第41話 光の中で時間が流れていく
「幸せかもしれない。幸せと不幸って私の中では決めることが出来なくてね。人様のご縁には恵まれてるとは思ってるよ。
これは自分の場合だけどね、幸せになるとか求めてないんだよ。それって『感じるもの』だと思ってるのね。一瞬一瞬でもいいから。育ててた花が咲いてくれたわ、とか。おいしい玄米茶だわ、なんてね。
困った時も不快なこともあるけれどね、『今はそんな時期なんだ。休もう』って静かにしてるからね」
「私はずっと辛くて。
でも、そうですね。幸せになりたいって思うけれど、じゃあ何が幸せなのかっていうとわかりません。笑っていられたらそれでいいのかな」
「そうか、そうか。夏美ちゃんは今まで、いっぱい苦労してきたからね。安定したいんだよね。今まで味わったことがないことを求めたいんだ」
こんな人が、小さいころから自分の身近にいたらよかったのにな。だけど、それは「もしも」っていう非現実なんだよね。
私は胸が一杯で、今はもう話すことが出来なくなってしまった。それに、嬉しい。「自分の親を憎むなんて」って言われなくて。ここにも自分に寄り添ってくれようとしてる人がいて。
吉野さんがお茶のおかわりを用意してくれてる間に涙をふいた。
「夏美ちゃんが寝る場所だけど、一階の方がいい? 昼寝もしていいからね。自分の空間ってのが欲しいでしょ。それだと二階かな」
「上でも下でも邪魔にならないようにします」
「やだね、もう。お客様なんだから自分のこと『邪魔』だなんて言っちゃだめだよ。
ん? お客様ってより友達、娘みたいなもんだから。『おばさん』って呼ばないでね」
「ははは、吉野さんったら、おばさんって」
二階で体が大丈夫ならと、静かな上にした。布団はベランダに干していてくれてたみたいだ。
「夏美ちゃん、昼寝したいならこのまま敷こうか」
「はい。横になると寝ちゃいそうです」
夢をみるかもしれない。母親の・・・。だけど、少し体を休めよう。
大丈夫、彼女はこの家を知らないんだから。
”コトコトコト、いけない。お味噌汁が沸騰しそう。ふー、間に合った。いい匂いがする。
健吾さん、おまたせ。朝食です”
”ありがとう。ああ、美味しそうだ”
”卵焼き、失敗しちゃった”
”はは、いいよ。オムレツかな、炒り卵かな”
”ふふふ。恥ずかしい”
夢か・・・すてきな夢だった。こんなことが本当におこるはずないじゃないの、だから、「夢」。だけど、真実になればいいのにな。
目をこすり、体をおこすとさっきは青だった空が薄いグレーになっている。冬の夕方なんだな。
下におりていくと吉野さんが本を読んでいた。
「おや、夏美ちゃん。もういいの?」
「うん。私、夢をみたんです。今日のはとてもいい夢」
「どんなのかしらね」
「好きな人がいて。その人と笑って朝食とるの」
「いいね、そういうのって」
あんな朝がきたら、幸せだって感じるんだろうな。吉野さんは結婚してないけれど、今まで好きな人がいて楽しいことも辛いこともあったんだろうな。言い方が悪いけれど仕事柄、それに未婚でお子さんがいないってことは辛いことの方が多かったんだろう。それなのに、ううん、だから人に優しく出来るのか。
「吉野さんは本を読むの好きなんですか?」
「時間ある時に読むわよ。いいわね、本も。これもある意味、夢なのかしらね」
「私、ここにある本、読んでいいですか?」
「いいわよ。貴女は好きなの?」
「私、よく図書館に行ってました。母は新聞とってなかったから新聞も読んでたし、いろんな本読んで。好きでした」
「そうなの。大事な本は貸せないけど、なんなら帰る時に読みたいもの持って行っていいからね」
私は本棚の本をペラペラめくった。そっか、本屋さんに行って買ってもいいし、図書館探してもいいんだ。しばらく遠ざかっていたから読みたいな。
「7時前に食べに行きましょうか。
それから、明日の午前中は稽古があるから自由にしててね。
あっ、稽古の見学もしてもいいよ」
「はい。明日の気分で決めますね」
***
夏美さんは、あのクリーム色のストールを大切にしている。私はピンク色のものを。だけど、あの日、肩に羽織ったけれどやめてしまった。彼女のお腹を意識してしまったのね。流れなければ私もお腹が大きくなっていたんだから。
母をなくしたことだけじゃなくて、私は子をなくした。育ててもいないけれどショックは強い。まだまだ気持ちが落ち着いてないんだわ。
所属してる教会に足が向いた。ミサには気が引ける。あまり人がいない平日の昼前に。
透明な色のステンドグラスが明るいけれど出入り口付近は薄っすらと暗い。昔は木の造りでもっと暗かった気がする。その方が落ち着くような気もするけれど。
全然使ってなかったベールを頭に載せて十字をきって目を閉じた。
「どこに行くのかしらね」と母が、川に落ちて流れていく桜の花びらを見て呟いていた。
私はどこに行くんだろう。川も道も険しいけれど・・・なんだか生きていくのも険しくて進む道がわからなくなることがある。目の前のことは考えられるけれど何年先に自分がどうなってるのかっていうとわからない。最近、そう思うわ。
自分一人だけの問題はクリアしやすいけれど、そうじゃないことだと争ったりして。
我慢することなく、人を傷つけることなく自然体でいられることって恋愛や結婚だけじゃないわ。
my Lord・・・私の行く先をあなたに委ねます、my sweet Lord(私の主よ)
お腹の子をうしなった気持ち。きっと忘れなくてもいいわ。思い出したら泣いていいじゃない。思い出はセピア色のはかなくて美しいものばかりじゃないから。
苦々しかったり哀しかったり。そんな気持ちを忘れないからこそ、よろこびも美しさもわかるのよ。傲慢にならないように、卑屈にもならないようにって。
ありのままの感情を受け入れよう。
いなくなった私の子が父に会わせてくれた。あなたのママにはなれなかったけれど、哀しいけれど忘れるものですか、かわいい子。
冬でも光が眩しい時がある。それは私の心が感じるだけなのかもしれないけれど。
ちょうどお昼のミサの鐘がなり、人が増えてきたから足早に駅に向かい、パンや総菜を買って部屋に戻った。
夏美さんが吉野さんの所に行って一週間ほど経った。吉野さんに電話をしてみると最初の日の昼寝の時は好きな人の夢をみたとはにかみながら言ったらしい。北沢さんのことだわ。彼は二日に一度電話をしてくるようで完全に吉野さんにはわかっちゃったわね。
二人ともなんとなく「相手はもしかして・・・」ってわかってるんじゃないかしら。
「追いかけられる夢をみたんだってよ」
「毎晩かしら?」
「ほとんどそうだと思う。顔が大きくて誰だかわからないけれど男性が出てくるとか」
「吉野さん、彼女が怖がった時や悪い夢をみたと話した時に『今は安全な場所にいるから大丈夫』なんて言ってあげてくれるかしら」
やっぱり杉田先輩に詳しく相談した方がいいんだろう。だけど、夏美さんは妊娠してるしクリニックに行くとかえって意識しちゃうのかしら。
杉田さんに連絡をとると一度彼女について私から聞きたいと言ってくれた。明後日の昼に時間がとれるらしい。
杉田さんは、夏美ちゃんの気持ち優先だという。苦しくて自分からカウンセリングルームや精神科に行くのは人から言われてってことじゃないし。精神科は話を聴いてくれる所じゃないし今は精神安定剤の処方もしないだろう。
「PTSDだと思うわよ。真理ちゃんが言うように、悪夢をみない薬もフラッシュバックを防ぐ薬もないから。うつっぽかったりイライラや不安が強いならそれにあった薬、対処療法だし。認知行動療法なんかもあるけれど」
メンタルな病気は診断されたり受診することだけで気が楽になるって人もいれば、「どうしよう・・・」って混乱してしまう人もいる。
彼女は本人が望むなら今はプライベートで会って話を聴いていくってことは出来るらしい。
それから、一応、産婦人科の医師に伝えておいた方がいいだろうって。
「自己暗示的なことをするとか、そんな言葉がけ、体や指のつぼを抑えるとか呼吸法もいいかも。
今までためていたり抑えていた感情を出して、膿を減らすことがいいんだけど。
泣くのはとてもいいのよ。怒りもいいけど興奮しすぎたり怒りが止まらないと今度は自分が加害者みたいになっちゃうようで罪悪感感じるから、それだと要注意かな」
「彼女、好きな人がいるし、その男性も彼女の体験や心理には理解があるんです」
「その存在は大きいわ。信頼できる人が身近にいる方のは」
そうよね、夏美さんは北沢さんや吉野さんに心を開いてる。PTSDは完治する感覚がないものだから、気持ちの安定とか自分でコントロールできるようになるしかない。だけど人の理解は必要だから。
「ちょっと危ないのかな、って思ったり。なんでも遠慮なく連絡してね。
それから、真理ちゃんもね、研修や勉強会はいつでもできるから無理しないで。ゆっくりペースで過ごしてね」
「今日はありがとうございます。その彼にも話してみます」
「本人が知りたがってるようなら、言えそうだったら彼女に話してもいいかも」
竹田弁護士からの連絡で、夫とのことが決まった。これで縁が終わったんだわ。
荷物をまとめに行く日を弁護士さんに伝えてもらい、運ぶ業者の手配をした。宅配よりも一人用の引っ越しパックの方がお得なようだ。
作業してる間、彼は無言で窓の近くに行ったり台所で何か飲んだり落ち着かないようだった。
鍵を渡すときは私の顔を見ない。
「お世話になりました。体に気をつけて」
「ああ」
彼はこの先どうするのかわからない。料理はしたことがないし、台所にコップなんかがすでにたまってるようだ。洗濯は嫌でもしないといけないでしょうけれど。テレビにもほこりがかかって。私が心配することじゃないけれど彼の日常生活を想像した。
今は私はもどかしさと離婚成立ですっきりした気持ちだけれど、彼と知り合ってからのことやこの場所で暮らしていた流れていく時間。「ここに確かに私がいた」んだけれど。私の匂いが消えていく。
何年かあとには、お互いにひとつやふたつくらい良い思い出も出てきて懐かしくなるのかもしれない。
父に夫とのことを連絡しようか、北沢さんに伝えたいことがあると連絡しようかとコーヒーを飲んでる土曜日。
北沢さんから、夏美さんのお母さんが訪ねてきたというメールが入った。夏美さんに会いたい、渡したいものがあるのだと。数日、都内に宿泊するつもり、ここにはもう来ないかもしれないから警察に行って家出人捜索願いを出そうかと思ってるという。
彼の判断で「心当たりがあるから」と、今日か明日のうちにお母さんに連絡すると言ったようだった。




