●リルケが伝えたかったこと ― 「ドゥイノの悲歌」「オルフォイスへのソネット」 ―
天才詩人リルケについては、クレッチュマーは次のような分析をしている。
非常に特異なのは、時おり精神分裂病者の縁すれすれのところを歩んでいた詩人ライナー・マリア・リルケが愛を感じるその様式である。最も強い自閉性の雰囲気の中で、つまりおずおずとみずからにひきこもる隠棲生活の雰囲気の中で、温室育ちの愛の形が発展する。その愛は自然な(あるいは標準的な)欲動の実現からますます離れていく。その愛は、ここでは高度な精神的スタイルにおいて、われわれが静かな分裂病質者に、臨床的に偏執的な「遠い愛」と名付けているものに相当する。
(留意:ここで言われている「遠い愛」とは、詩集「ドゥイノの悲歌」および「オルフォイスへのソネット」でリルケが明確に述べている「大いなるもの⊇真空点(天使、オルフォイスの歌声など)」に対する見返りを期待できない、あるいは見返りを求めない高い位置にある強い恋愛感情。この恋愛感情は一般的な信仰や性欲から生じる感情さえも凌駕する。)
このようなリルケの態度は、一面においてこれ以上凌駕できない程度の自閉性、つまりそれは人間の共同生活における最後の生命の拠点さえも失いかねないような自閉性の反映であり、活発な性的感覚が存在するにもかかわらず、健康な根本的本能を失って、自由に空間に浮かんでいるような一種の性愛的素質の表現でもある。言いかえれば、われわれが詩と宗教の分野における文化上の最高の業績の根源に繰り返し見出すのは、まさにそこで人間精神の最も繊細な花がしばしば開くのである。 ― ゲーテの愛の抒情詩においても時折り同じことがいえる。
■リルケの場合
われわれはここで分裂病の境界状態のさらに繊細な宗教体験に戻ってみると、急性の緊張病者の形而上学的な恍惚状態のほかに、絶えず進行していく予言者的人格の発展と並んで、とりわけ繊細で庇護の必要な、自己の内面に生きている分裂病質者を見出す。彼らは ― みずから心の絹を紡ぎながら ― 素晴らしい詩的・宗教的な思考の織物をみずから織り上げるが、それは完全に形成され、内的に体験された形態と象徴の豊富な汎神論にまで達している。
ライナー・マリア・リルケは、多年にわたって夢遊病者のように奈落の淵をさまよい、いつも分裂病性の破局の縁すれすれのところにあった。しかしヘルダーリンとは違って、完全に病気に落ち込むことはなかった。リルケの場合にはある期間、気分変調が起こるだけであったが、それは長年のあいだ苦しみ悩まされ続けた非生産性を伴うものであった。その気分変調は、不安感や無気味な感じや、時には幻覚の性質を帯びた魔術的なテレパシーが際立っていた。沈黙の約10年間は1922年以前の時期にあたる。このような病的な気分変調の前後に、生産性の極度の高揚が起こり、それは直接的な神秘体験や神体験を伴うものであった。 ― そしてその背後にはまた自分が脅かされているという感じ、すなわち不安と死がある。
これらの基本特徴は、すでに初期の『時禱集』の中で生み出され、ここではきわめて複雑な形象的象徴にもかかわらず、構造化されていて、文章の構成や思考の流れにおいても明白である。
次に、いったんピカソの事例を挟んでおく。
沈黙の続いた重大な危機の時期の後、晩年の生産性高まった時代には、しかし今や明白な文体の変遷が確認される。それは『ドゥイノの悲歌』や『オルフォイスへのソネット』に現れているとおりである。これらの作品においては、言語的結合と論理的結合とが次第にゆるみ、湧きあふれる形象的象徴によって置きかえられるようになる。 ― そして、これは全てのアーティストが目指すべき境地でもある ― 合理的な連結はますます下層知性的な処理によって置きかえられて行く。下層知性とは背景にある精神の流れのことであるが、それはリズムや言語旋律によって運ばれている。この自由にただよい、ひしめき合いながら頂を究めようとする彩色された象徴は、感受性の豊かな読者にも神秘的、魔術的な刺激を与える、それはただおぼろげに背後に感じ取られる意味によってなのであるが。この中には詩的価値がある。医師にとっては、だが、これらの象徴は、ヘルダーリンの後期の賛歌と同様に最も前面に押し出された精神的な危険地帯、つまり人間的実存の境界地域の信号がある。その場所には人間は崩壊せずに長い間とどまることができない。そこでは人格構造が解体の危機に瀕しているように感じられるのである。
「夜警の狂気」は歩きまわり、「子どもの頃の、表現を超えた巨大な不安」をよびおこす。
「子らは眠りにつき、
夢見ながら狂気の目覚めを聞く。
しかし犬たちは首輪から自らをひき放ち、
家々の中を歩きまわる。
そして狂気が過ぎ去ったとき、身をふるわせ、
狂気の帰り来るのを恐れる。」
すでに『時禱集』の中でこの「分裂存在」、この自我分裂は始まっている。そこでは人間はまとまった固有の自己を存続させることはもはや不確実であり、保護も境界もなく、外界の粗暴なもの、敵意あるもの、なじみのないものにゆだねられた存在なのである。
「私はばらばらになった。敵の手にかかって
この私は多くの破片に分けられてしまった。
神よ、すべての嘲り者が私をあざ笑い
そしてすべての飲み屋が私を飲んでしまった。」
会話では彼は時折り二役を演じているようであった。「私」のほかにもう一人、誰か「別の人」がそこにはいた。「ただ『私』だけと敢えていうなら、それは言い過ぎであったろう。」
そして肉体の諸部分が独り歩きしはじめる。
「なぜなら、すでに彼の右手は左手から離れたがっている、
阻止するためなのか、合図をするためなのか、
それとも腕に独り存在したいのか。」
そこには「自分の拡げられた手」があり、それは「水生動物のように、少し、下へ動く。」そして、自分勝手に手さぐりで探しまわる。突然、壁から別の手が迎えに出てくる。それは大きいが異常にやせた手である。「二本の拡げられた手はめくら滅法に動き、互いに重なり合う。」
それは名づけてみれば離人症というただ一つの名称しかない。つまり、現実の喪失、物と自己との関連の喪失のことである。
「人々は、私の、と言う。そして、わが持ち物と名づける。」
「そして彼らはその家の主人について何も知らない。」
「あたかも一人の愚かしい山師が
あるいは太陽や閃きを我が物、と名づけるように。
かくて彼らは言う。わが生命、わが妻、
わが犬、わが子。しかもよく知っている、
すべてのもの、すなわち生命、妻、犬そして子どもは
見知らぬ造り物で、めくら滅法に
彼らは、両手を拡げてそれに突き当たるのだ、と。」
すべては不気味で非現実的であり、いかなる愛の関係もない。不安とよそよそしさが満ちている世界である。「監獄のように、周りには全く窓のない壁が七重の環のように張りめぐらされている。門には鉄の留め具があり、外に出ることを望む人たちを阻んでおり、格子は人間の手でできている。」そこで彼が「自分から逃れようとする」と、それは「人を憎んで放さない牢獄」となる。
このように風変りで、見捨てられ、庇護を欠き、崩壊しながらも、この奇妙な人間は自己を抱えかつ包むもの、つまり彼が「神」(キリスト教におけるものとはちがうもの)と呼ぶものを絶えず手さぐりで求め続ける。そして、その求めていたものに『ドゥイノの悲歌』と『オルフォイスへのソネット』においてようやくたどり着いたのである。
リルケの躁うつ状態のダイナミックな変化に比べれば、ゲーテの周期的な躁うつ状態は穏やかである。ゲーテに繰り返し現れたその軽躁状態はゲーテ自身が言っていたとおり「青春を幾たびも経験する」ことであり、この精神的青春時代に名作をいくつも作っていた。生涯にわたって不死鳥のように何回も若返って傑作を断続的に生み出せたことがゲーテの名を不朽のものとした。多くの天才はゲーテのように何回も軽躁状態に入るか、ただ一度の激烈な、天雷に撃たれたような、場合によっては手のつけられない暴躁状態になってもおかしくない神がかり的な経験をする。このときに世界の歴史を塗り替えるような発見をすることが多い。一例をあげれば哲学者として知られているデカルトがそうである。数と形の関係をぼんやり考えていたときに、その2つを直接結びつけるアイデアが頭上から落ちてきて背中に電撃が走ったという。(意外に思われるかもしれないが、デカルトが新しい方法を発見するまで、ピタゴラスの定理のようなものは除いて数と形は別々に研究されていた。)独創的だが単純な方法であり、なぜそれまで誰も思いつかなかったのかというようなものであるが、車輪の発見がそうであったように歴史的発見とはたいていそういうものである。デカルトが発見したものは今日その形を整えられて直交座標系と呼ばれており、この発見によりデカルトの名は不朽のものとなった。
これに対してリルケのケースはとても珍しく、一般的な天才なら生涯で一度しか起こらない神がかり的な体験が二度起こった。これについてはすぐ後で詳述する。




