただろう。
どうやら他に気を割いている暇はなさそうだった。互いに〈顕神〉を行使した今、その実力差は不明。
全力で臨まなければタナトスの宣告通り屠られるとレインも理解した。
ここからが本番だ。第零部隊の一員に対し、どれだけ戦えるのか。今こそそれを示すとき。
「…………ふっ!」
こうして、レインの試験が始まった。




