#20 新たな始まりの日
「春一! 起きてるの!?」
母さんの声と、ゴンゴンゴン、とドアノックの音が同時に響く。
「大丈夫、起きてるよ」
身支度はもう整っていた。
後は腕時計を嵌めるだけ。
空はやけに澄み切っていて、昨日を無かったことにするみたいに明るい。
ドアを開け、
「お早う、母さん」
「お早う。……珍しくきっちり起きたわね」
呆気に取られる母の顔は新鮮だ。
卓上の日捲りカレンダーを見遣ってから、ドアを閉じた。
──【4月2日】。
嘘が終わり、新たな始まりを告げる日だ。
「お早う、爺ちゃん」
「おお、お早う」
階段を下りると、食卓には既に朝食が並んでいた。
白米と味噌汁、それに焼き魚と豆腐。
祖父と向かい合って、共に朝食。
〈アメリカのニューマン大統領は、一昨日のイギリスのブラウン首相との会談について──〉
テレビのニュースと新聞に軽く目を通す。
「春一、何か良いことでもあったか?」
シンプルなメニューを黙々と喉の奥に流し込む間、祖父からそんなことを言われた。
「え?」
「昨日とはまるで雰囲気が違う。とても晴れやかで爽やかだ。今日の天気のように」
「そう、かな? ……うん、そうかもね」
昔から、気分が顔に出る男と言われてきた。
「今のお前なら、きっと良い一日が来るだろう。運の風はお前に吹く」
「人生最良の日になりますように」
学校に行くのがこんなに楽しみな日が、今まであっただろうか。
「行ってきます」
新しい朝の空気が、僕を温かく出迎える。
その辺を飛ぶ小鳥すら、今日という日を祝福しているようにさえ思える。
通い慣れた道をのんびりと歩くが、弾む足取りを抑え切れない。
歌でも一つ歌いたいような良い気分だ。
ほんの数ヶ月前までは、近所に住む幼稚園時代から続く友人たちと共に登校していたのだが──
「ほら、早く行くぞ!」
「お前ら、足遅いな~」
「急ぐなって。車とか来たらどーすんだよ!」
「ちょっと、待ってよ~っ」
すぐそこの曲がり角から現れたのは、四人組の小学生。
元気な姿を眺めながら、彼らも今日が始業式なのだろうか、などと想像してみる。
到着した星皇学院高校の校門前。
逸る足取りのせいで、昨日よりも少し早く着いてしまった。
彼女はどこか、と視線を走らせていると、
「──お早うございます、染井君」
聞き覚えのある声が背後から掛けられた。
「あっ、お早う、吉──……っ!?」
振り返った僕の両眼は、その瞬間に奪われた。
「奇遇ですね。丁度同じタイミングで到着するなんて。また運命を感じちゃいます。……染井君?」
顎ほどの高さで切り揃えられた髪が、春風を受けて微かに靡く。
レンズ越しにしか見たことの無かった瞳は、まるで穏やかな湖の水面のように、朝の光を浴びて煌めいていた。
何よりも、ふわりとした香りすら感じさせる柔らかな微笑み。
瞬きほどの時間ではあったが、目の前で挨拶してきたこの少女が誰か、本気で分からなかった。
「え? あ、いや……よ、吉野さん……で、合ってるよね?」
再び名を呼ばれて、ようやくハッと我に返った。
「はい。あなたの新しいお友達になれた、吉野仁香です」
あの美人ママが放っていた、見る者の目を醒まし視線を奪うような輝き、圧倒的な存在感を放つ「太陽」には遠く及ばず、どちらかと言えば地味な方だ。
しかし、桜の花の如く、儚く繊細な美を感じさせる。
飛び抜けた美貌よりも、こうした素朴で柔和な風貌の方が僕のような凡人の眼には優しく、心に癒しを感じる。
「その……随分と変わったね。見違えたよ」
「昨日帰った後で切りました。ついでにコンタクトにも替えました。……変でしょうか?」
切り揃えた毛先を吉野さんが、どこか気恥ずかし気に尋ねる。
ループが続けば、切った髪はまた元通りになる。
それはつまり、もう戻ることは無いと確信しての行為。
「そ、そんなこと無いよ。何というか……物凄く似合っている」
視線をやや下に逸らしながら、感想を述べる。
想像以上に素晴らしい変貌振りに、百点満点中、百二十点をあげたいくらいだ。
「ありがとうございます。決心した甲斐がありました」
こちらの桜も満開。
この世で僕だけに向けられた、香り立つ可憐な花弁だ。




